2014年09月27日

私の、見知っていた名古屋 栄町丸善、明治屋、丸栄

栄町の丸善は、本好きの父によく連れて行ってもらった。
ただここは理系の本の方が文系のものよりも揃っていたように思う。
これは単に名古屋という街の特性が反映されていたのだろうか。

しかし、丸善はもうなかった。
大きな空き地となっていた。
丸善の隣が明治屋だと思っていたが、
こうして空き地になってみると、
丸善ビルは、明治屋をぐるりとコの字型に取り囲んでいた事が分る。
思い起こせば、確かに丸善の内部は直角に折れ曲がっていた。
ただ当時は、あまりそういう事を意識しなかった。

所が、その囲まれていた明治屋も閉まっていた。
まだ建物は残っていたが。
ここは一体開発でもするのだろうか。

今後に関しての記事、未だ明確ではないようだ。
→ http://www.yomiuri.co.jp/homeguide/news/20140522-OYT8T50053.html


戦前の美しいファサードを持つ明治屋ビルがなくなるのは、
本当に詰まらないことだ。
東京と同じように無粋で経済優先の街の破壊は進むのだろう。
それが何を齎すか、名古屋の人も冷静に考えて欲しい。
そういえば、もう名古屋駅もなかったのだなあ。
父から「東洋一の駅」だと自慢された名古屋駅は
ただの高層ビルになっていた。
「駅」は街の顔であり、人々の記憶の源泉だ。
旅先から帰って、見る駅の姿は本来故郷の象徴であるはずだ。
東京は辛うじて、それを守った。多くの人の思いがそこに結集出来たからだが。

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裏側からみた明治屋
向こうの茶色い建物が明治屋
手前の空き地に丸善が建っていた。

名古屋丸善の歴史を詳しく紹介しているサイト
http://network2010.org/article/1024

http://www2.aasa.ac.jp/org/lib/j/issues_j/metomimi/archives/2012/06/entry_67.html



明治屋、広小路側のファサード
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1938年(昭和14)に竣工したこのビルは、
30年代に世界的に流行した新古典主義のスタイル、
要するに、元々は丸い曲線の柱の列柱を用いたグレコ・ローマンスタイルを
四角く鋭角的な列柱に代え、
垂直ラインをより強調し直線的なスタイルに仕立て上げた様式を用いている。
同時期のナチスの建築や現在のアメリカ連銀もよく似たスタイルだ。

ナチス総統官邸ファサード、1939年竣工

Bundesarchiv_Bild_146-1988-092-32,_Berlin,_Neue_Reichskanzlei.jpg

出典→ http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1c/Bundesarchiv_Bild_146-1988-092-32%2C_Berlin%2C_Neue_Reichskanzlei.jpg

FRB(アメリカ合衆国連邦準備銀行)のあるEccles Buildingのファサード、1937年竣工
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出典→ http://en.wikipedia.org/wiki/Eccles_Building#mediaviewer/File:Marriner_S._Eccles_Federal_Reserve_Board_Building.jpg



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真下から見上げたファサードは天に向かって垂直に昇って行くように見える。

こうした歴史的な様式を持つビルをいとも簡単に壊すのは、
結局の所、私たちの社会が歴史を忘却し、省みない象徴とも言える。

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正面玄関に刻まれている「MEIDI-YA CO.LTD」の文字

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閉店の告知


美しい階段ホール
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戦前のビルによく見られる螺旋階段の美しい曲線

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照明のデザインもいいなぁ〜



ホールが曲線的な三角形に切り取られているのも優雅だ
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この明治屋の通りを挟んですぐ東側に村野藤吾設計の丸栄百貨店がある。
1953年(昭和28年)竣工
これはその西側側面のモザイクタイル、
西日が当たる時間だともっと色鮮やかに輝く
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特に上方向への垂直のラインがはっきりと分る
東側の側面
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こちらは名古屋一の目抜き通りである広小路側の側面(北側)、
垂直のラインが強調された格子上の、横への連続面がとても印象的
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内部の黒い大理石にはめ込まれた
「丸栄」の屋号
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以前はこの屋号の近くに
「昭和28年の建築学会賞」受賞のプレートもあったのだが、
今回は見当たらなかった。

広小路通側のショウウインドウと柱
無くなった丸善が今はこの丸栄の内部に移転したようだ。
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さて、この丸栄の東側の通りを挟んだ所に
私の行きつけの喫茶店「びぎん」がある。
ごっちゃごちゃの看板の中に「珈琲だけの店びぎん」の小さな看板が見える。

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こちらが正面
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しかし、、、
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何と臨休だった、、、残念!
ここのネルドリップで入れた珈琲はいまや貴重な濃厚なアロマを漂わせ
カップの曲面を唇にあて、下へと流し込むと何とも言えない甘さを感じる。
東京でも今やこうした珈琲は少ない。
名古屋というと「モーニング」などと云われるが、
あれは名古屋の風習ではない。(一宮発祥)
丸栄が出来た時、昭和28年開店の
私のうちの喫茶店も「モーニング」はなかった。
びぎんのような名古屋の老舗が、いつまで遺っているか、とても心配している。


私の、見知っている名古屋は、
だんだんと亡くなって行く運命(さだめ)なのだろうかと、思うと
寂しさを禁じ得ない。
私自身が名古屋に忘れられて行くように思われてしまうからだ。




















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posted by 星跡堂主人 at 18:41| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 名古屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月07日

私の、見知らぬ名古屋 その2「城山八幡」(末森城)をめざして

覚王山日泰寺墓所の「橘宗一少年」の墓所を後にして、
末森城の遺構の跡に勧請された城山八幡へ
その途上で、
日泰寺墓所内をよく見回すと、三十三カ所札所を現す石仏が沢山見られた。
観音の妙力に頼りたいという思いはいずこも同じ。

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歴史の中で風化して、銘は読めないが、古いものは江戸期のものと思われる。


日泰寺墓所の中も起伏があるので、
より高い場所へと登る。

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すると、石像の群れに取り囲まれる。

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よく見ると「御嶽神社道」とある。
その方へ向かうと、
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鳥居の下に小高い山が築かれ、御嶽権現が祀られている。
御嶽権現は、雑司が谷の御嶽坂にも祀られている。
縁を感じる。
そして、このお社の周囲がまたの石像の群れ、
これだけ多く集められていると、中々壮観でありまた奇妙でもある。

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これは三十六童子
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よくこれだけ集めたなぁ〜と思いました!

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この風変わりな建物は、墓所の管理事務所のようです。
中々、立派で、良いデザインですね。


さて、
高い所に登ったので、そのまま尾根つたいに城山八幡へと南下しようとしたのですが、
さすがに山あり谷ありで、一度下がってしまった、
また崖のような坂があるので、兎に角そこを登ります。
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この道は、両側からもみじの緑が出て、中々美しい坂道です。
登った丘の上は、高級な住宅街でした。
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しかし、その先にはお城のような建物が見えます。

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う〜〜ん、やっぱりここは名古屋だっぁなも〜〜(^o^)
お寺の本堂さえも「名古屋城」にしてしまう。

お堂の前には、石仏がたくさん。
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石仏の前には、日本各地の札所を詣でた記念の石碑が並んでいます。
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この聖観音は、中でも絶品でした。
銘は摩滅して読めませんが、江戸後期のものではと思います。


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こちらの三面六臂の馬頭観音さんも、お顔が愛らしい。



この丘から東の眺めると、遠くに東山タワーが見えました。
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さて、城山八幡は未だ先かと、先を急ぐ。
しかし、これが後の祭りで、、、
このお城のような建物、実はとても貴重で珍しい建物だったのです。
「大龍寺五百羅漢堂」
→ http://www.sukima.com/02_nittaiji99/11dairyuji_.html
ただの名古屋趣味の真新しいお堂にしかみえませんでした。。。。
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この記事によれば、近年修復したようで、
だからとても新しい建物に見えたのでしょう。
また、私の「名古屋」への先入観が、どうせ大したものではないという
勝手な思い込みをうんだようです。
「先達はあらまほしきもの」を痛感しました。

『尾張名所図会』(弘化元年 1844年 刊行)に載る「五百羅漢(大龍寺)」
→ http://www41.tok2.com/home/kanihei5/owari.html

もちろん、これは雑司が谷に帰ってから知ったので、
今更どうしようもありません。また名古屋に行く機会があればぜひ再訪したいです。


さて、尾根つたいに寺と住宅のある細い道を辿って行くと、
(これも後に知ったのですが、この丘陵は城山八幡から北へ伸びていて八幡だけでなく多くのお寺が集められている特別な丘陵でした)
さきに森が見える、こんな道にでました。
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さらに行くと、大きな二股に分かれた樹木
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二股に分かれているので「連理の木」と云われる「アベマキ」とのこと。
ただ、現在蝕まれて養生中のようです。
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さらに森の奥へと進むと、
深い谷が見えます。
これこそ、末森城の空堀の遺構です。
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末森城(城山八幡)全体はこのようになっています。
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周囲をぐるりと空堀が囲んでいます。
地形としては、丘陵の南端にあり、北側は尾根が先に延びています。
(ここまで私が辿ってきた道)
なので、天然の要害の地に、さらに人工的な空堀を深く巡らせた堅固な城だったと思われます。


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天文十六年(1547)に織田信秀が古渡城からこの地に居城を移したと云われています。
信秀は天文十八年(1549)に亡くなり、その後は子の信行の居城となります。
柴田勝家はこの信行に仕えていましたし、お市の方もここに住んでいたと云われています。
弘治2年(1556)の稲生が原の戦いで、信行方は信長に破れ、
その後永禄元年(1558)に信行は清洲城内で誅殺されます。
私の実家は、稲生が原の戦いのあった地の近くでした。


城山八幡縁起と末森城の歴史が詳しく書かれているページ
→ http://www.shiroyama.or.jp/siroyama-3.htm#enkaku

南側(八幡正面)は
二段の丘になっていて、
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一段下ったとの境目に空堀があり、その堀にかかる橋

空堀の中から橋を見ると、
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空堀の中は、こんな感じです。
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本丸から一段下がった所からの南側の風景。
遠くに八事の中京テレビタワーが見えます。
戦国期には、ずっと先の三河の方迄、よく見えたと思われます。
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さらに一段さがると末森通りになりますが、末森通りからの階段
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これだけの高さがあると、中々攻め難い平山城だったことでしょう。


南側正面(一番低い位置)から見上げた末森城(城山八幡)
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末森城を後にして、
末森通りを西へ、ここの辺は歩道が広くて快適な道です。
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池下の手前で、目的地の和菓子屋さんに到着。

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「梅屋光孝」
この小ぢんまりとしたお店の
かるかんと羊羹を合わせた「深山路(みやまじ)」を
→ http://www.max.hi-ho.ne.jp/piro/home.html
今回の名古屋再探訪の縁を作って頂いた方に
一竿お送りしさし上げました。










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城山八幡境内にあるお稲荷さん(豊玉稲荷)




































posted by 星跡堂主人 at 00:02| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 名古屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月27日

私の、見知らぬ名古屋 その1「橘宗一(たちばなむねかず)少年の墓所」


父の法要のために名古屋に帰省した折に、
見知らぬ名古屋を訪ねてみた。

名古屋城のすぐ下で生まれ育った私にとって
栄町よりも向こうの東の丘陵地帯は、未知の場所が多い。
高校が東の丘陵地帯にあったので、
帰りに猫が洞池の辺を歩いた事はよくあったが、
いまだ知らない所ばかりかもしれない。


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名古屋の東側は、西側と違い、東京の山の手のような山あり谷ありの丘陵地帯。
東京の山の手が一本筋が違うと全く街の様相が異なるように、
そこもちょっと脇に入ると全く別の世界が広がる不思議な空間だった。
ここは名古屋なのだろうか?
私の知っている名古屋とは全く違う風景がそこにはあった。

きっかけは、
最近もらったある人からの手紙に「橘宗一少年」という文字を見たことだった。

遠い記憶の底から呼び起こされるように、その名前は静かに私の中に甦ってきた。
大逆事件?いやちがう、大杉栄と伊藤野枝だ、、、
関東大震災時に、後に満映を牛耳る甘粕正彦を初めとした憲兵に
虐殺された大杉栄、伊藤野枝、
たまたまアメリカから帰国していた大杉の甥、橘宗一、当時未だ7歳(満6歳)。

名古屋で彼の墓が発見されたということは、
遠い昔未だ名古屋に居た頃に、報道されたのを記憶している。
しかし、まだ若かった私は「虐殺」という言葉におののき、
そのことを深く考えようともせず、橘少年の墓に特に興味を持たなかった。


3.11以降の、昨今の世相の中で、
その方から「橘宗一」という名前が記された手紙を貰わなかったら、
名古屋を故郷として愛していながらも、
この墓に参じ祈る事もなかったかもしれない。


それにしても雑司ヶ谷霊園のように有名な方の墓のマップがあるわけでもない
日泰寺墓所で、その場所は分るだろうか?と、案じた。
調べてみると、日泰寺墓所は覚王山の日泰寺あるのではなく、
少し離れた自由が丘に近い辺にあるようだ。
自由が丘なら、本当に高校に通った道の近くなのに、
今日まで全く知らずにいたのだから、
知らないということの浅はかさを改めて痛感する。

Googleマップで見る限り、日泰寺墓所は相当に広い。
あの名古屋の夏の盛りに見つけられるものだろうか。

さらにネットで調べてみて、
「古書の森日記」のこの記事に辿り着いた
→ http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/51698110.html

言うまでもなく「古書の森日記」は、
惜しくも数年前に亡くなった黒岩比佐子さんのサイトだ。
彼女の遺著『パンとペン』は、
大逆事件から治安維持法という長い冬の時代をしぶとく生き抜いた
堺利彦の生き様を膨大な資料を蒐集して甦らせた労作だ。
(黒岩さんとお話する機会を持てなかったのは、私の最も惜しむことの一つだ)
この記事にある橘少年の墓所の写真、
この向こうに映り込んでいる寺院のような建物、これが場所を特定する決め手となった。


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橘宗一の墓石に刻まれた文字 

Mr.M.Tachibana/Born in Portrland Oro /12th 4 1917.U.S.A
吾人は/須らく愛に生べ志/愛は神なればなり/橘宗一

筆者注
「Oro」はたぶんオレゴン州の意味か、オレゴン州の現在の略称は「OR」。

「吾人は須らく愛に生べし」(私たちはぜひとも愛に生きなければならない)
というきっぱりとした呼びかけは、神への篤い思いを感じさせる。
この墓前に跪き祈りを捧げると、その思いが静かに伝わってくる。
丘からの風が緩やかに吹いてくる。


しかし、墓石の裏面を見ると、
あの有名な一句に出くわす。

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「大杉栄、野枝と共に 犬どもに虐殺さる」


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裏面の銘文
宗一(八才)ハ/再渡日中東/京大震災ノ/サイ大正十二年/(一九二三年)九月十六/
日夜大杉栄/野枝ト共ニ犬/共ニ虐殺サル
Build at 12th 4 1927. by S.Tachibana
那でし子を/夜半の嵐に/た折られて/あやめもわか奴/毛のとなり希理/橘惣三郎

筆者注
宗一は数え年でも七歳のはずだがなぜか「八歳」と記されている。
橘惣三郎は橘宗一の父、その詠んだ歌は、
「なでし子を夜半(よわ)の嵐に手折られてあやめもわかぬものとなりけり」と読める。
「なでし子」は、花の「なでしこ」と「愛する子」との掛詞。
「あやめもわかぬ」は、「はっきりと分らない」それほどの酷い状態だったということと、
宗一の母(大杉栄の妹)の名前「あやめ」との掛詞。


「吾人は須らく愛に生べ志」と刻んだその裏に
「犬どもに虐殺さる」、
さらに「あやめもわかぬものとなりけり」と、
「愛でし子」が「あやめもわかぬ」程の「モノ」となって帰ってきたと、
刻印せざるを得なかった思いの無念。

表のあの神の愛への思いがあればこそ、
この裏面の言葉が深く胸に迫ってくる。



「神思うことばのうらに虐殺と刻みし父の思いや如何」


墓前にはかわいい人形が手向けられていた。
僅かな慰めである。
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「橘宗一少年」を思い出させてくれた手紙の主と
黒岩さんに導かれて、ここに来ることができた。
その恩寵を深く胸に刻み、橘宗一少年に別れを告げた。

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黒岩比佐子さんのブログにも引用されていた
佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』の抜粋が一部読めるサイト
→ http://d.hatena.ne.jp/karatedou/touch/20110914

毎年9月15日に開かれている「橘宗一少年墓前祭」(このサイトは2009年のもの)
→ http://irregularrhythmasylum.blogspot.jp/2009/08/blog-post_29.html

橘少年の墓が発見された経緯が記されているサイト
→ http://saluton.asablo.jp/blog/2007/09/16/1801366








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posted by 星跡堂主人 at 21:59| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 名古屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする