2014年11月08日

『眠れる森の美女』ー第二幕オーロラのヴァリアシオンの違いから見える「バレエ」の奥深さ

800px-Sleeping_Beauty_-Prologue_-1890.JPG



明日から新国立バレエ団新シーズンの開幕を飾る
『眠れる森の美女』のニュープロダクションが始まる。

新国立劇場は1997年10月の開場記念公演として
『眠れる森の美女』を上演しているが、
この時はロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場の全面的な支援を受け、
同劇場が1952年以来上演しているセルゲイエフ版がかかった。

今回は、ロンドン・ロイヤルバレエで踊っていたウエイン・イーグリングの改訂振付ということで、
ロシア系ではなく、英国系の演出振付になるだろう。


『眠れる森の美女』に関しては、ロシア系の演出と英国系とではどころどころで違いがある。
ロンドンに伝わった『眠れる森の美女』は、ディアギレフのバレエリュス経由のものであり、
ロンドン・ロイヤルバレエの創始者であるニネット・ド・ヴァロワ自身、
バレエリュスで踊っていたということもある。
1939年に”Sleeping Princess” というタイトルで初演されている。
バレエリュスに振付譜を提供していたニコライ・セルゲイエフ(マリインスキー劇場の舞台監督でもあった)の舞踊譜と記憶に基づいて
バレエリュスが1921年にロンドンのアルハンブラ劇場で上演した『眠れる森の美女』を再現した。

第二次大戦後のコヴェントガーデンの再開記念公演でも
『眠れる森の美女』がかかり、
この時はニネット・ド・ヴァロワとフレデリック・アシュトンが共同で振付を担当した。
この版は最近2006年に舞台美術と共、コヴェントガーデンで復刻上演されている。
その版の第二幕の映像
https://www.youtube.com/watch?v=b2U27TdrBbw&list=PLobg54P1YodwN8bGHPMxYAdbt0Yb83heX&index=2

これが興味深いのは、1955年にフォンテーンが踊っている映像とほぼ同じ
(復刻版だから当然だが)
https://www.youtube.com/watch?v=T43yIY78fMg&list=PLobg54P1YodwN8bGHPMxYAdbt0Yb83heX&index=11

しかし、同じ踊りに見えない。当時とは踊り方もテンポも違う。
この二つの映像から、バレエの50年の変遷を感じる事もできる。


さて、
勿論、『眠れる森の美女』は、1890年にマリインスキー劇場で初演されたものだが、
1999年に初演時の演出振付を舞台美術などと共に復刻したセルゲイ・ヴィハレフによる版を見ると、
現在同劇場で上演されているセルゲイエフ版は初演時のものと比べて様子が大分異なる点もある。
なので、
1890年にマリウス・プティパなどによって振付られた原典『眠れる森の美女』と比べ、
現時点でのマリインスキーとロンドン・ロイヤルバレエのどちらが正しいとか、
間違っているとかは容易には決められない。

バレエ・ダンスは常にその時代とともに生きているので、
その時々のダンサーや振付家、また観衆の好み、上演される地域の文化などによって
様々に変化を遂げて行く。
そこがまた、バレエ・ダンスの興味深く面白い所でもあると思う。

現在上演されている、
ロシア系と英国系との違いは、ローズアダージョや第三幕のグラン・パ・ド・ドゥなどにも
微妙な違いはあるが、もっとも大きな差異は、
第二幕のオーロラのヴァリアシオンではないかと思われる。

英国系の踊り、新国立開場記念公演時の吉田都のオーロラ
(このプロダクションは先にも書いたようにマリインスキー・セルゲイエフ版であったが、ゲストの吉田都はロンドン・ロイヤルの振りでまた初日を飾った森下洋子はヌレエフ版で踊っていた。)
http://youtu.be/okiF6hFayfc?list=PLobg54P1YodwN8bGHPMxYAdbt0Yb83heX

一方、マリインスキー版では
http://youtu.be/e-a4HjwuuEs?list=PLobg54P1YodwN8bGHPMxYAdbt0Yb83heX
1989年のラリッサ・レジュニナ(彼女は2001年4月に新国立バレエにゲストとしてオーロラを踊る予定だったが怪我で実現しなかった)

吉田都の方は、冒頭で脚を交互に高く上げているが、レジュニナは片側しか上げないし、
音楽の再現部で吉田は再び脚を上げる振りを繰り返す。

実は、この吉田の振付は、現マリインスキー版によく似たものがある。
しかし曲は全く違い、しかもオーロラではなく、リラの精の第三幕冒頭のヴァリアシオンとして。
http://youtu.be/T_ijVNIPmgo?list=PLobg54P1YodwN8bGHPMxYAdbt0Yb83heX
ちょっと映像が悪いが、吉田が踊った同じ新国立開場記念公演での
菊地美樹によるリラの精のヴァリアシオン。


所が、このマリインスキーのリラの精のヴァリアシオンが
1999年にヴィハレフによって復刻された原典版では、
第二幕のオーロラのヴァリアシオンとして踊られていた。
以下の映像の冒頭から5分くらいの所から始まる。
http://youtu.be/TTRnMCS7Hec?list=PLobg54P1YodwN8bGHPMxYAdbt0Yb83heX
これはマリインスキー復刻版をアリーナ・コジョカルが客演して踊っている映像。
音楽も振付も、リラの精のヴァリアシオンそのまま。


なぜ、このようなことになっているのか、
バレエの世界ではよくある事でもあることだが、、、

一つの仮説として、
1890年にオーロラを初演したカルロッタ・ブリアンツァは、イタリアのダンサーだった。

xdfsd.jpg


当時、イタリアのダンサーは技術にすぐれ、ロシアやフランスに進出。
『白鳥の湖』が1895年にマリインスキー劇場で再演された際、
オデット・オディール(一人で白鳥、黒鳥の二役を踊ったのも彼女が初めてとされている)を踊った
ピエリーナ・レニャーニは、今では定番となっている黒鳥のグランフェッテを初めて回ったとされている。
ペテルブルクの宮廷バレエは伝統的にフランスバレエのエレガンスを基本としており
プティパもその伝統の中でバレエ監督をしていた。

ブリアンツァは、そのフランスバレエのエレガンスも身につけるよう努力したが、
原典版に採用されている二幕のオーロラのヴァリアシオン、
脚を高く上げる、あの振付は彼女の為にされたものかもしれない。

この変更に関して、
Roland. j.Wiley(ワイリー)はその主著 ”Tchaikovsky's Ballet” (1985)で以下のように述べている。

In the pas d'action (Act U),Aurora's variation(No.15b) was cut,and the Variation of the Gold Fairy from (No.23,Var.T )substituted for it.This change seems to have been made early, and for the ballerina, either as a result of her preference or because Petipa considered the interpolated music better suited to her gifts. The substitution required Drigo to refashion the end of the preceding number.


また、当時マリインスキーには、
イタリア人の男性名手エンリコ・チェケッティ(Enrico Cecchetti)も在籍し、
フランス派のプティパと振付や音楽の扱いで争いもあった。
「青い鳥」が彼に振付を委ねられたのも、そんな争いを緩和するためだったとも。

『眠れる森の美女』は、ペロー原作のフランスの話であり、
その根底にはフランスからロシアに伝わったエレガンスが流れているわけだが、
一方で、ヴィルティオーゾを誇るイタリア派のダンサーたちが
主役級に採用され、より高度な現代的テクニックを取り入れる事で
当時の最高水準のバレエとなったと言えるのかもしれない。

プティパとチェケッティの緊張関係が、
良い意味で、作品の質を押し上げたのだと思う。



オーロラは、その後1893年1月にはマリインスキー劇場のダンサー、
マチルダ・クシェシンスカヤが踊るようになり、
チャイコフスキーの原曲に戻され、
新たに振付がされたのではないかと、推測される。

Talisman_-Mathilde_Kschessinska_-Niriti_-1909_-4.JPG



興味深い点は、英国に伝わった振付が
原典版と現マリインスキー版との両方の要素が合わさったような、振付になっていること。

マチルダ・クシェシンスカヤは、「皇帝の愛人」と云われ、
革命後のソ連ではその痕跡が悉く消された。
例えば、
『ドン・キホーテ』の第三幕キトリのヴァリアシオンで扇子を持って踊る版は、
彼女の為に新たに振り付けられたとされ、ロシアではあの版は今は踊られないが、
英国ではそれが伝わっている。

この例からすると、
今現在、英国系で踊られているオーロラのヴァリアシオンこそ、
クシェシンスカヤの為のものであって、
現マリインスキーで踊られている版は、その型をやや残しつつ
新たにロシアで振付られたものかもしれない。

整理すると、第二幕のオーロラのヴァリアシオンは、
原典版(ブリアンツァ)→ 英国版(クシェシンスカヤ)→ マリインスキー版
という系統順で作られたとも推測される。

どちらにしても、今、上演されている
『眠れる森の美女』、
また明日から上演されようとしている新たな新国立バレエ版も、
こうした、先人たちの踊りを常にその古層にもっている伝統があり、
今ここで、私たちが見る、今のダンサーたちの踊りの先に
数々の踊り手と振付家の幻が浮かんでいるようにも思える。
今のダンサーたちは、音楽と振付の先に
先人たちを感じ、自らの身体と感覚との間に、緊張を作り出す。
きっと、そこに素晴らしいバレエが現れてくるに違いない。







Sleeping_beauty_cast.jpg
















   

posted by 星跡堂主人 at 00:44| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月27日

私の、見知っていた名古屋 栄町丸善、明治屋、丸栄

栄町の丸善は、本好きの父によく連れて行ってもらった。
ただここは理系の本の方が文系のものよりも揃っていたように思う。
これは単に名古屋という街の特性が反映されていたのだろうか。

しかし、丸善はもうなかった。
大きな空き地となっていた。
丸善の隣が明治屋だと思っていたが、
こうして空き地になってみると、
丸善ビルは、明治屋をぐるりとコの字型に取り囲んでいた事が分る。
思い起こせば、確かに丸善の内部は直角に折れ曲がっていた。
ただ当時は、あまりそういう事を意識しなかった。

所が、その囲まれていた明治屋も閉まっていた。
まだ建物は残っていたが。
ここは一体開発でもするのだろうか。

今後に関しての記事、未だ明確ではないようだ。
→ http://www.yomiuri.co.jp/homeguide/news/20140522-OYT8T50053.html


戦前の美しいファサードを持つ明治屋ビルがなくなるのは、
本当に詰まらないことだ。
東京と同じように無粋で経済優先の街の破壊は進むのだろう。
それが何を齎すか、名古屋の人も冷静に考えて欲しい。
そういえば、もう名古屋駅もなかったのだなあ。
父から「東洋一の駅」だと自慢された名古屋駅は
ただの高層ビルになっていた。
「駅」は街の顔であり、人々の記憶の源泉だ。
旅先から帰って、見る駅の姿は本来故郷の象徴であるはずだ。
東京は辛うじて、それを守った。多くの人の思いがそこに結集出来たからだが。

IMGP3587.JPG

裏側からみた明治屋
向こうの茶色い建物が明治屋
手前の空き地に丸善が建っていた。

名古屋丸善の歴史を詳しく紹介しているサイト
http://network2010.org/article/1024

http://www2.aasa.ac.jp/org/lib/j/issues_j/metomimi/archives/2012/06/entry_67.html



明治屋、広小路側のファサード
IMGP3565.JPG


1938年(昭和14)に竣工したこのビルは、
30年代に世界的に流行した新古典主義のスタイル、
要するに、元々は丸い曲線の柱の列柱を用いたグレコ・ローマンスタイルを
四角く鋭角的な列柱に代え、
垂直ラインをより強調し直線的なスタイルに仕立て上げた様式を用いている。
同時期のナチスの建築や現在のアメリカ連銀もよく似たスタイルだ。

ナチス総統官邸ファサード、1939年竣工

Bundesarchiv_Bild_146-1988-092-32,_Berlin,_Neue_Reichskanzlei.jpg

出典→ http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1c/Bundesarchiv_Bild_146-1988-092-32%2C_Berlin%2C_Neue_Reichskanzlei.jpg

FRB(アメリカ合衆国連邦準備銀行)のあるEccles Buildingのファサード、1937年竣工
1024px-Marriner_S._Eccles_Federal_Reserve_Board_Building.jpg

出典→ http://en.wikipedia.org/wiki/Eccles_Building#mediaviewer/File:Marriner_S._Eccles_Federal_Reserve_Board_Building.jpg



IMGP3586.JPG

真下から見上げたファサードは天に向かって垂直に昇って行くように見える。

こうした歴史的な様式を持つビルをいとも簡単に壊すのは、
結局の所、私たちの社会が歴史を忘却し、省みない象徴とも言える。

IMGP3566.JPG


正面玄関に刻まれている「MEIDI-YA CO.LTD」の文字

IMGP3585.JPG

閉店の告知


美しい階段ホール
IMGP3582.JPG

戦前のビルによく見られる螺旋階段の美しい曲線

IMGP3576.JPG


IMGP3574.JPG

照明のデザインもいいなぁ〜



ホールが曲線的な三角形に切り取られているのも優雅だ
IMGP3573.JPG




この明治屋の通りを挟んですぐ東側に村野藤吾設計の丸栄百貨店がある。
1953年(昭和28年)竣工
これはその西側側面のモザイクタイル、
西日が当たる時間だともっと色鮮やかに輝く
IMGP3568.JPG


特に上方向への垂直のラインがはっきりと分る
東側の側面
IMGP3592.JPG




こちらは名古屋一の目抜き通りである広小路側の側面(北側)、
垂直のラインが強調された格子上の、横への連続面がとても印象的
IMGP3602.JPG


IMGP3595.JPG


内部の黒い大理石にはめ込まれた
「丸栄」の屋号
IMGP3597.JPG

以前はこの屋号の近くに
「昭和28年の建築学会賞」受賞のプレートもあったのだが、
今回は見当たらなかった。

広小路通側のショウウインドウと柱
無くなった丸善が今はこの丸栄の内部に移転したようだ。
IMGP3563.JPG



さて、この丸栄の東側の通りを挟んだ所に
私の行きつけの喫茶店「びぎん」がある。
ごっちゃごちゃの看板の中に「珈琲だけの店びぎん」の小さな看板が見える。

IMGP3588.JPG


こちらが正面
IMGP3590.JPG


しかし、、、
IMGP3591.JPG

何と臨休だった、、、残念!
ここのネルドリップで入れた珈琲はいまや貴重な濃厚なアロマを漂わせ
カップの曲面を唇にあて、下へと流し込むと何とも言えない甘さを感じる。
東京でも今やこうした珈琲は少ない。
名古屋というと「モーニング」などと云われるが、
あれは名古屋の風習ではない。(一宮発祥)
丸栄が出来た時、昭和28年開店の
私のうちの喫茶店も「モーニング」はなかった。
びぎんのような名古屋の老舗が、いつまで遺っているか、とても心配している。


私の、見知っている名古屋は、
だんだんと亡くなって行く運命(さだめ)なのだろうかと、思うと
寂しさを禁じ得ない。
私自身が名古屋に忘れられて行くように思われてしまうからだ。




















IMGP3559.JPG





















posted by 星跡堂主人 at 18:41| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 名古屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月07日

私の、見知らぬ名古屋 その2「城山八幡」(末森城)をめざして

覚王山日泰寺墓所の「橘宗一少年」の墓所を後にして、
末森城の遺構の跡に勧請された城山八幡へ
その途上で、
日泰寺墓所内をよく見回すと、三十三カ所札所を現す石仏が沢山見られた。
観音の妙力に頼りたいという思いはいずこも同じ。

IMGP3426.JPG


IMGP3428.JPG


IMGP3430.JPG


IMGP3431.JPG


歴史の中で風化して、銘は読めないが、古いものは江戸期のものと思われる。


日泰寺墓所の中も起伏があるので、
より高い場所へと登る。

IMGP3454.JPG


すると、石像の群れに取り囲まれる。

IMGP3455.JPG

よく見ると「御嶽神社道」とある。
その方へ向かうと、
IMGP3457.JPG

鳥居の下に小高い山が築かれ、御嶽権現が祀られている。
御嶽権現は、雑司が谷の御嶽坂にも祀られている。
縁を感じる。
そして、このお社の周囲がまたの石像の群れ、
これだけ多く集められていると、中々壮観でありまた奇妙でもある。

IMGP3456.JPG


これは三十六童子
IMGP3465.JPG


よくこれだけ集めたなぁ〜と思いました!

IMGP3468.JPG

この風変わりな建物は、墓所の管理事務所のようです。
中々、立派で、良いデザインですね。


さて、
高い所に登ったので、そのまま尾根つたいに城山八幡へと南下しようとしたのですが、
さすがに山あり谷ありで、一度下がってしまった、
また崖のような坂があるので、兎に角そこを登ります。
IMGP3471.JPG

この道は、両側からもみじの緑が出て、中々美しい坂道です。
登った丘の上は、高級な住宅街でした。
IMGP3472.JPG


しかし、その先にはお城のような建物が見えます。

IMGP3477.JPG

う〜〜ん、やっぱりここは名古屋だっぁなも〜〜(^o^)
お寺の本堂さえも「名古屋城」にしてしまう。

お堂の前には、石仏がたくさん。
IMGP3479.JPG


石仏の前には、日本各地の札所を詣でた記念の石碑が並んでいます。
IMGP3480.JPG


IMGP3482.JPG

この聖観音は、中でも絶品でした。
銘は摩滅して読めませんが、江戸後期のものではと思います。


IMGP3485.JPG

こちらの三面六臂の馬頭観音さんも、お顔が愛らしい。



この丘から東の眺めると、遠くに東山タワーが見えました。
IMGP3490.JPG



さて、城山八幡は未だ先かと、先を急ぐ。
しかし、これが後の祭りで、、、
このお城のような建物、実はとても貴重で珍しい建物だったのです。
「大龍寺五百羅漢堂」
→ http://www.sukima.com/02_nittaiji99/11dairyuji_.html
ただの名古屋趣味の真新しいお堂にしかみえませんでした。。。。
IMGP3488.JPG


この記事によれば、近年修復したようで、
だからとても新しい建物に見えたのでしょう。
また、私の「名古屋」への先入観が、どうせ大したものではないという
勝手な思い込みをうんだようです。
「先達はあらまほしきもの」を痛感しました。

『尾張名所図会』(弘化元年 1844年 刊行)に載る「五百羅漢(大龍寺)」
→ http://www41.tok2.com/home/kanihei5/owari.html

もちろん、これは雑司が谷に帰ってから知ったので、
今更どうしようもありません。また名古屋に行く機会があればぜひ再訪したいです。


さて、尾根つたいに寺と住宅のある細い道を辿って行くと、
(これも後に知ったのですが、この丘陵は城山八幡から北へ伸びていて八幡だけでなく多くのお寺が集められている特別な丘陵でした)
さきに森が見える、こんな道にでました。
IMGP3491.JPG


さらに行くと、大きな二股に分かれた樹木
IMGP3496.JPG


IMGP3492.JPG

二股に分かれているので「連理の木」と云われる「アベマキ」とのこと。
ただ、現在蝕まれて養生中のようです。
IMGP3494.JPG



さらに森の奥へと進むと、
深い谷が見えます。
これこそ、末森城の空堀の遺構です。
IMGP3501.JPG



末森城(城山八幡)全体はこのようになっています。
IMGP3519.JPG

周囲をぐるりと空堀が囲んでいます。
地形としては、丘陵の南端にあり、北側は尾根が先に延びています。
(ここまで私が辿ってきた道)
なので、天然の要害の地に、さらに人工的な空堀を深く巡らせた堅固な城だったと思われます。


IMGP3534.JPG


天文十六年(1547)に織田信秀が古渡城からこの地に居城を移したと云われています。
信秀は天文十八年(1549)に亡くなり、その後は子の信行の居城となります。
柴田勝家はこの信行に仕えていましたし、お市の方もここに住んでいたと云われています。
弘治2年(1556)の稲生が原の戦いで、信行方は信長に破れ、
その後永禄元年(1558)に信行は清洲城内で誅殺されます。
私の実家は、稲生が原の戦いのあった地の近くでした。


城山八幡縁起と末森城の歴史が詳しく書かれているページ
→ http://www.shiroyama.or.jp/siroyama-3.htm#enkaku

南側(八幡正面)は
二段の丘になっていて、
IMGP3539.JPG

一段下ったとの境目に空堀があり、その堀にかかる橋

空堀の中から橋を見ると、
IMGP3544.JPG

空堀の中は、こんな感じです。
IMGP3541.JPG


本丸から一段下がった所からの南側の風景。
遠くに八事の中京テレビタワーが見えます。
戦国期には、ずっと先の三河の方迄、よく見えたと思われます。
IMGP3540.JPG


さらに一段さがると末森通りになりますが、末森通りからの階段
IMGP3545.JPG


IMGP3546.JPG

これだけの高さがあると、中々攻め難い平山城だったことでしょう。


南側正面(一番低い位置)から見上げた末森城(城山八幡)
IMGP3547.JPG



末森城を後にして、
末森通りを西へ、ここの辺は歩道が広くて快適な道です。
IMGP3552.JPG

 
池下の手前で、目的地の和菓子屋さんに到着。

IMGP3562.JPG

「梅屋光孝」
この小ぢんまりとしたお店の
かるかんと羊羹を合わせた「深山路(みやまじ)」を
→ http://www.max.hi-ho.ne.jp/piro/home.html
今回の名古屋再探訪の縁を作って頂いた方に
一竿お送りしさし上げました。










IMGP3521.JPG

城山八幡境内にあるお稲荷さん(豊玉稲荷)




































posted by 星跡堂主人 at 00:02| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 名古屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする