2016年04月08日

4月8日、灌仏会の雑司が谷

4月8日、灌仏会、
花曇りの雑司が谷を歩く。

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 旧高田小学校の小径

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曲がりくねった道は、江戸時代のままの道筋

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この辺には、江戸時代には名主の屋敷があった。

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鬼子母神参道のけやき並木
残念ながら、年々痛みが酷くなっている。
江戸期に地域住民が寄付をしてできたけやき並木、
これからも守っていけるだろうか。
石畳がけやきの根を痛めているのは間違いない。
石畳をやめて、自動車の通行を禁止すべきだろう。

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鬼子母神本堂には向かわずに反対側へ下っていく。
この辺りでは、法明寺についで古い本納寺に出る。

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門前の御衣黄、本堂前のしだれ桜が美しい。

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このしだれ桜は、昨年枝を剪定した。
以前はもう一回りくらい枝が大きかった。
そのせいか、何となく樹勢が弱くなり、花の付きが悪くなったような気がする。

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それでも繊細で可憐なことには変わりがない。
余り人も来ず、門前も車がほとんど通らないので、
とても静かななかで、さくらと対話できる。
ほんとうに、心安らぐ空間。

日の光が僅かに射してくると、それに応じて花が微笑みだす。

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そうして、こうした一枝に出会える。

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苔の緑も美しい。
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しだれの下には、、、

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卵からふ化したおたまじゃくしが、、、



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枝の向こうに見える石塔は、雑司が谷の地誌を掘り起こした天明期の文人、
金子直コの供養塔。

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長らく忘れられていたこの金子直コの業績を掘り起こしたのは、
この寺の先先代の住職兜木正亨(かぶとぎ・しょうこう)と、
その同志、海老澤了之助、秋田雨雀らだった。
彼等は昭和初期から戦中にかけてこの本納寺で研究の場を開き、
金子直コや江戸期の雑司が谷日蓮宗寺院の歴史を明らかにした。
金子直コの墓所は、雑司が谷の本浄寺にあったが、今は無い。
そこで、本納寺の兜木正亨が昭和38年(1963)にこの供養塔を建てた。


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雑司が谷の先達たちの思いが、
この静謐な本納寺で耳を澄ませていると、微かながら私には聴こえてくるような気がする。


金子直コについて、以前書いた記事
http://zoushigaya.seesaa.net/article/385571868.html





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お散歩、おわり。































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2015年09月14日

金子直コ(かねこなおのり)

金子直コ(かねこなおのり)に関して、
以前、ジャングルブックスさんで会を持ちました。
その時の様子
→ http://jbooks.exblog.jp/18496672/

その時の記事を書いて下さっている「『へのさん』の本でいっぷく」
→ http://d.hatena.ne.jp/heno3ban/comment/20140120


その後、彼の有名な著作『若葉の梢』の写本を幾つか閲覧したので、
その情報も合わせて、ブログに載せました。

→ http://zoushigaya.seesaa.net/article/385571868.html?1441726727





posted by 星跡堂主人 at 20:29| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑司が谷 雑司ヶ谷 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月27日

第7回雑司が谷ぞうさんぽ「鎌倉街道から高田富士へ」

6月末に実施した
第7回雑司が谷ぞうさんぽ「鎌倉街道から高田富士へ」の内容と写真が
「雑司が谷ぞうさんぽ」のサイトにアップされております。
御覧下さいませ。
→ http://michikusa-walk.seesaa.net/article/400702874.html

「雑司が谷ぞうさんぽ」は、3.11の後、
改めて、雑司が谷地域の歴史とその良さを実地に歩いてみて
発見していこうとと、始まった「まちあるき」の会です。
posted by 星跡堂主人 at 13:47| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑司が谷 雑司ヶ谷 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月19日

金子直コ (かねこなおのり)ーー「雑司が谷」研究の先達ーー 覚え書き


金子直コーー寛延3年(1750)〜 文政7年(1824)ーー
明和年間から天明、寛政を経て化政年間まで
雑司が谷に居を構えた俳人、法華宗の大檀越。

幼名は竹次郎、成人してからは民次郎、貞次郎、理平次。
諱は直コ、後に眞コ。
号に宗周、杲山、兎丸、一相、白馬山人、紫磨子( しまし ) 、紫麻子。
家号は檟下舎(かげしゃ)、棣棠郷(やまぶこのさと)、重陰庵(ちょういんあん)など。
(「直徳」は図書館検索の多くで「ただのり」と読ませているが、
雑司が谷では「ただのり」と読むことはなく通常「なおのり」と読んでいる。)

金子直コ 事績年表
→ 金子直徳 年表.pdf

金子直コ 書誌年表
→ 金子直徳 書誌.pdf



(1)大田南畝との交友

金子直コは、大田南畝ー寛延2年(1749)〜 文政6年(1823)ーとほぼ同年を生きた人物で
牛込台に住み高田、雑司が谷にもよく遊んだ南畝とも交友があった。
(『鬼平犯科帳』のモデルとなった
長谷川宣以ー延享2年(1745年)〜寛政7年(1795)ーとも同時代人である。)


南畝が天明8年(1788)に刊行した
『高田雲雀』拾遺、
付記の稿(主に高田の地誌と大行院所蔵の小幡勘兵衛像、杉山日鑑像について記載されてる)は
直コから聞き書きして、補訂したと記されている。
早大図書館蔵本
→ 「http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_03797/

寛政年間に直コは主著『若葉の梢』(上巻寛政4年下巻同10年刊)を上梓するが、その序文に大田南畝の求めに応じて高田、雑司が谷の地誌をまとめたと記している。
南畝自身も『高田雲雀』の内容では不足であり、
それを大幅に増補するのは、金子直コをおいて他に無いと思ったのだろう。

 

(2)日蓮宗の大檀越

大田南畝が幕府御家人で様々な趣味人であったのに対して、
金子直コは、材木商で財を成し、それをもとに
雑司が谷他の法華宗寺院への寄進したり寺を再興した
大檀越という側面も強く持っている。
それを考えると、
直コの雑司が谷周辺の歴史への興味も、法華宗信仰の延長線上としてあったのではと思われる。

天明8年(1788)に雑司が谷鬼子母神前にある
本納寺に寄進した「三光天像」
→ http://www.honoji.or.jp/s_sankou.html

また、
雑司が谷鬼子母神から法明寺へと下って行く路の交差点には、
(場所B地点→ http://goo.gl/maps/k19ik
晩年の直コが建てた文化8年銘(1811)の
大きな題目塔が今も遺っている。

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この題目碑の側面に、
「当山三十四世大行院日樹」に依頼され
直コが法明寺の由来を記した。
雑司が谷法明寺が『吾妻鏡』に記載される「威光寺」で「源家祈禱所」であると記されている。
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しかし現在の考証ではこれは誤りとされている。
既に天保年間に『櫨楓』(はじかえで)を著した
雑司が谷の旧家の戸張苗堅は、この法明寺の由来記は
土地に伝わってきたものではなく、直コの創作だと批判していた。

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題目碑裏面に「金子小平次眞コ」と見える。
この塔は直コが還暦を迎えて発願したので、
還暦を機に「眞コ」という名も使ったのだろう。


直徳は、従来、雑司が谷では鬼子母神が中心と考えられていたのに対して、
法明寺を歴史的文脈に位置づけ、雑司が谷の価値の中心と据えよう意図していたのかもしれない。
また、この石碑の下(中)には銅板製の直コの祈願文があるとされている。

この題目塔の祈願文を『新編若葉の梢』(『初日山大日天堂妙法生寺伝記』に依る)から引用すると、
===================================================
南無妙法蓮華經 
久遠梵聲者、薩達摩分陀利迦蘇怛攬、今唐語譯音、妙法蓮華經、末法廣布七字題目、信為本尊、云々 東都雜司谷威光山法明寺寺門碑石ノ造立四聖六道、先祖法界、平等普利供養塔也、此妙塔成意趣、有元来一大願、曰宗祖大士三ヶ御遺教、日向承之、不至時而未成聽之年久、卽依之、身延山祖師堂常經講結、旣三萬部成就砌、奥ノ院建高三丈有餘ノ妙塔奉供養久遠佛滅後、末法流布ノ題目者、三寳三世十方分身佛四大士諸菩薩諸天番神等、奉謝大慈大悲ノ冥利報恩ノ微意ニ而、寛政三辛亥四月八日供養、九月説法アリ、是則、御遺示ノ其一を令成就處也、第二者、三大秘法ノ要尋、其不二ノ妙地、二十年漸得本國土妙、從是至文化五年辰十月再興願爲公訴時、因故障、又二十年我老衰六十二、露命難計、故一天地無二ノ妙地不偲拾、來歴書五巻本尊二幅佛像三體、家藏而待正時信聖也、此地、夫上總國夷隅郡麻綿原初日山大日天堂、高祖大士、宗建四格發聲ノ本國土妙ニテ、法門戒壇三秘一會ノ大靈場、大千世界最上ノ法地是也、故黄道正帯、寒暑ノ中、眞東頭最第一度、大乘妙國ノ日本出初照ノ地二、日光長點ノ妙法ヲ日種尊、敕上行菩薩、五々正中二、再誕日蓮大菩薩ヲ於此地、久遠塵點、三世諸佛ノ本懷ヲ開建シ、普ク十方法界ヲ救護シ給フ處也、此念願成就。妙法塔ヲ今生是其時ヲ奉所者也、
文化辛未九月廿五日建         妙法生主杲山一元謹書
赤胴板、此祈願文ヲ書テ塔の臺ノ石二納、裏二題目入記之、土用同刻二入ト也、幼名竹次郎、次に民次郎、貞次郎、又理平次と改名、

====================================================

(3)金子直コの出自

ところで、
直コの出自にはいくらか謎がある。
直コの父、車屋小平次は中山道沿いの宿場蕨の出身で
江戸に出て苦労して車屋を営んでいたとされるが、
『若葉の梢』を現代語に翻刻し直徳の事績を研究し
『新編若葉の梢』(1958)を著した海老澤了之助の調査によると、
蕨の金子家は、蕨を開拓した金子馬之助家忠を祖とする旧家で、
日蓮宗の菩提寺本法院には古い墓石が多く見られたらしい。

金子家忠が蕨市を開いたと説明する蕨市公式HP
→ http://www.city.warabi.saitama.jp/hp/page000001000/hpg000000973.htm
金子家忠について詳しいブログ
→ http://ckk12850.exblog.jp/5971585
本法院と隣接の春日社について紹介している蕨市のサイト
→ http://www.city.warabi.saitama.jp/hp/page000001400/hpg000001381.htm
蕨に現存する「金子塚」を紹介しているブログ
→ http://paralleli.life.coocan.jp/kofunblog2/?p=1987


なので、直コの父は相当な家出身とされているのだが、
一方で直コ自ら父小平次についてこのようにも記述している。
「賭博を好、裸にて年中くらせり。車を曳(く)を此の地の業とす。」
また恥辱を受けたら「其の怨に報づるに義を以し」と
手下と共に仕返しに殴り込みに行ったとも記されている。

海老澤了之助も、法華信仰の篤い文化人直コの父が、
本当にこういう人物なのか?と疑問をもったのかもしれない。
『新編若葉の梢』には、
雑司が谷の旧家宮城家の過去帳から
車屋小平次に養子として入った人物があることを示し、
これが直コその人かもしれないと、一考を案じている。

鳶が鷹を生んだのか、
それとも旧家からの養子だったのか、
父金子小平次と直コの関係の謎は遺る。
(勿論、江戸期には養子はごく普通にあったことで
養子だから親子関係が異なるという感覚は今ほど無かったと思われるが。)

直コと父小平次が建てた
雑司が谷本浄寺境内に遺る「宗祖五百遠忌報恩供養塔」 安永九年銘(1790)
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本浄寺は、金子家の菩提寺でもあったらしいが、
今は墓所は遺っておらず、この供養塔だけが建っている。


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台座には「発起 金子民次郎 金子小平次」 とあり、横には「金子登世女」ともある。
「登世」とは同じ年に直コが身延山に寄進した大相輪塔の背面下段銘文に
金子理平次 同 妻 登世女」とある、直コの妻と思われる。


父との関係がどうであったかは別として
直コと父小平次が共に、法華宗の篤い信徒であったことは間違いなさそうだ。



(4) 俳人としての直コ

さて、
文献上に、直コの名が初めて見られるものは、
天明4年(1784)に刊行された俳諧作法書『杉家(風)俳則』である。
このとき、直コ35歳。
直コの俳諧の師は二世白兎園宗端で、
白兎園は、芭蕉の弟子杉山杉風を受け継ぐ一座である。
二世は、水戸藩士で広岡戸太夫、目白台に居を構えており「白眼臺」とも号した。
墓所も金子家と同じく雑司が谷本浄寺にあったが、現存しない。
金子家の墓所が本浄寺にあったのも二世との縁かもしれない。
直コの主著『若葉の梢』の題も
二世の「雑司ヶ谷目白高田の若葉かな」によっている。

杉山杉風について詳しいブログ
→ http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/sanpu.htm
→ http://www.sakanaya.co.jp/history/03_07.html
→ http://www.bashouan.com/pfSanpuu.htm
白兎園宗端
→ http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/souzui.html
二世白兎園宗端
→ http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/jousyuu0.html


『杉家(風)俳則』
上巻は二世の『杉風随聞抄』から抜き書きしたものを直徳が補訂、
下巻は俳諧付け合いの指南書として直コが新たに選定したものである。
早大図書館蔵本
→ http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko18/bunko18_00606/index.html



直コは、
他に目白富士見茶屋を顕彰した選集『富士見茶家』(刊行年不明)を選んでいる。
早大図書館蔵本
→ http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_04939/index.html

さらに句碑などをいくらか建立しているが現存するものは2つのみである。
目白の富士見茶屋には、文化7年(1810)に
芭蕉の「目にかかる時や殊更五月富士」の句碑を建てた。
これは学習院内に現存している。
→ http://news.livedoor.com/article/detail/6362242/


鬼子母神出現の地である清土お穴の鬼子母神には
文化9年(1812)に
芭蕉の「此道に出て涼しさよ松の月」の句碑を建てている。

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句碑は、現在「星蹟」の井戸(屋根で覆われた下に三角の井戸がある)のすぐ横にある。



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筆跡は直コ自筆と云われている。


背面に「文化九年壬申九月」の銘と直徳の俳号「杲山一元」とみえる。
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お穴の鬼子母神堂
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寛政3年(1791)には関口芭蕉庵に
師二世宗端の遺志を継ぎ風羅堂を建立しているが、
残念ながら、これは現存していない。


(5) その他の著書

法華宗関係の著書

・『甲州路諸霊場 延嶺往詣順導記』 天明8年(1788)
  ( こうしゅうじしょれいじょう えんれいおうけいじゅんどうき )
  江戸雑司谷車屋小平次蔵版(早大図書館蔵) 
→ http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ha04/ha04_02722/index.html

・『身延往詣金地順尊記』  天明8年(1788)
  ( みのぶおうけいこんじじゅんそんき )(玉川大学図書館蔵)

・『上総国夷隅郡麻綿原初日山大日天堂妙法生寺傳記』 文政6年(1823)
 (かずさこくいすみぐんまめんばらはつひさんみょうほうしょうじでんき)
  建長5年(1253)に日蓮が朝日に向かい「南無妙法蓮華経」と初めてお題目を唱た地にあった
  寺を直徳が再興した際にに記した縁起の一部
 (千葉県勝浦町龍蔵寺蔵、第四、五巻のみ現存)  

・『増補紺園順導記 東江都鄙五百余寺房総霊場之行程略』
  ( ぞうほこんおんじゅんどうき とうこうとひごひゃくよじぼうそうれいじょうのこうていりゃく )
 (無窮会神習文庫蔵)



『若葉の梢』の諸本
(『新編若葉の梢』1958年当時のまとめによる)
・若林鶴雄旧蔵本 善本だったが紛失。

・兜木正亨旧蔵本 宮城寛太郎所蔵本が兜木正享に寄贈され現在は早稲田大学図書館所蔵を確認。
『若葉の梢』(和佳場の小図絵)
早大図書館蔵本→ http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_04407/index.html

・上野図書館所蔵本 現在国会図書館が所蔵しているものと思われる。

・日比谷図書館所蔵本 『新編若葉の梢』編集当時、図書館整理中のため見られなかったとある。海老澤了之助によれば、挿絵も多く金子直コ自筆本ではないかとしているが、現在日比谷図書館にはなくどこにあるか不明。

・都政資料館所蔵本  現在、東京都公文書館が所蔵しているものと思われる。 
「市史編纂室蔵書」ラベルあり。「市史編纂用典籍記」「東京市史編纂委員会印」竪帳(東京市写本)

これら以外に、
現在、私が確認したものに武蔵野市中央図書館が所蔵している
版本「和歌葉之小圖画」2巻本がある。
これが以上の諸本と同じものか別系統のものかは調査中だが、
この本は、挿絵等綺麗な状態で残っている。
兜木正亨旧蔵で早大図書館に寄贈した本と、同じ系統と思われる。


一方、
現在「国文学研究史料館」のデータベースによれば、
さらに多くの諸本が見られる。
これらは大まかくまとめると、
三冊本、二冊本、一冊本とあるようだ。

・三冊本系(これは「文化八年」の増補『若葉抄』と同じ系統)
 ・大東急文庫蔵本(目録に「増補本」とある)
 ・無窮会神習文庫本 → http://www.mukyukai.jp/lib/index.html
 ・学書言志軒本(関西大学図書館)
 ・東京大学図書館本(六册本とあるが三冊本の分冊か)

・二冊本系
 ・早稲田大学図書館本
 ・東京大学図書館本(東大は六冊本と二冊本の両方を蔵書)

・一冊本系
 ・国会図書館本
 ・東京博物館本(江戸末期写本)
 ・東京都公文書館本
 ・大東急文庫本(江戸末期写本、東急も三冊本と一冊本の両方を蔵書) 

このうち、
国会図書館、東大図書館、早大図書館、大東急文庫の本は、閲覧した。

その結果、
・『若葉の梢』増補版六冊本の『若葉抄』
国会図書館、東大の六冊本や他の三冊本も全て文化八年(1811)の増補本『若葉抄』で
同系統の本と思われる。
この『若葉抄』は、『豊島区史 資料編三』に抄録されている。

国会と大東急の一冊本と、東大、早大、武蔵野中央の二冊本も
同じ系統のもので、これが初版の『若葉の梢』と思われる。

現在、その後の調査も続けている。

その他の著作
・『雑司ケ谷里諺 』( ぞうしがやさとのことわざ ) 「紫鹿の子直徳」と記されている。
(岩瀬文庫蔵 写本) 『豊島区史 資料編三』に翻刻





参考文献
・『新編 若葉の梢』 海老澤了之助 編(1958年)

・『雑司谷若葉集』 (1939年)
http://ouraiza.exblog.jp/6989254/

・『續雑司谷若葉集』 (1940年)
http://ouraiza.exblog.jp/11071428/













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2013年05月06日

新緑の雑司が谷



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五月の雑司が谷、一番新緑が気持ちいい季節になりました。
都電鬼子母神前から鬼子母神本堂に至る参道
通称「けやき並木」は東京都指定の天然記念物。
江戸時代に地域の名主長島氏が寄贈したとされ、
長い歴史を持っています。
かつては、両側は門前茶屋で賑わっていました。
夏目漱石の祖父は、この茶屋の酒宴の席で頓死し、
幕末には、彰義隊結成の会合が開かれました。


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鬼子母神までの間、
ただ通るだけの人が多いですが、
ここでしばし、歩を休め、
樹々にざわめきや風の薫を味わう。
雑司が谷の最も生き生きとした時が、必ず訪れます。


しかし、最近は弱った樹々が目立って来ました。

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この写真左の黒々とした大樹は、既に枯れ死しています。


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現存の樹ではもっとも大きなけやき

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人の大きさと比べてみて下さい。

大樹の根は、その高さを同じくらいの拡がりをもち、
地中に大きく張っています。
けやき並木の樹々の根は、道路の地下にもあるのです。
そして、
その上を自動車がびゅんびゅんと走る。
根は自動車が通るたびに軋み痛めつけられています。

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迂回路もあるたかだか数十メートルの参道、
それさえも通行止めにできず、
天然記念物を守れない、私達の社会とは何なのかと、思います。

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参道の突き当りを左へ折れると、鬼子母神堂が正面に見えてきます。

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この時期だと午後4時から5時くらい
本堂の向こうに夕陽がしずみ、お堂に後光が射します。

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入り口には、石造りの仁王像
阿形、吽形
これは江戸時代のものと思われ、周囲の玉垣には安政4年の銘があります。

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仁王像の手前には古い寛政年間の石灯籠。
本堂にかけてもっと古い元禄年間のものもありますが、
この灯篭には、石工の名前が刻まれています。

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さらにその傍らには、お百度石

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こちらも天然記念物に指定されている
樹齢600年余りの大銀杏

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この大樹は、オスですが、
この樹に抱きつくと子供を授かるという伝説が江戸時代後半に生まれました。
鬼子母神をお祀りするお堂と、大銀杏の伝説。
子どもや女性たちに長年信仰されてきた歴史が、
今も境内に穏やかな雰囲気をたたえます。

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咲いた銀杏の花が根本に綺麗に散っていました。

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大銀杏と鬼子母神堂の間には
日本で一番古い、
江戸時代安永年間(1780年代)からある駄菓子屋さんがあります。

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脇には、武芳稲荷
元々、この土地は「稲荷」があって、
そこに江戸時代の寛文4年(1664)鬼子母神堂が築かれたと云われているので、
この稲荷のほうが歴史は古いのかもしれません。

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大銀杏の周りを巡るように赤い鳥居が連なっています。

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雑司が谷の新緑は、もちろん、これだけではありません。
弦巻通りの旅猫雑貨店から雑司ヶ谷霊園へと登る坂の脇には
江戸時代の大久保家の屋敷にあったと云われている椎木が残っています。

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その坂を登って行けば、
雑司ヶ谷霊園です。

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今も直線状に並び
江戸時代の屋敷林の名残が感じられる
雑司ヶ谷霊園のケヤキ並木









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2012年10月13日

「雑司が谷のいいとこ」写真、募集しています〜!(「わいわいぞうしがや」さん主催)


10月末〜12月末まで「雑司が谷案内処」で
「雑司が谷のいいとこ」写真展が開かれます。
この写真展は、日本女子大学の学生さんたちが中心になって活動している
「わいわいぞうしがや」さんが主催しています。
→ yyzoshi.exblog.jp

この写真展にはどなたでも参加できます。
雑司が谷の「いいとこ」!を見つけた写真を撮った!
または、撮ってみたい!!という方は、ぜひご応募下さいませ。

できれば、詞書(短い文章)も、添えていただけるとよろしいようです。
(文章は詩のような自由な形式でも結構です。)

応募方法
1 写真のタイトル
2 写真についての文章
3 撮影者の氏名、住所(任意)

応募先
yyzoshigaya@gmail.com
〆切は 10月21日 です。





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