2013年11月15日

日本で「火の鳥」を初めて踊ったダンサー ノラ・ケイ(Nora KAYE)

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1954年の小牧バレエ団公演のパンフレットに掲載されていた
「ライラック・ガーデン」の写真


ノラ・ケイの若い頃のこんなプラーヴェート映像がある。
ニューヨークで1948年に撮られたもの。
http://www.youtube.com/watch?v=sU_1LsIPFXs&list=FLA4xnoi-izE7Fii4iIT18QQ&index=1

3分くらい経過した所で、
ショートカットの女性が街角を歩いてくる、これがノラ・ケイだ。
その後、眼鏡をかけてやってくるのは
当時既に「欲望という名の電車」で評価されトニー賞を得ていた女優ジェシカ・タンディ、
ジェシカをエスコートしているのが夫ヒューム・クローニン。
ノラとジェシカ、二人がたわむれに踏むステップが愛らしい。
http://www.youtube.com/watch?v=sU_1LsIPFXs&list=FLA4xnoi-izE7Fii4iIT18QQ&index=1


小牧正英も述懐しているが、
ノラ・ケイは、とてもさばけた現代的な女性だった。
その印象がこの映像からも伝わってくる。
この年、彼女はアグネス・デ・ミルの「フォールリバー伝説」を踊り
ドラマチックダンサーとしての名声を更に高めていた。


ノラ・ケイの経歴
1920年にニューヨークで生まれだが、両親はロシア人。
本名は Nora Koreff 。
父はあのスタニスラフスキー・システムのモスクワ芸術座の俳優で、
ノラ・ケイの「ノラ」は、イプセンの『人形の家』のヒロインに因むらしい。
彼女も最初は女優を目指したが、
スクール・オブ・アメリカンバレエで、ミハエル・フォーキンの薫陶も受けた。


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ノラ・ケイの踊る「ペトルウシュカ」の踊り子


1935年15歳でバランシンのアメリカンバレエにコール・ド・バレエとして入団。
1937〜39年にはブロードウェイのミュージカルにも参加。
1939年19歳の時、バレエシアター(後のABT)の創立とともに参加。
1942年チューダーの『火の柱』のヘイーガー(Hagar) 役をクリエーション(初演キャスト)して注目される。

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ポール・シラードと共演した「火の柱」(1942年)


1948年アグネス・デ・ミルの『フォールリヴァー伝説』の被告人をクリエーション。
1949年「ジゼル」、バランシンの「テーマとヴァシエーション」を踊る。
1951年 NYCBに参加、ロビンスの「檻」をクリエーション。

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ロビンスの「檻」(1951年)


1954年頃、バレエ団活動を一時休止しその時期に来日している。
1955年からはまた復帰し、
Valerie Bettisが振り付けた「欲望と名の電車」のブランチを踊っている。

こうした経歴から
彼女の評価は、まさに現代的なドラマチックダンサーとされている。
革新的なダヌンチオ女優だったエレオノーラ・ドゥーゼに準えられ
”Duse Of The Dance”とも称された。

1987年2月に亡くなったときの追悼記事
→ http://articles.philly.com/1987-03-02/news/26220611_1_mille-s-fall-river-legend-lilac-garden-abt


小牧正英の回想によれば(『バレエと私の戦後史』1977年)、
昭和29年の公演の成功のより、
翌年にはバレエシアターとともにの来日公演が計画されたが、
ノラ・ケイとのスケジュールが合わず計画は挫折したとあるが、
ノラ・ケイ自身がアメリカでのバレエ活動に本格的に復帰した事が、その理由だったと推測される。



ノラ・ケイが主演したバレエ作品の映像

「檻」Cage (音楽はストラヴィンスキー「弦楽のための協奏曲」)
オスの虫がメスの虫に滅ぼされるものだがノラ・ケイのエロチックな表現が評価された。
昨年2012年にNYCBで再演された時の、Wendy Whelan による紹介映像
http://www.youtube.com/watch?v=JqLmH-f9VOw


「火の柱」 Pillar of Fire (音楽はシェーンベルク「浄められた夜」)
デーメルの詩に依る、若い女性の心理と人間関係を描いた心理バレエとして評価されている、
1973年のABTでの全幕映像
http://www.youtube.com/watch?v=Iqgrad-SM6Y


ダンサー引退後は3度目の夫(2度目はアイザック・スターンだった)
映画監督ハーバード・ロスの作品のプロデューサーなどを勤めている。
バリシニコフが出演した有名な映画
「愛と喝采の日々」”The Turning Point” (1977)も、そのひとつだった。



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posted by 星跡堂主人 at 00:01| 東京 ☁| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月11日

新国立バレエ団「火の鳥」によせてー「優雅な冷たさ」ー 〜米沢唯、手塚治虫、ノラ・ケイ、三島由紀夫をめぐって〜

新国立バレエ団の今シーズンの開幕を飾るバレエリュス、三本立て、
今シーズンからプリンシパルに昇格した米沢唯が、産經新聞の取材で
「火の鳥」の役作りに関してコメントしている。

その中で、手塚治虫の『火の鳥』に言及して
「人を破滅させる力すら持つ、不死鳥のイメージです。今までははかなげな役が多かったので、力強い新たな顔をお見せしたい」と、役作りの方向性に影響を受けたことを述懐している。
→ http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131027/ent13102713210007-n2.htm



米沢唯が影響を受けた手塚の「火の鳥」について
手塚治虫自身は、そのエッセイ「『火の鳥』と私」(1969年12月、初出の文章)で以下のように述べている。
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  昭和二十九年に『漫画少年』に連載していた「ジャングル大帝」が無事に完結して、そのあとどういうものを描いたらよいのか迷っていたときでした。
 ぼくはある劇場で、ストラビンスキーの有名なバレエ「火の鳥」を観ました。バレエそのものももちろんでしたが、なかでプリマバレリーナとして踊りまくる火の鳥の精の魅力にすっかりまいってしまいました。
 火の鳥の精は、悪魔にとらえられた王子を救うために、出発する王子の案内役をつとめる鳥で、ロシアの古い伝説なんだそうです。その情熱的で優雅で神秘的なこの鳥は、レオに匹敵するドラマの主人公として最適のように思えました。
 そういえば、どの国にも、火の鳥のような不思議な鳥の存在が伝説としてのこっています。蓬莱山伝説にあらわれるホーケーという鳥、あるいは不死鳥とよばれている一連のいいつたえなどに、なにか超自然的な生命力の象徴を鳥の姿に託したような感じがします。
 どんなに歴史が移り、時代が変わっても、常に冷静に人間をみまもっている。それは「ジャングル大帝」の主人公が全部死んでしまったあとでも、依然として変わらぬアフリカの自然のように、物語の象徴として絶好なものでした。

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昭和29年(1954)に手塚が観たバレエ「火の鳥」とは、
小牧バレエ団にゲストとして来日していた
ノラ・ケイ(Nora Kaye)の踊った火の鳥だと推測される。

実は、この公演は日本に於けるバレエ「火の鳥」の初演だった。
この時のプログラムは、アントニー・チューダーをノラ・ケイと共に招くことで
チューダーが振付、初演時(1940年)にノラ・ケイが「愛人」を踊り、
後の1943年に主役キャロラインを踊って絶賛された名作「ライラック・ガーデン」と、
この来日公演のためにチューダーが振付けた「カフェ・バァ・カンカン」の三本立て。


当時、トキワ荘の手塚の部屋に入居することを願うために、
手塚が執筆していた飯田橋の学童社を訪ねた藤子不二雄Aは
昭和29年10月4日の日記に次のように記している。
「三時、先生(注、手塚)一段落つき、ノラ・ケイさよなら公演にいくため、
どれ、と立ち上がった折り、一気呵成にお願いする。『トキワ荘に入らせて下さい。よろしくお願いします。』」

藤子不二雄は、手塚治虫がノラ・ケイの公演を見るために仕事を打ち切ったその時に
トキワ荘への入居を勇んで頼んだわけだが、(この後手塚のトキワ荘の部屋の後がまになる)
この記事から、
手塚治虫が、昭和29年10月4日のノラ・ケイの公演に行ったことがはっきりする。
この10月4日の公演は、
この年に行われた小牧バレエ団とノラ・ケイの公演の最終日にあたる。


ノラ・ケイは、前年の昭和28年(1953年)にポール・シラードと共に初来日。
11月10日の宝塚大劇場での公演を皮切りに25日の日劇まで小牧バレエ団と
『ジゼル』の全幕を踊っていた。
(『ジゼル』全幕は前年の1952年7月15日に松尾明美バレエ団によって日本初演されている)
それが大変好評だったため
翌、昭和29年には、アントニー・チューダーと共に来日。
まず7月29日〜31日までの「歓迎公演」で
『白鳥の湖』全幕を日比谷公会堂で小牧バレエ団と上演、大好評を博した。

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ノラ・ケイの白鳥、王子は小牧正英


ノラ・ケイの詳しい経歴に関してはこちらを参照されたし。
→ http://zoushigaya.seesaa.net/article/380249357.html


『白鳥の湖』全幕から一ヶ月後、
手塚が見たと思われる
「火の鳥」、「ライラック・ガーデン」、「カフェ・バァ・カンカン」の三本立てを
8月25日〜30日までの8公演を日劇で
大阪北野劇場で9月13日〜17日までの7公演、
東京日劇に戻っての9月30日〜10月4日までの7公演を行った。

東京に戻っての9月末から10月の公演は、
「送別公演」と銘打たれていたので、
「ノラ・ケイさよなら公演」と手塚は云ったのだろう。

藤子不二雄の日記に出てくる10月4日は、この最終日にあたり、
15時からのマチネと19時からのソワレと二公演行われているが、
手塚は「三時」に仕事を止めたのだから当然ソワレに行ったはずである。


所が、この「送別公演」では、「火の鳥」は上演されていない。
「火の鳥」の代わりに、
「ドン・キホーテ パ・ド・ドウ」と
7月に上演されて好評だった『白鳥の湖』の第二幕に差し替えられていた。
とすると、
手塚は8月末の公演にも行って「火の鳥」を見たと、推測される。


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小牧バレエ団公演「火の鳥」(1954年)
ノラ・ケイの火の鳥に小牧正英の王子



8月末の三本立てのプログラムに関して
音楽・舞踊評論家の英文学者牛山充(1884〜1963)がレヴュー(「音楽新聞」578号)を書いている。
===================================================
名振付家アントニー・チューダーを招き、その名作として知られる『リラの園』と、新たに振付けをして日本で世界初演を行う『カフェバー・カンカン』の主演者として再度ノラ・ケイの客演を得た上にディアギレフのバレエ・リユスが一九一〇年のパリ公演にオペラ座で世界初演をしたストラヴィンスキーの出世作『火の鳥』にもノラ・ケイを主演者とした三本立ての今回の公演は、綜合的にその挙げた直接の成果と何といってもバレエ史上、殊にその音楽面から見て大切なのはストラヴィンスキー作曲、フォーキン振付による『火の鳥』で、ディアギレフのバレエリユスの初演当時からの評判を耳にしているファンにとっては興味の大半がこの一作にかかっていた。それだけに装置や演出の細かい点では日劇の舞台機構その他の制限からか、私共の期待に反したところが一再に止まらない。妖怪変化の怪奇さが不足したり、当然かもし出される雰囲気や、劇的緊張が感じられない不満はあった。
 しかし、ノラ・ケイの火の鳥はさすがにあざやかなもので、小牧の王子とのパ・ド・ドゥーとヴァリアシオンや、金の羽を与えて一旦飛び去った後、王子の危機を救いに来てカッチェイとその部下の妖怪変化を目まぐるしい踊りの興奮に捲き込むアレグロの表現には我国の若いバレエ人を教える多くのものがあった。

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三作品の内、バレエリュスへの思いから「火の鳥」への期待が最も大きかったと記されている。
しかし、舞台の出来は批評家を落胆させている。
ただし、ノラ・ケイの踊りに対しては、
「王子の危機を救いに来てカッチェイとその部下の妖怪変化を目まぐるしい踊りの興奮に捲き込むアレグロの表現」と、高い評価がされている。

手塚の記憶に残っている
「プリマバレリーナとして踊りまくる火の鳥の精の魅力にすっかりまいってしまいました。」は、
妖怪たちの中で踊りまくるノラ・ケイの火の鳥の姿だったに違いない。


この公演での評価は「ライラック・ガーデン」が最も高かったようで
「毎日新聞」での舞台評を書いた光吉夏弥は、
(「ひらかれた新生面 ノラ・ケイ、チューダー、小牧バレエ公演 1954年8月27日付)
「ライラック・ガーデン」を「これほど的確に『動き』に浸みこまされ、
人間の踊りのことばによってかくも鮮やかに描き出されるということは、
バレエの新しい次元をひらいたこの作品の活気性を誇らかに立証するもの」と絶賛している。
「火の鳥」に関しては
「ノラ・ケイはクラシックの踊り手としてのケンランさを示す。
魔物たちの踊りが散文的な点をのぞいては、決して悪い振付ではないが、
このバレエ作品として持っているイデアが、もうぼくには時代を過ぎたもののように思える。」と評していて、
牛山と同じように舞台全体の出来としては今ひとつだが、
ノラ・ケイの火の鳥の「ケンランさ」には驚嘆している。



この時の「火の鳥」は、
1945年3月の上海バレエリュスでの
「火の鳥」(ニコライ・ミハイロヴィッチ・ソコルスキ振付)に参加した
小牧正英がその公演に基づいて振付たものだった。
演奏は、渡辺暁雄指揮の東京フィルハーモニー交響楽団。


小牧自身は「火の鳥」について
「『火の鳥』以前にはあのようなものはな、音楽そのものが従来なかった。
近代的というか現代的というか、新しいものでそういうバレエ音楽はできなかった。」
(『ペトルウシュカの独白』1975年)で述べているが、
小牧の考えていた音楽の近代性や演出は、十全には表現できず観客には伝わらなかったようだが、
ノラ・ケイの踊った火の鳥だけは、その鮮烈な印象を日本の観客に与えた。



所で、
同公演のパンフレットに三島由紀夫が「ノラ・ケイ礼賛」という一文を寄せている。
三島は前年にニューヨークでノラ・ケイが踊ったジェローム・ロビンスの「檻」も観ているのだが、

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 それにしても、伝統的な技術の十分なデッサンの上にノラ・ケイの「檻」や、今度上演される「ライラック・ガーデン」のような新しい破格の試みが花をひらいたことだけは、疑いを容れないところで、日本の新らしい、踊り手が無理に背伸びしたモダン・バレエの創作に熱中する前に、「ジゼル」第二幕や「白鳥の湖」のノラ・ケイを見ておくことは、少なくとも心胆を寒くさせられる効果だけはあつたにちがいない。
 大体バレエはフランスで発達したあらゆる芸術と同様、技倆(メチエ)と仕上げの巧みさ、とが、ほとんど芸術そのものと見なされるくらい、技術的巧緻の上にたたねばならぬ。ここにメチエという中には、役柄の把握も、舞台の雰囲気の醸成も、あらゆるものを含めている。しかるに日本的精神主義は、ともすると「熱と誠」でもつて、何でも押しとおせるという錯覚に、われわれを陥らしめる。バレエの習得には、もちろん熱と誠も必要であるけれど、日本人の演じるバレエを見るときに、いつも私が歯がゆく思うのは、真の技術家の冷静さの欠如である。おそらく真のバレエ精神と日本的精神主義とは、氷炭相容れぬものかもしれないのである。
 ノラ・ケイは冷静そのものだ。白鳥のあの冷たい優雅は、これを書いている今も、まだ目前に揺曳している。先年の「ジゼル」第一幕の熱情的演技の失敗のごときは、この冷たさが、村娘ジゼルの純情を、人工的なものと見せたところにあるのだろう。

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三島は、
前年の『ジゼル』について別の文章(「ノラ・ケイの公演を見て」昭和28年1月16日)で
「ノラ・ケイの舞台は緊張感のある清爽なものだつた。『ジゼル』第一幕では、何だかマリオネツトを見るやうで、すべて外面的な気がして、もう一つつかめなかつたが、第二幕でヴィリになつてからは、殊に幕切れ近くの別離の優婉さに感心した。能の鬘物をこの人に見せたいと思つた。」と述べている。
また、ダニロワと比較して
ダニロワは「全てを超越した古典バレエの精の如き気品と優雅の化身である」が、
ノラ・ケイの「身辺には現代の騒音が渦巻いており、彼女の美は、幸福な過去の残像というよりも、現代に抵抗する緊張をあらわしている。」とも評している。


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小牧バレエ団公演『ジゼル』第2幕(1953年)
ノラ・ケイのジゼルにポール・シラードのアルブレヒト


三島の見た、ノラ・ケイは、「技倆(メチエ)と仕上げの巧みさ、とが、ほとんど芸術そのものと見なされるくらい、技術的巧緻の上にたたねばならぬ。ここにメチエという中には、役柄の把握も、舞台の雰囲気の醸成も、あらゆるものを含めている。」を体現した「あの冷たい優雅」と「緊張感のある清爽」だった。
その技倆(メチエ)を前提として、しかしそれとは異なる、
彼がニューヨークで見たロビンスの「檻」の現代性をも表現する、
純粋に古典的なダニロワとは異なるノラ・ケイでもある。
この両面性に三島は感嘆しているのではないだろうか。


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ロビンスの「檻」を踊るノラ・ケイ(1951年)




それが如何なるものか、
数少ないノラ・ケイの映像から見てみよう。
ノラ・ケイがマリー・タリオーニ役を踊っている「パ・ド・カトル」(1960年4月)
(アリシア・アロンソがグラーン、メリッサ・ハイヅンがグリジ、ミア・スラヴェンスカがチェッリート)
http://www.youtube.com/watch?v=SPugalZ9S_A&list=FLA4xnoi-izE7Fii4iIT18QQ&index=2


この映像は既に全盛期を過ぎているのだろうが、
アロンソと比較しても、三島が述べている
彼女のダンスからは「冷たい優雅さ」が伝わってくる。
この冷たさがバレエの本質だと三島は述べているが、
その中にバレエの伝統と、またその先に生じている現代性も見て取っている。

手塚の見たノラ・ケイの「火の鳥」も、
単に圧倒する「情熱的」だけではなく「優雅で神秘的」であったわけで
手塚治虫も、
三島の感じ取った「冷たさ」「冷静」の中に
「どんなに歴史が移り、時代が変わっても、常に冷静に人間をみまもっている」
火の鳥の大きさを、ノラ・ケイのダンスから感じ取っていたに違いない。


手塚治虫、三島由紀夫が見て取った
ノラ・ケイのダンスとは、そのようなものだった。
とすると、
冒頭で紹介した、新国立バレエの米沢唯が述べている
「人を破滅させる力すら持つ、不死鳥のイメージです」にも、
バレエの伝統と現代性が合わせ持った
「優雅な冷たさ」が、どこかに反映されねばなるまい、
バレエが、今も「バレエ」である限りは。

それを、米沢唯がどう踊るのか、
とても楽しみである。









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「火の柱」(1942年)ノラ・ケイとポール・シラード































posted by 星跡堂主人 at 23:23| 東京 ☀| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月04日

新国立バレエ 『E=mc2』(デヴィッド・ビントレー振付)のためのノート


新国立バレエ団で上演中のデビッド・ビントレー振付
『E=mc2』は、彼がこのインタヴューでこたえているように
ボダニス(David Bdanisi)の『 E=mc2 世界で最も有名な方程式の伝記 』から
インスピレーションを受けて創作された。

ビントレーのインタヴュー
http://www.nntt.jac.go.jp/release/updata/30000672.html



この本から、印象に残ったパートを
以下に、引用し、覚書にしておく。


第2章「エネルギーのE」から

「(他の科学者)のように直線運動という固定概念がなかったファラデーは、聖書の着想に源を求めることが出来た。(略)人間は神聖な存在であり、聖なる自然の摂理に基づいて(略)誰かが手をさし伸ばせば、その人は又別の人に手を差し伸べ(略)そうして最後には円が完成する」 

ファラデーは、この発想によって、それまで全く別物だった電気と磁石とを繋げ、
マックスウエルに至る「場の理論」の基礎を築いたと、ボダニスは指摘。
この考え方は、新国立バレエ、ビントレーの『E=mc2』「エネルギー」パートの振付に反映されていると思われる。



第4章「質量(mass)のm」から

「物質は自らの動きやすさを左右する『質量』と呼ばれる性質を持つ」
「物質の構成要素が互いに結合したり分離したりする」と、ボダニスは「質量」について説明。
素人は「質量」=「重さ」と勘違いしがちだが、そうではない。
「宇宙に満ちる物質は燃え尽きたり凝縮したり粉々になったりはするが消滅することはない。宙を漂う別種の物質となって結合したり再結合したりするだけで、総量は常に一定。」と、
ラヴォアジェの「質量保存の法則」を説明し、
これがファラデーのエネルギー保存の法則と同種だと指摘する。



第5章「速度(celeritas)のc」から

「cはこれまで見てきたEやmとは少々異なる。「E」はエネルギーの潜む広大な領域で、「m」は宇宙に存在する物質である。しかし、「c」は光の速度を表すにすぎない。(略)この特定の数値(c)が実は宇宙の全質量と全エネルギーとの関係を支配しているのだ。」

「光の内部で何が起きているか」「電気と磁力のあいだのやりとりのヴァリエーションに他ならない」と、マックスウエルは考えたと、光のあり方自体が電気と磁力との相互作用だと、ボダニスは説明する。 


「まずは微量の電気が発生し電気が進むに連れ磁気を生じさせる。その磁気が歩を進める先にまた電気が起きる。略 電気と磁気は交互に馬跳びで飛び超えるように小さなジャンプを素早く繰り返す。マックスウエルのいう「相互作用」である。」興味深い比喩が出てくる。


「アインシュタインの研究は、「保存則」から19世紀の科学が引き出した二つの独立した観念を一変させた。エネルギーは保存されない。質量も保存されない。然しだからといって、世界は無秩序であるというわけではない。その代わりそこには、より深遠な統一がもたらされる」
「なぜなら、エネルギー領域の現象とそれとは一見かけ離れた質量領域の現象とは関連付けられたからだ。獲得した質量に相当するエネルギー量が失われることで、収支のバランスが常に保たれる。」

「ラヴォアジェもファラデーも心真理の一部しか見ていなかった。エネルギーは単独で存在し得るものではない。質量も同様である。そして、質量とエネルギー量との総和は常に一定である。」と、
ボダニスは、アインシュタインの「E=mc2」の意義を簡潔に説明している。 

「別物と考えられていたエネルギー領域と質量領域には関連性が有り、その架け橋となっているのはC(光速)である」というアインシュタインの結論をボダニスは紹介。




第6章「2(自乗)」

「cの自乗」について自乗だからこそ「ごく僅かな質量がこの方程式という橋を渡」り「エネルギーの側に着いた時、その僅かな質量は驚くほど膨張している」「質量は凝縮されたエネルギーの究極の形である」
「エネルギーとはしかるべき質量を変形させ膨張させたものなのである」






こうして成立したE=mc2 が明確にその真価を発揮したのが、
1945年8月6日。


第13章「午後8時16分、広島上空」からの引用
言うまでもなくバレエの「マンハッタン計画」の部分に対応。

「一瞬の電流によってコルダイト爆薬が添加され、砲弾の発射と同じ事が行われた。
爆弾の内部には実際の砲身があり、その中を全体の一部のウラン235が突き進んでいく。(略)
打たれたウランは薄くなった方針の中を4フィート(1m)飛び、残りのウランの塊に衝突した。
数10ポンドものウラン235が集積された場所は、他には地球のどこにもない。

衝撃によって多数の中性子が遊離し、さまよいはじめる。
ウランの原子は外側を飛び回る電子によって厳重に保護されているものの、
離脱した中性子は電子を帯びていないため、それをものともしない。(略)
原子核には正のの電子を帯びた陽子がひしめいているので、普通は外部からの粒子の侵入が阻止される。
だが、中性子は電気を帯びていないので、陽子のも邪魔されることはない。
やってきた中性子は、原子核の中に割り込み、押し合いへし合いしながら、
平衡を失わせる。」

以上は、ヒロシマで使用されたガンバレル型(Gun barrel)原子爆弾の仕組みの説明になっている。


「地中に埋めれたウランの原子は、どれも45億年以上前に生れたものだ。
地球が作られる前に存在した極めて強烈な力だけに、
電子的に反発する陽子同士をを一つに束ねることが可能だった。
一旦ウランが作られると、強い核力( nuclear force)が接着剤として働き、
長い間にわたって陽子をずっとひとまとまりに保ってきた。

やがて地球の気温が下がり、大きな陸地が現れ、
アメリカ大陸がヨーロッパ大陸から分離し、北大西洋ゆっくりと広がっていった。
地球の裏側では、火山活動が盛んになり、いづれは日本と成る陸地が形成された。
これだけの間も保たれていた安定性が、今や一個の余分な中性子によって乱されようとしている。

原子核が強い核力の束縛を断ち切るほどぐらつくと、直ぐに陽子が静電気力によって分離する。
一個の原子核の重さはたかが知れていて、その破片となると更に軽い。
ウランの他の部分に高速で衝突しても、それほどの熱は発生しない。
だが、ウランの密度が充分にに高いので、連鎖反のが始まる。
ウランの原子核の高速で飛ぶ破片は、2個から4個となり、8個,16個と増殖する。
原子の中で「質量」が消滅していき、
原子核の破片が動きまわる「エネルギー」として出現する。
まさにE=mc2 大活躍の過程である。

(略)
連鎖反応はエネルギーの倍加が80世代を経て終わる。
最後の数世代にいたるところには、割れたウランの原子核の破片はかなり増え、
極めて高速で飛び回るので、周囲の金属が熱くなり始める。
最後の何回かの倍加は凄まじい。

たとえば、庭の池に蓮の葉が浮かんでいて、一日ごとに倍加の大きさになると仮定しよう。
80日後には、葉が池を完全に覆うとする。池の半分が未だ覆われておらず、
陽光にあたり、外気に触れているのは、いったい何日目だろうか。
それは79日目のことだ。

80世代が過ぎた時点で、E=mc2 の反応は全て終わる。
もはや質量は消滅せず、もはや新しいエネルギーも生まれない。
原子核の運動エネルギーは単純に熱エネルギーに変わっていく。
(略)
ぶつかられ、こすられることで、爆弾内部の金属は熱を帯び始める。
体温と同じくらいの37度から、水が沸騰する100度を超え、
鉛が気体になる1744度にいたる。だが、
倍々の連鎖反応が進むに連れて、さらに一層のウラン原子が分裂して、
その温度はやがて太陽の表面温度と同じ500度に、つづいて、
太陽の中心と同じ数100万度に達するばかりか、さらにどんどん上がっていく。
ほんの短い間で、空に浮かんだ爆弾の中心は、宇宙が誕生した初期の瞬間と同じような状態になる。

熱は爆弾の外部に出て行く。ウランを包む鋼鉄の反射材を突き抜け、
数1000ポンドもあった外装の残骸もやすやすと通過する。
だが、そこで一旦止まる。

核爆発のような高温の状態は、放出してやらなければならないエネルギーを含んでいる。
そこで、極めて大量のX線を周囲に向かって放射し始める。
一部は上向きに、一部は横向きに、そして残りは地上の広大な範囲へと向かっていく。
爆発を途中で止めたまま、破片は自分自身を冷やそうとする。
空中にとどまりながら、エネルギーの大部分を噴出する。

1/10000秒が過ぎ、X線の放射が終わると、熱の球は再び膨張し始める。
この時点で、ようやく大爆発が見えるようになった。
普通の光子には、放射されているX線の間をかいくぐってその外へ出ていくことは出来ない。
だから、これまでは放射の外面で発生する輝きだけが見えていた。
今や、強烈な閃光はきらめき、まるで空が裂けたかのようだ。
現れた物体は、銀河の彼方に存在する巨大な恒星に似ている。
空に占める大きさは、太陽の数100倍にもなった。

この世のものとは思えないその物体は、あらん限りの火力で約0.5秒にわたって燃えた後、
弱まり始め、2,3秒後には消滅する。
この「消滅」は、大部分が外部への熱エネルギーの放射によっておこなわれる。
一瞬にして大火災が発生したようなもので、直下周辺の人間はみな皮膚のほとんどがはがれ、
身体から垂れ下がった。
ヒロシマにもたらされた10万人を超える人々の死は、このようにして始まった。

連鎖反応によって発生したエネルギーの少なくとも1/3が、この時までに使われた。
残りのエネルギーもすぐ後ろから迫ってくる。
この異様な物体の熱によって空気が押され、太鼓の巨大な隕石や彗星が落ちた時を除けば、
かつて無い速さで動き始める。
如何なる台風がもたらす暴風よりも、さらに数倍は速い。


実のところ、あまりにも速いので音がしない。
爆風が強大な力で何か音を発生させても、それを追い抜いてしまうからだ。
最初の爆風の後、やや遅い第二波が来る。
それが終わると、大気は押しのけられた隙間を埋めるために急いで後戻りする。
その結果、気圧が一時的にほどんどゼロまで下がる。
爆発地点から充分に離れていて助かった生き物も、
僅かの間、大気圏外の真空にさらされたようになり、身体が破裂してしまう。」







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2013年03月10日

新国立バレエ 『ジゼル』 米沢唯、厚地康雄 (2013年2月23日)


新国立バレエ団 『ジゼル』
ーー 新制作と云うべき舞台、限りなく禁欲的な問いと若き等身大の情熱 ーー
 
2013年2月23日
主なキャスト
ジゼル 米沢唯、 アルベルト 厚地康雄、 ハンス 輪島拓也、
ペザント・パ・ド・ドゥ 細田千晶、奥村康祐、
バチルダ 湯川麻美子、 クーラント公 貝川鐵夫、
ウィルフリート 清水勇三郎、 ベルタ 西川貴子、
ミルタ 厚木三杏、 モンナ 細田千晶、 ジュリマ 寺田亜沙子

井田勝大指揮 東京交響楽団

全配役等、その他のデータはこちらで見られます
→ http://blog.livedoor.jp/masamifc/archives/1818280.html#more


今回の新国立バレエ団『ジゼル』でまず驚いたのは、
従来のコンスタンチン・セルゲイエフ版と随所に異なる演出がなされ、
謂わばニュー・プロダクションに近いものになっていたことだ。
デヴィッド・ビントレー監督の要請でバーミンガムから来日し、指導した
デズモンド・ケリーによるステージングの成果なのだろう。
その様子を伝える新国立バレエ団ブログの記事
→ http://www.nntt.jac.go.jp/nbj/blog/2013/02/15/舞台リハーサル2日目の風景/


序曲冒頭の音の鳴り方からして、
既にリズムを激しく刻むロシア風の感じではなく
おっとりした西欧風の造り。

前回2006年6月の上演映像(残念ながら映像と音楽が全く合っていませんが)
http://www.nntt.jac.go.jp/ballet/20000623_ballet.html

その後も、オーケストラの音の造りはロシア風とは異なる音取りがあるなど、
私の記憶に残るフェドートフが指揮した新国立『ジゼル』とは違う印象を受けた。

さらに、アルベルトの第1幕の「出」が違う。
ロシア系の演出では、アルベルトは従者と共に現れて、一度上手の小屋に入る。
その後、ハンス(ヒラリオン)が登場する。
しかし、今回の新国立の演出では、
アルベルトは最初に登場せず、ハンスが出てきた後に
従者ウィルフリートと共にやってくる。
これは、単なる「出」の順序以上の効果を齎す。
つまり、アルベルトの「剣」の扱いに直接影響するのだ。
ロシア系では、ハンスが去った後に再び小屋から登場したアルベルトは、
剣とマントを小屋に置いてきているので、既に腰にさしていない。
だが、西欧系(今回の新国立もこちら)の演出だと、アルベルトは、
はじめマントのみ外して、剣をさしたままであることを従者に指摘される。
それによって、その後に展開する「剣」を巡る物語の演出効果が、より活きることとなる。

他にも、
第1幕のジゼルのヴァリアシオン、
上手奥から、下手前へと
ポアントでロン・ド・ジャンブ・アン・レールを繰り返しながら移動する見せ場で、
ロシア系では、ずっとそれを繰り返すだけだが
西欧系では、上手前にいる恋人へと身体をクロスさせ腕を投げかけるという動きが入る。
ダンサーによっては、投げキッスさえする。

ロシア系のジゼル第1幕のヴァリアシオン
メゼンツェワ1幕のヴァリアシオン 31分くらいから
http://www.youtube.com/watch?v=TabPITaVzfM

ザハロワ1幕のヴァリアシオン
http://www.youtube.com/watch?v=HL5dKMWkIe0



目に見えてはっきりと誰もが判る違いは、第2幕で現れる。
幕が開くと、ジゼルの墓が上手前になく、上手奥にあるのだ。
ジゼルの墓は、ロシア系では上手前にあるが、
仏英などの西欧系では上手奥に築かれる。
この墓の位置の変更は、必然的にその後のダンサーの動きに大きな変化を促す。

ミルタは下手奥から舞台をT字形にパ・ド・ブレするのではなく、
ディアゴネルに横切る。
アルベルトの「出」でも、舞台をディアゴネルに横切り
上手前で佇み、下手奥のジゼルの墓をさっと振り返る。
マントを翻し振り向く厚地康雄のアルベルトの姿は、かっこよかった。

また、コール・ド・バレエの型も明確な◇(ダイヤ)型編隊になっていた。
有名なアラベスクで交差するシーンも、
舞台両側から交差した後、コール・ド・バレエは見事に◇型へと隊形を整えていった。
美しかった。この型も、以前とは異なるように見えた。

第2幕は、照明デザインも大きく工夫されて、以前よりもずっと効果的になり、
ウィリたちのチュチュが、サイドから照明されることにより、より美しく
幻想的に見えた。

以上の変化は、決して小さくない改変であり、
もう6年も前の新国立『ジゼル』のプロダクションとは違う
新しいプロダクションと考えて良い。
しかも多くは、より良い方に改変されていた。

新国立バレエ団の『ジゼル』は、
1998年にセルゲイエフの伴侶だったナターリア・ドゥジンスカヤが、
マリインスキー劇場の指揮者ヴィクトール・フェドートフと共に来日して造り上 げた。

この版の特徴の一つのは、ペザント・パ・ド・ドゥの女性ヴァリアシオンの曲が、
通常のト長調ではなくニ長調2/4アレグレットで演奏され、
アダージョの最後で回転する女性が男性の作る腕の輪に手を入れて組むという
難しい型になっていることなどだが、それらは、今回も初演時のままだった。
細田千晶の繊細なダンスに、奥村康祐の喜びに満ちた若々しい動きが印象的だった。

http://www.youtube.com/watch?v=TabPITaVzfM
マリインスキー・バレエでのセルゲイエフ版
ペザント・パ・ド・ドゥ、女性ヴァリアシオン 38分くらいから


またマリインスキー版にはなく
新国立版の特徴として特筆すべきは、
第2幕の最後、
墓に戻るジゼルが墓の十字架に腕をかけ、
まるで蝶が羽を開くように大きくアラベスクパンシェをするシーンだ。
新国立バレエ団、前回(2006年)公演のこのシーン

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この振りも、今回の上演でも残されてはいたが、
前回のように墓の位置が下手前で客席からよく見える場所でこのアラベスクパンシェが花開くのと、
今回のように下手奥の方でするのとでは、印象が大きく違う。
後に述べるが、
ジゼルを演じた米沢唯は、その効果の差異を考慮して
別の解釈をこのシーンに忍び込ませていた。



さて、今回の上演版の特徴はここまでにして、
一体、そうした新しい版の基で、
ダンサーたちがどのように踊ったのかを述べたい。


私は見る側なので、今も新国立バレエ『ジゼル』を幾度か反芻している。
ダンサーとは、基本的に自己の踊りによって解放されたい存在だと思う。
それが踊る喜びだから、自然に身体がそれを志向する。
より大きく跳び、より速く周り、より高く脚を掲げようとする。
それが気持ち良いから。

バレエも基本的にはそれを志向している。
だから物語の内容としては?な時に、派手に大きく踊ることもある。
それはバレエダンサーのある種の性向とも言えるし、
客も、物語をそっちのけにして
ダンサーの身体の動きの強度にカタルシスを感じる事がしばしばある。

もし、それを一貫して抑制しつづけたら、、
身体の解放を抑制し、物語が志向する動きに身を委ねたら、、、
どのようなダンスになるのか。

それが、今回の米沢唯が踊ったジゼルだったように思える。
第1幕「出」のバロネから始まり、
ヴァリアシオン・コーダの ピケターン、
『ジゼル』という作品では、多くのダンサーが
第1幕では心臓は弱くとも明るく元気に振る舞う。
そして、静寂の世界である第2幕との対比を明確にしようとする。
しかし、米沢の第1幕は、全くそうではなかった。
少しアプローチは異なるが、私の狭い見聞では、こうした第1幕の演り方は、
とても孤独で繊細なジゼルを演じたパリ・オペラ座(2000年6月)の
アニエス・ルテステュだけである。
(ルテステュのジゼルは、当時パリでも物議を醸したようだ。)

しかし、米沢の徹底していたのは、それが第2幕においても変わらなかったことだ。
第2幕のグランデヴェロッペ、パンシェ、アントルシャ、グランジュテ、など
ロマンティック・チュチュのエクステンションを静かに美しく際立たせる
そうした動きでさえ、米沢は抑制し続けた。

どのシーン、どの動きをとっても、
ダンスとしての活き活きとした解放感は一度たりとも現れず、
結果的にある一つの動きが強度をもって見る者に強く印象づけられることはなかった。

これはものすごくストイックな抑制である。
なぜなら、バレエダンサーの身体の志向性を、
見る側の客に強く自分の踊りをアピールするということを、
最初から最後まで抑制的にコントロールし続けるということだからだ。

それはまた、今日までの『ジゼル』という作品が作り上げてきた構成や美学、
第1幕では明るい少女、
それとコントラストをなす第2幕では静寂の中でのエクステンションを見せるという美学を、
問いなおすということさえも含んでいる。

考えてみれば、
『ジゼル』という作品のジゼルという人物像には、
本来、こうした動きが必要だったのではないか。
ジゼルはどのように踊られるべきか、その音楽と振付の動きと物語内容とは
どのように関係付けられるべきか。
1841年の初演のカルロッタ・グリッジ以来
パリでは一度途絶えたものがロシアで生き残り、
縷々述べてきた西欧系とロシア系に見られるような様々な解釈が施され振り付けられ、
世界中で多くのダンサーが踊り続けてきた、
また、見る側にも「ジゼルはこう踊るんだよね」というイメージが出来上がってしまっている
この作品に対して、
米沢唯は、今一度『ジゼル』という作品のジゼルとは、どう踊られるべきなのかを問い、
私たちに示したように、私には思えた。


幕が上がってから幕が降りるまで
終始一貫してそれを保持する緊張感は、物凄いものだと思われる。
踊る側の内側の緊張感は、しかし舞台ではその物語の人物にぴったりしているので、
見る者には「自然」に見える。
今までにないジゼルなのに、ああ、ジゼルってこうだよね、と感じる、、、

作品の「人物を生きる」とはこういうことだと、
『ジゼル』というバレエの今までのあり方と、
西洋が造ったバレエダンサーの身体の志向性に抗して、
米沢唯は、ジゼルを造形した。

「狂乱シーン」と謂われる場が、あれほど静謐感に包まれていたのはそのせいだ。
それでいて、あ、ほんとに死んでしまった、、、と思える。
たぶん米沢は、このシーンを「狂乱」とは捉えていない。
身体の弱いごく普通の少女が、初恋を失い、
茫然自失の中で消え入るように息絶えた、と捉えているのだろう。


もちろん、それが舞台で生きたのは、
抑制的なジゼルを承け続けた厚地康雄の若く情熱的なアルベルト、
実直な輪島拓也のハンスがあってこそで、この三者のアンサンブルも絶妙だった。

特に、第2幕は全てがアルベルトの夢かとさえ思われた。
これは、厚地が、1,2幕を通して、ジゼルとの踊りにおいて、
常に抑制的な米沢の動きにシンクロしながらも、
ーーこれは言葉の単なるあやではなく、文字通り二人の動きはシンクロしていた、
これは『ジゼル』の、特に第2幕では最も重要なポイントであるーー
厚地が一人で踊り動く時には、その気持ちの昂ぶりや激しさを示したからだろう。
第2幕の「出」の、美しくしかし気持ちを全面に出した動き、
墓の前で座り込み、ひたすら祈る姿、
こんなにも一心にジゼルに祈りを捧げるアルベルトを、私は初めて見た。

そうした二人の身体の動きの結果、
次第にジゼルの存在は「夢幻」になり、
アルベルトのジゼルへの「思い」だけが実在に見えて(思えて)くる。


朝を告げる鐘がなっても、ジゼルは表情を変えない。
斃れようとするアルベルトを抱き起こす。
このシーンが、今回特に強く見る者に情感を醸したのは、
ジゼルの身体が初めてアルベルトを抱いたからではないか。
その暖かみは、まるで「ピエタ」のようにさえ見えた。
たぶん、暖かみは客の心が産んだ幻想なのだろうが、、、

米沢唯は、このシーンを目掛けてずっと抑制してきたのだ、私にはそう思えた。
一瞬、それまで幻だったジゼルが、現(うつつ)の姿をその思いとともに現した。
そう感じられた。しかし、次の瞬間、
握られたアルベルトの腕は、すとんとジゼルの胸から落ちる。
二人の身体が交わり、一瞬うつつに現れたジゼルの思いは、また消え去っていく。

その後、
先にも書いたが新国立版『ジゼル』は、
墓に消えゆくジゼルが、墓の前で大きくチュチュを拡げアラベスクパンシェするのに特徴があるのだが、
前回までの演出では、墓は下手前にあったので、
このシーンは特に目立ち、観客の印象に残るものとなっていた。
しかし、今回の演出では、墓は下手奥に引っ込んでいる。
そこで、米沢は別の方法を選んだように見えた。
もちろんアラベスクパンシェはしたのだが、その動きは、それまでの動きと同様抑制的にされ、
決して蝶の羽のようには拡がらなかった。

さらに、そのあと、
もうジゼルの身体は舞台袖に引っ込んでいる、
しかし、闇に消えゆく中でひらひらと舞うものが見えた。
手だ。
それは時間的には1秒もなかったことだったろう。
闇の中でひらひらとアルベルトの方へ靡いたように見えた。
先に一瞬現れ、アルベルトの手を取ったそのジゼルの思いが、闇に舞っている。
今一度、アルベルトを求めて。   (注1)

アルベルトの手と交わったジゼルの「手」が、見る者に遺る。
そしてアルベルトは、ジゼルの形見の花を抱き、歩む。
見事な幕切れ。

この二人は、『ジゼル』を初めて踊ったのだ。



脚注
注1『ジゼル』をハインリッヒ・ハイネの『ドイツ論』(1835年にパリで刊行)から着想した
  テオフィル・ゴティエ(Théophile Gautier)は初演後に
  「コートレにあるハインリッヒ・ハイネに」という公開書簡を発表し(「ラ・プレス」1841年7月5日)
  その中でジゼルが墓に戻るシーンを以下のように描写している。

 「美しいミルタも水蓮の花弁に帰っていく。
  ウィリたちは生気をなくし、絶え入るように退場する。
  ジゼルも逆らいがたい力に引き寄せられて自分の墓に近づく。
  無我夢中のアルブレヒトは彼女を腕に抱いて接吻を浴びせながら運び、花咲く塚の上に座らせる。
  しかし土はその獲物を離したがらない。
  草むらの地面が割れ、草木は朝露の涙をためて身をかがめ、花は頭をかしげる。
  角笛が響く。ウィルフリードが心配して主人を探しに来る。
  数歩後に続いてクーラント大公とバチルドが現れる。
  そうするうちに花たちジゼルに覆いかぶさる。
  もはや透き通る小さな手が見えるだけだ。
  その手もまた消える、すべては終わった!
  アルブレヒトとジゼルは二度と再びこの世で逢うことはない。
  彼は塚の傍らに跪き、花を詰んでそれを胸に抱きしめる。
  それから彼を許し慰める美しいバチルド姫の肩に顔をもたせて去っていく。」
    引用は『舞踊評論』(渡辺守章編、1994年6月)に拠る


参考
「『ジゼル』 終幕の音楽」
http://zoushigaya.seesaa.net/article/343623929.html

「バレエ『ジゼル』の在り方、聖なる百合または凛とした白梅」(『ジゼル』上演史など)
http://zoushigaya.seesaa.net/article/327050707.html




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2013年03月09日

『ジゼル』 終幕の音楽



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パリ・オペラ座図書館に残る『ジゼル』第2幕、アレクサンドル・ブノワの美術絵



『ジゼル』 終幕の音楽

バレエ『ジゼル』はアドルフ・アダン作曲
(第1幕、ジゼルのヴァリアシオンはミンクス、
ペザントPDDはブルグミュラーの作曲)
現在、終幕(第2幕の終わり)の音楽は3種類あります。

1 原曲どおりの型
2 デンマーク版と云われる型
3 終曲を変奏させた静かに終わる型

1 マリインスキーバレエ(サンクト・ペテルブルク)
  オブラスツォーワ、サラファーノフ 開始約1分後くらいから終曲に
 http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=wyf5vCv6N68&feature=endscreen

ジゼルが墓に消えてから(ロシア系なので墓は上手前にあります)、
音楽が急に賑やかになり、幕に。
墓の前でジゼルの死を悼む物語内容とは、今ひとつ不釣り合いです。
この原因は、
元の脚本・演出(テオフィール・ゴーティエ)ではこの場面で、
クーラント公と婚約者であるクーラント公の娘バチルド姫が登場し、
倒れているアルブレヒトを助け起こすというものだったためと思われます。

所が、いつの頃からかそういう演出はなくなり
(1960年代前半にロンドン・ロイヤル・バレエの来日公演で
元の通りの演出がされ日本の客が戸惑ったという記録が残っています。)、
今はどのバレエ団でもクーラント公もバチルド姫も登場しません。
なので、原曲どおりの型は演出の変化と合っていないのではないでしょうか。

2 パリ・オペラ座
  プジョル、ル・リッシュ  開始から4分50秒くらいから終曲に入ります
 http://www.youtube.com/watch?v=Yp9zZ_Py2bc

西欧なのでジゼルの墓は上手奥にあり、ジゼルがすっぽんで墓に消えた後、
弦楽合奏で美しい旋律が流れてきます。
ガルニエでフランス風の繊細なこの美音を聴くと身震いするほど感動します。
この映像のニコラのアルブレヒトの振る舞いは、
マントをもって帰っていくというものですが、
私が見た限りでは他のエトワールはしていない特異な型 です。
多く(イレール、ルグリ、ベラルビ、マルチネス、)は、
花を抱いて舞台中央を漂うように歩くという型でした。
 

同じ型のロンドンロイヤルバレエ(コジョカル、コボー)5分30秒くらいから
 http://www.youtube.com/watch?v=UHfLZmwVP-Q&feature=endscreen

同じ曲でも編曲や演奏が微妙に違います。
ジゼルが墓に消える前に花を一輪落とすのが特徴的か?
今回の新国立バレエ団『ジゼル』も、イングランドから指導者が来たからか、
この花を落とすやり方をしていました。
幽霊又は死人として表情の少ないオペラ座のプジョルく比し、
コジョカルはとても人間的な 表情をしていますね。
この辺りがパリとロンドンの違いでしょうか。


3 モスクワ・ボリショイ劇場バレエ
  オシポワ・ワシリーエフ 1分40秒くらいから
 http://www.youtube.com/watch?v=uouK5Klv1ZM

モスクワでは古くからこういう型であったようで、
メッセレルの指導で『ジゼル』を上演した東京バレエ団もこの型を採っています。
また、新国立バレエ団はマリインスキーのドゥジンスカヤによりセルゲイエフ版が導入されたのですが、
終曲だけはこの3のモスクワ系を用いており、
今回の上演でも、この部分は西欧系の2にはされず3のままでした。

この演出でも花が使われていますが、
なぜ花の演出が終幕に出てくるかに関して、
『ジゼルという名のバレエ("The Ballet called Giselle")』で
シリル・ボーモント(Cyril.W.Beaumount)は、
作曲者のアドルフ・アダンが
ゴティエ、サン・レオンにジゼルが墓に戻るという演出の変更を提案したとし、
以下のような、アダンの手記を引用しています。

「ジゼルは朝の最初の光で自分の墓に戻ることになっていたが、
わたしはこの終わり方はあまり詩的ではないと思っていた。
そこで恋人が彼女の身体を 花の咲き乱れる中に横たえ、
その体がゆっくりと見えなくなるようにしてはどうかと考えた。
このクライマックスで、元のよりもよくなって、
とても詩 的な伝説にふさわしい終わり方をし、予想された通りの成功を収めた。」

この証言を裏付けるような記録が、2002年にオークションに突如出品されました。
1860年代のパリでの『ジゼル』上演のノーテーション(Henri Justamant による記録)で
ケルンのドイツ・ダンスアーカイヴ(Deutsches Tanzarchiv)が落札しました。
このノーテーションでも、
ジゼルは草むらに横たわり消えて行くようになっています。
その後、大公とバチルドが現れて、幕となったと記されています。



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2013年02月23日

バレエ『ジゼル』の在り方、聖なる百合または凛とした白梅


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『ジゼル』という作品
台本テオフィル・ゴティエ、
作曲アドルフ・アダン、1幕のペザントPDDはブルグミュラー、
振付ジャン・コラーリとジュール・ペロー、
初演時の原題は"Giselle, ou Les Wilis"  『ジゼル、またはウィリたち』

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1841年にパリオペラ座で初演され、今でも同バレエ団の代表作品なのですが、
1870〜71年に起きた普仏戦争の後、長くパリでは上演されなくなる。
(パリでの最期の上演は1868年)



この作品は、
台本を書いたゴティエが、
ハインリッヒ・ハイネの『ドイツ論』に触発されて書いたと告白しています。

「親愛なるハインリッヒ・ハイネ、
何週間か前のこと、私はあなたの見事な著書『ドイツ論』をぱらぱらとめくっていて、
ある魅力的な箇所にふと目を留めた、、、
そこであなたが語っていたのは、
身にまとう純白のドレスの裾がいつも水に濡れている空気の精エルフ、
初夜の寝室の天井に繻子の小さな脚先を見せる水の精ニクス、
雪のような肌をして過酷なワルツを踊りつづけるヴィリなど、
ハルツの山やイルゼの川岸で、
ドイツ特有の月明かりのなめらかな靄のなかで、
あなたが出会ったあの魅惑的な幻の生きものについてだった。
思わず私は声をあげて叫んだ、
『そうだ、これを使って素敵なバレエがつくれるではないか!』熱狂に突き動かされて、
私は大きな上等の白紙を手にとり、上の方にきれいに整った筆跡で、
『バレエ、ヴィリたち』と書いてみた。」
( 鈴木晶『バレエ誕生』 2002年4月 から引用 http://ow.ly/hXrmt  )



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パリの明るい近代都市文明に対して、
田園の素朴な乙女の恋、さらには暗い前近代的な亡霊の物語、
こうしたモチーフがパリの夢想家たちの心をつかむことになる。
初演を見た28歳のリヒャルト・ワーグナーは、
「極めてドイツ的な作品」と絶賛している。
彼は翌年から、これまた極めてドイツ的で、
ジゼルのような聖なる女性エリーザベトの死と贖罪の物語
『タンホイザー』の構想を練ることになる。
(1861年にパリオペラ座でも改訂版が上演される)

このように
アンチ都市文明だけでなく、「ドイツ的」と思われた
『ジゼル』を普仏戦争後に上演することを、
パリの人達は許さなかったのだろう。
(普仏戦争開戦時に初演され、
その後関係者が戦時にどんどん亡くなってしまった
『コッペリア』は逆に、一度もパリ・オペラ座のレパートリーから消えたことはなく、
現在までもっと上演回数の多いバレエである。)

その結果、パリ・オペラ座のレパートリーから消えた『ジゼル』は、
フランスからペテルブルグに渡っていたマウリス・プティパによって
1884年にロシア帝室マリインスキー劇場で上演され、
その演出が今日の『ジゼル』の基本となった。

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パリ・オペラ座で『ジゼル』が復活するのは、
第1次世界大戦の後(要するに普仏戦争への復讐の後に)の
1924年にセルジュ・リファールと
伝説のバレリーナ、オリガ・スペツィーフツェヴァによる
上演まで待たねばならなかった。

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リファールは、バレエ・リュスに属していたが1929年にそれが解散すると
正式にパリ・オペラ座の舞踊監督に就任する。
『ジゼル』のアルブレヒトを得意にしていた彼によって
(アルブレヒトは貴族なのだから外出時に帽子を被らないことはないと、
彼は必ず帽子を着用して演じたようだ。)

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パリでの『ジゼル』は再びレパートリーとして定着して、
イヴェット・ショヴィレやノエラ・ポントワなどの、
ジゼルダンサーを生んでいくことになる。

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このように、
『ジゼル』はパリで生まれ
独仏の戦争に翻弄されながら、
ロシアを経由して、現在まで初演時とそれほど変わることもなく
東洋の島国にも到達して上演されている。

ただし、今でもパリ・オペラ座系とロシア系の演出は印象が異なる。

明らかに分かるのは、
第2幕のジゼルの墓石の位置の違い。
パリ系が舞台下手奥にあるのに対し、ロシア系は下手前にある。
これは演出効果として相当に違いが出る。
特に、2幕で上手奥から出てジゼルの墓へと参る
アルブレヒトの動きは、大きく異ならざるを得ない。
また、
パリのものが全体に恋愛や美意識を強調しているのに比べ、
ロシアのものにはより烈しい人間ドラマを感じる。
もちろん、踊るダンサーによってもそれぞれなのだが、、、

今週上演されている新国立バレエ団の『ジゼル』は、
ロシアのセルゲイエフ版に基づいている。
(追記、今回2013年2月の新国立公演は、ロシア風から西欧風のものに演出が変わった)
東京のバレエ団で上演される『ジゼル』はほとんどがロシア系のものだ。

『ジゼル』は、
それぞれのダンサーの「心持ち」(肚)が試される作品に思える。
年齢とともに、その解釈も変わっていく。
たぶん、このような作品は古典バレエにおいては他にないだろう。
クラシックポジションがより厳格に決まっている『白鳥の湖』に比べて
解釈の可能性がより広いからかもしれない。

また、その歴史を振り返りつつ、
そろそろ、日本人が踊る『ジゼル』とは何かという問いを
それぞれのダンサーが持って欲しいとも思う。

パリでもロシアでもない、
日本人の『ジゼル』とは、どんなものなのか、と。

『ジゼル』のタイトルロールは、恋人に裏切られても
それを許す、その愛は百合の花で喩えられる。
先に、この作品がアンチ近代文明の要素があると述べたが、
一方で、近代の影に沈んだカトリック的な聖なる愛の再発見の物語でもある。
(それは逆説的だが、近代における聖なる「恋愛」の発見と時代的に重なっていた。)


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すべてを許すジゼルは聖母のような愛を、
一方で原罪を背負う者としてアルブレヒトはただ一人地上に遺される。

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ならば、それに対峙しうる
日本の根にある、近代の影に沈んだ精神とは、何か?
それをそれぞれのダンサーが問うてほしい。

百合の花に相当するものは、
寒さのでも凛として、今、咲こうとしている
白梅なのではないか、

百合のような、聖なる愛のジゼルがあるのなら、
白梅のような、凛とした慈しみをもつジゼルも、あっていいのではないか
と、私は密かに思っている。


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