2020年06月04日

バレエ『ロメオとジュリエット』各版比較 その8終幕「死体としてのジュリエット」(51「ジュリエットの葬儀」〜52「ジュリエットの死」)

終幕冒頭、イエーツ・東京フィルの弦楽器の弱音が素晴らしい。鋭角的なのに際立たず、静けさがあるのに激しい。何ともアンビバレンツな音を見事に奏で、この最後の場へと導いていく。この演奏もプロコフィエフの音楽の素晴らしさを更に切り開いたものである。
新国立劇場巣ごもりシアター  2:06:30〜

この場も、ラヴロフスキー版が印象的ではある。(この前にラヴロフスキー版では「間奏曲」などを使ったマントヴァに居るロメオの嘆きの踊りが入る)。
ジュリエットを悼む美しい葬列が影絵のように動いていく。その後ジュリエットの遺体は中央の一段と高くなった寝台に置かれ、その周囲に人々が並ぶ構図も美しい絵画のようだ。
→ https://youtu.be/-79tUBbBom8?t=2466
人々が去った後にロメオが走って現れ、静止したジュリエットの身体をロメオが重量挙げのスナッチの如く一気に頭上に差し上げる。さらに片手でその身体を壇上の棺に戻すという力技のリフトがある。しかもその片手で掲げられたジュリエットの身体は十字架上のイエスのようにさえ観える。
仮死とは言え、死体と踊るバレエはこの時までにあったのかどうか、寡聞にして知らないが、当時としては斬新であったに違いないし、相当に勇気にいる演出・振付だったに相違ない。原作には仮死のジュリエットの体をどうこうするとは何も書かれていない。しかしバレエである以上、「死体」の前でただ独りで踊るのでは、観る側も創る側もロメオの愛のリアリティが保てなかったに相違ない。そう考えた時に、単なる「死体」ではなく「聖なる体」である必要が、バレエの制作者にもあったのだろうし、観る側もそれなら納得出来たはずだ。「死体」と踊るというある種のタブーを犯すのだから、ルネサンス絵画が神を描くことでヌードのタブーを越えたような操作が、このシーンには必要だったのかもしれない。
二人の最後も、ラヴロフスキー版では、ロメオの身体にジュリエットの身体が十字形に交錯する(原作では「Falls on ROMEO's body, and dies」「ロメオの死体の上に折り重なって死ぬ」とト書きにあるのみ)。
ウラーノワの身体が美しい映画版
→ https://youtu.be/hbc41CB1r5Y?t=4858

ラヴロフスキー版は背景には、キリスト教の贖罪思想とマリア信仰とがあるように観える。その姿を象徴するのに清楚な仁のウラーノワほどぴったりのダンサーは居なかったであろう。またそれは初期ルネサンス絵画の世界を現代の舞台に再現したラファエロ前派のような趣もある。ラヴロフスキー版のこの場に原作のようにパリスが出ないのは、この絵画性を維持したかったからかもしれない。
モンタギュー、キャピュレット両当主が出て和解して幕となる。

アシュトン版では、ロメオがジュリエットを悼んでいるとパリスが現れ格闘となりパリスが死ぬ(ラヴロフスキー版では出なかったが原作にはあるパリスを出す。ただ原作ではロメオはパリスと知らずに刺した後に知る)。この二人の格闘があることで、ラヴロフスキー版の聖なる空間とは全く異なる様相になっている。その後、ロメオはジュリエットを抱き抱えながらその生が復活するのを望むが如く体を左右に揺り動かす。この揺り動かしはバルコニーパ・ド・ドゥの冒頭でも出てくる動きの再現で、後のクランコ版などにも影響しているかもしれないし、ジュリエットの身体そのものへの強いアプローチはマクミラン版に影響しているかもしれない。最早ジュリエットは「マリア」ではなくロメオが愛する一人の女になっている。
ジュリエットはパリスを刺して投げ捨てていたロメオの短刀を拾いそれで腹を突き刺す。その後ベッドの下に斃れるロメオの元へ這っていき、その横に添い寝するかのように絶命する。ラヴロフスキー版の聖なるジュリエットに比べ人としての愛がより強く描かれる。
https://youtu.be/IlrrXbIiHXw?t=6593

クランコ版は、大きな満月を背景にした葬列がルネ・マグリット絵画のような静寂な美しさがあり、最後はジュリエットがロメオを背後から抱き抱えゆらゆらと揺するようにして亡くなる。ロメオのジュリエットの髪への拘りといい、より人間的な情趣もある。
https://www.youtube.com/watch?v=E4MSD1t8MIA

一方、マクミラン版には、ラヴロフスキー版やクランコ版のような絵画的な美はない。死は決して美しくなどないと、マクミラン版は主張しているように思える。最後も、ジュリエットとロメオの身体は、重なる事も触れ合う事もなく別々に斃れている。あんなにも絡め合った腕と腕も、ジュリエットはロメオの腕に触れようとするのだが、力尽き離れていく。これは原作のト書き「ロメオの身体の上に折り重なって死ぬ」とは明らかに異なるマクミランの解釈である。このシーンについてロメオ役をクレアシオンしたクリストファー・ゲーブル(Christopher Gable 1940〜 )は次のように述べている。

「So they die apart, not touching.Two beautiful young lives have been totally wasted. Nothing’s been  
 achieved, nothing’s better, and they’re not united. They’re just dead, Just two dead things.」

バレエの他の版では重なり方は異なるが、皆二人が重なって亡くなっている。それをどう感じるかは様々であろうが、仮死状態のジュリエットの身体へのロメオの激しさは、しかし観る側からすると、まるでモノを扱っているかのように見えることがあるかもしれない。人の「死」に対する現代的で即物的なイメージがそこにはある。単なる「恋愛」譚ということではなく、ラヴロフスキー版初演の1940年以降に世界が体験したことが、このマクミラン版には反映しているのではないか。


ジュリエットが最後を迎えるシーンの各版を整理すると、以下のようになる。
ラヴロフスキー版 ロメオが飲んだ毒を探し飲むがもう残っていない。ロメオにしがみつき抱く。原作のようにロメオの短剣を胸に突き刺し、寝台下の階段に斃れたロメオの身体の上にジュリエットは仰向けに斃れ十字形に重なる。その後モンタギュー、キャピレットの当主が出て和解する。

アシュトン版 目覚めパリスの死体に驚きロメオを見つけ抱き寄せるも反応がないので激しく嘆く。落ちている毒瓶を煽るもない。ロメオがパリスを刺して投げ捨てていた短剣を拾い腹を突く。舞台中央から下手のロメオの方へ這いずりその腕を絡ませ絶命し、幕。

クランコ版 パリスが握っていた短剣をとり(パリスの短剣でジュリエットが死ぬのはクランコ版だけの特徴である)、寝台で死んでいるロメオの前で腹を刺し、ロメオを背後からゆらゆらと抱きながらロメオの胸の上に上体が斃れる。折り重なって死ぬのもラヴロフスキー版よりも人間的な愛情を感じる。

ヌレエフ版 ロメオが寝台の上のジュリエットを抱き起こし背後から抱えたままで毒薬を飲む(クランコ版と似ているが男女が逆)。ジュリエットの横に斃れているロメオの短剣を取り胸に突き刺し、ロメオの上に仰向けに寄りかかるように死ぬ。その後両家の人々が出て和解する。この版ではジュリエットを高々と差し上げるラヴロフスキー版の影響やジュリエットの身体を振り回し踊るマクミラン版からの影響もある。
原作では、ジュリエットは「おお、嬉しいこの短剣!/この胸、これがお前の鞘なのよ。さ、そのままにいて、私を死なせておくれ。」と、ロメオの短剣で死ぬが、ヌレエフ版は原作の通りロメオの短剣で死ぬ。これには伏線があり、ジュリエットはティボルトの死の場に出ることでマキューシオとティボルトを刺した短剣をずっと隠し持ち、それで何度も死のうとしてきたのだ。だが最後に彼女は愛するロメオの短剣で自らを刺した。ヌレエフ版において「短剣」の意味はとても深い。
posted by 星跡堂主人 at 20:55| 東京 🌁| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バレエ『ロメオとジュリエット』 各版比較 その7 第三幕「パリスとのパ・ド・ドゥ〜薬を飲むジュリエット」

第3場「ジュリエットの寝室」
「パリスとのパ・ド・ドゥ」(46「ジュリエットの寝室」)
ジュリエットは、父に促されて今一度、第1幕の舞踏会の音楽でパリスと踊る。
このシーンでは、まるで夢遊病者のように踊るラヴロフスキー版が印象的で、1940年にこのようなダンスを創った事は画期的だったと思える。ラヴロフスキー版のジュリエットは、ここでパリスとのベーゼを明確に拒む。その強いジュリエットの意志をウラーノワが強調したとされているシーンだ(注9に同じ)。ラヴロフスキー版は第1幕のパリスとのパ・ド・ドゥにおけるフルートの旋律が繰り返し演奏され、ここでのプロコフィエフの原曲とは異なるが、それだけ第1幕のパリスとの踊りの差異が観る者に明確に分かる優れた演出になっている。
https://youtu.be/hbc41CB1r5Y?t=3971
ウラーノワは明確な拒否を示していない。夢遊病者のような表情が、それは静かな拒否としてパリスに伝わる。

ヴィシニョーワは明らかにロメオとの思い出の中にある。ウラーノワよりも明らかではあるがこれもそれ程強い拒否ではない。
ラヴロフスキー版の特徴はここで強い拒否をパリスには示さないということだ。
https://youtu.be/-79tUBbBom8?t=1268


アシュトン版、クランコ版は、実はここでのパリスとの踊りがない。それをマクミラン版は復活させた。趣向としてはラヴロフスキー版を踏襲するが、冒頭のポアントで不安定に歩くジュリエットが印象的だ。一般にバレエではポアントで歩くことは少ない。彼女の不安定な心情を象徴し、既に心此処に在らずを表現している。
新国立劇場巣ごもりシアター 1:54:00〜

その後は第1幕のパリスとの踊りとほぼ同じ振りながら、ジュリエットは全く反応せず項垂れ脱力する。その一方で常に身体はロメオが消えた上手奥の窓へと向かっている。この辺りもラヴロフスキー版(下手横だが)を踏襲している。いやがるジュリエットを無理やり踊らせようとするパリスの強引なやり方は、バレエのパ・ド・ドゥでは珍しく強圧的で「強姦」に近い印象さえ与える。ラヴロフスキー版の、ウラーノワのそっとしかし明確に拒否する意志の前に項垂れたパリスとは全く異なる。両親も乳母もこの「強姦」を見て見ぬ振りをして、ジュリエットの孤独が観る者にはっきり伝わるし、ラヴロフスキー版のジュリエットに比べて明らかに強い拒否を振付に入れている。2019年4月のロンドンロイヤルバレエの高田茜は、この場面で腕を握り抱きしめようとするパリスの手に冷たくしかしはっきりとした拒絶の視線を投げかけ、パリスの方も思わずたじろぐ。

ヌレエフ版
アシュトン版以降のクランコ版、マクミラン版、ヌレエフ版では原曲にそっているが、ヌレエフ版では、舞踏会でのパリスとのダンスを再現するのではなく、舞踏会そのものを想起させる父と母との四人での美しい踊りとなり、その一方で拒否を示す中間部では他の三人が動きを止め、ジュリエットだけの身体が捻るほどの激しい表現となる。古典的な美しさとコンテンポラリーダンスをさえ思わせる激しい身体の強度、この相反するダンスの引き裂かれこそがヌレエフ版の特徴である。
最後にパリスにリフトされたジュリエットの足にキスするキャピュレット夫妻の構図はまるで磔刑のキリストのようでさえある。
https://youtu.be/S0628WZ-2CA?t=2941

米沢唯のジュリエットは、意思も何もない抜け殻として踊りだす。多くのダンサーがここで強い拒否感を示すのに比べ、米沢のそれは自らの強い「意志」としての拒否ではなく、身体が魂が否応なく拒んでいるかのように観える。1幕のパリスとのダンスでのあの不安感は、このシーンを暗示していたかのようだが、だからといって、あのシーンがこのシーンを予見していたというわけでもない。ドラマが自然にここに辿り着き、振り返ってみたらそうだったという感である。だから、伏線として元々目論まれていたわけではない。しかし、このシーン迄物語が来てみると、まるで初めからそう運命付けられたかの如く感じるのだ。


「ジュリエットの仮死」(47「ジュリエット独り」)
独りになったジュリエットは、様々な思いの中で薬をあおぐのだが、ラヴロフスキー版の初演者ウラーノワのジュリエットは、鏡の中の自分を観たり、シェークスピアの原作のように亡霊と対話しながら内省し、工夫した。愛の主題が響いてくると、ロメオが去った窓辺へとジャンプして薬を一気に飲み干す。飲み干してからももう一度鏡を観て、寝台の柱に捲き付きロメオの方へと腕を差し伸べたアラベスクをした後に、横たわる。この一連のシーンも、ウラーノワの存在があってこそだろうが、ラヴロフスキー版は素晴らしい。
https://youtu.be/hbc41CB1r5Y?t=4179

ラヴロフスキー版では、この第3幕の疾走→僧院→薬を飲むまでの一連の流れが有機的に繋がって、それらが全体でジュリエットの苦悩を伝える構成になっている。2015年12月のマリインスキーバレエ東京公演でのクリスティーナ・シャプラン(Kristina Shapran 1991〜)は、このシーンが出色の出来であり、彼女によってウラーノワの創造した深みを、私は体感できた。

クランコ版には前段のパリスとのパ・ド・ドゥの再現シーンがなく、結婚を承諾したらすぐに薬を飲むシーンになる。一度、封を明け口まで持っていくが呑めず、そこへ来た乳母に抱きつき、また離れ、独りになりベッドに横たわり、愛の主題で大きく手を拡げて、薬を飲み干し、ロメオへの愛が強調される。
https://youtu.be/uVq_iW4lnKc?t=328

一方、マクミラン版は、ラヴロフスキー版を踏襲しつつ、両親や乳母からも見捨てられパリスに強引に迫られる孤独という独自の現代性を組み込んでいる。この時のジュリエットにとって何が「孤独」だったのかが問われる。
新国立劇場巣ごもりシアター 1:57:00〜

ヌレエフ版
ラヴロフスキー版を下敷きにしつつも、ジュリエットがよりフランス的な強い意志をもった女性になったヌレエフ版では、他の版にはないティボルトとマキューシオの亡霊が出て(原作第4幕第3場ではティボルトの亡霊をジュリエットは見ている)、ジュリエットはティボルトの差し出す短剣とマキューシオの差し出す薬瓶との間で身体を引き裂かれるように踊る。そうしてジュリエットは自らの強い意志で選び取る。
https://youtu.be/S0628WZ-2CA?t=3157

ジュリエットが仮死にいたるこのシーンは音楽的には、ファゴットとフルートの不安定な「仮死の主題」の旋律にチューバが奏でる暗い低音の「死の主題」とが絡み、この場の空気感をプロコフィエフは見事に作っている。音楽がライヴ空間を創造している。ダンサーはその音の中に身体を浸すことでジュリエットの心情を感じられるドラマトゥルギーになっている。まさにバレエだからこそ出来る絶品の場面である。
https://youtu.be/S0628WZ-2CA?t=3157
posted by 星跡堂主人 at 19:13| 東京 ☀| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バレエ『ロメオとジュリエット』 各版比較 その6 第三幕「ジュリエット独り〜間奏曲、ロレンスの僧院へ」

「ベッドに腰掛けて」〜「ジュリエットの疾走」(42「ジュリエット独り」〜43「間奏曲」)
両親からパリスとの結婚を言い渡されたジュリエット(他の版に比べ両親ともにジュリエットに結婚を迫りジュリエットの孤独感がより強い)は、ただひとりで嘆きながら、ロメオと一夜を過ごしたベッドに腰を下ろす。ここで全く踊らないで嘆きつつ、音楽が「間奏曲」に変わる所で静かにベッドに腰を下ろす点が、マクミラン版の大きな特徴である。

ラヴロフスキー版では、父のみが責め立て母と乳母はジュリエットをかばう。42「ジュリエット独り」で踊り、嘆きと共に正面に身体を開き見物に訴えるかのようにして、その後ロメオの愛の誓いを思い出し、43「間奏曲」へと続き神父の元へとマントを翻して疾走する。
https://youtu.be/-79tUBbBom8?t=649

アシュトン版は、拒絶のポーズが特徴的で興味深い。この版でも母はなだめ役をしている。「ジュリエット独り」では激しく動き回っている。身体を前後に大きく反らせる動きが特徴的。「間奏曲」でジュリエットが道に迷いながらも僧院に辿り着く姿を最も描いている。
https://youtu.be/IlrrXbIiHXw?t=5094


クランコ版では「ジュリエット独り」がカットされているので、父との諍いの後すぐに「間奏曲」になり、嘆き、身体の寒さを感じマントを羽織って、僧院へと走る。クランコはなぜ「ジュリエット独り」をカットしたのだろうか。
https://www.youtube.com/watch?v=uVq_iW4lnKc

マクミラン版以前の他の版と比べると、43「間奏曲」を使って、その間に動くことなくただベッドに座り続け、徐々に気持ちを高めていくマクミラン版は、際立って特徴的といえる。
新国劇場巣ごもりシアター 1:45:00〜

マクミラン版初演当時(1965)、この「間奏曲」を聴いたロンドンの見物の誰もが、神父の元へと疾走する映画版『ロメオとジュリエット(バレエ)』(1954年 レフ・アルンシュターム Lev Oskarovich Arnshtam 監督)のウラーノワを思い起こしたことだろう。
https://youtu.be/hbc41CB1r5Y?t=3576

ウラーノワへのオマージュが、全くの振付なしのシーンを作ったのではないかとさえ思える。実際のラヴロフスキー版の舞台は、映画ほど疾走するわけでもないのだが、ウラーノワは、このシーンのジュリエットに関して「私はジュリエットの中に異常な意志の力、自分の幸福のためにはたたかいも死もおそれないという心構えをみた」と述べているが、それがもっとも現れたのがこの「疾走」だったと私には思える。初演の1940年当時のバレエにおいて女性バレリーナが「疾走」することが如何に新しかったかは、今でもそのようなバレエが少ないことからも分かる。
一方でマクミラン版が初演された当時のロンドンではザ・ビートルズを初めとした新しい若者文化が生まれていた。それ故、この場面でもっと激しく走らせ踊らせることは出来たかもしれないのだが、マクミランはそうしなかった。このシーンに関しては、振付家とダンサーとの興味深い対話が残されている。

「Her stillness would last for what seemed like eternity before she made up her mind to seek Friar Lawrence’s help. ’Shall we dare?’ asked MacMillan, apprehensive about the long wait. ‘Why not?’ responded Seymour. ‘If you’re in a predicament like that, it’s just like squeezing yourself together until suddenly you snap your fingers, you find the only thing to do.’ 」

J.Parryは、この関係を「They tried out the immobile sit in rehearsal, realising that it would work. On stage, the effect is that of a film close-up, drawing the audience in to share the girl’s agonising tension. 」と評した。(『Different Drummer: The Life of Kenneth MacMillan』Jann Parry 2009年、London)
ジュリエット役のクレアシオン、リン・シーモア(Lynn Seymour 1939〜)が、この場面で敢えて、ベッドの上で永遠のように思えるほどの動きの静寂を創った。今でこそ、誰もがこのシーンを知っているが、このシーンを初めて試みた時は想像を絶する勇気が要ったことだろう。バレエのシーンで、何もせずただ音楽に聴き入ってじっとしているなどというシーンは前代未聞である。ダンサーにとって踊らないことほど辛いことはない。ひょっとしたら素の自分が出てしまうかもしれないからだ。言い換えれば、シーモアに絶対的信頼を置いてたマクミランが、自分のバレエ『ロメオとジュリエット』の中でのジュリエットが、第一幕から終幕のここまで来て一体どのようなジュリエット像を獲得しているか、物語内部のリアリティという点から、この場面でどう踊る/踊らないことが相応しいのかを、彼女に託した結果がこの劇的なシーンに繋がったのだろう。バレエにおける振付家とダンサーとの協働が見事に成功した例だと思われる。だからこそ、このシーンをどう「踊らないか」は、ジュリエットダンサーひとりひとりそれぞれの「はら」が試されることになる。このシーンのシーモアの映像がないのは非常に残念だ。

また、このシーンは観る側からも興味深い状態に促される。誰もがジュリエットと共にプロコフィエフの音楽に聴き入り、第一幕からの物語内容を想起する時間を得ることになるからだ。さらには今此処での舞台だけではなく、この作品が持っている記憶、ウラーノワの「疾走」の記憶をさえもこの場に引き込んでいくことが可能となる。ダンサーにも観る側にも、自分なりのジュリエットを創造していくある種の「自由」がこのシーンにはある。そしてその「自由」こそが、各自に自らの身体と向き合うことを求めてくるのだ。


このシーンは、ヌレエフ版(1984年)も印象的でもある。母からは平手打ちさえ食らって、父には引きずり回され、挙げ句の果てに父、母、乳母によって強制的に結婚衣装を着せられる。(この場で結婚衣装を着せられるのはヌレエフ版の特徴)。マクミラン版以上の孤立感である。心ならずの衣装に嫌悪しのたうち回るジュリエット、ティボルトがマキューシオを刺しロメオがティボルト刺し殺したその短剣を取りだして何度も突こうとするが、突けない。既にこのシーンで死のうとするジュリエットは他の版にはない。自由か死かという如何にもフランス的主題がこの場面のジュリエットには現れている。間奏曲がかかりジュリエットは希望を見いだし祈る、しかしその手には短剣がしっかりと握られたまま、というか手から短剣を離すことが出来ないままと云うべきか、ロレンスの元へ走るのだ。ヌレエフ版のジュリエットはまさに家族、家の軛と闘っている。僧院でも胸を突こうとするのを危うく止められ、薬を貰い、ジュリエットは短剣と薬瓶との両方を奉じて帰ってくる。その後も、この短剣か薬瓶かは、死せるティボルト(シェークスピアの原作に忠実に)とマキューシオの亡霊との内的な対話によって、ジュリエットは最後まで迷い続ける事になる。
https://youtu.be/S0628WZ-2CA?t=2312

第2場「ロレンスの僧院」
「ロレンス神父のもとへ」(44「ロレンスの僧院にて」)
ラヴロフスキー版もアシュトン版も後のヌレエフ版も含めて嘆きと共に、神父の前で、原作(第四幕第一場)のように短剣で死のうとする決意を見せるジュリエットを見せているが、マクミラン版のこのシーンは大変短く、ジュリエットの死の決意は示されず、薬を貰う事の躊躇も、一度は突き返すがすぐに神父と共に祈ることになる。
A.フェリのジュリエットの映像(1984年、ロンドン・ロイヤルバレエ)は、ここで音楽が「死の主題」で不安感を出すと祈りの途中で独りだけ顔を上げるが、他の版に比してマクミラン版はこのシーンでジュリエットの決意をそれほど描かない。この版では、ジュリエットの決意の全ては、仮死へと導く薬を呑みほすシーンに向けられている。そのためにこそ次のパリスとの場面が重要となる。
ラヴロフスキー版 https://youtu.be/hbc41CB1r5Y?t=3773
posted by 星跡堂主人 at 19:06| 東京 ☀| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バレエ『ロメオとジュリエット』 各版比較 その5 第三幕「前奏曲〜寝室のパ・ド・ドゥ」

第三幕
(37「前奏曲」)
冒頭、激しい不協和音の一撃がある。これは第1幕で騒乱を引き起こしたモンタギュー、キャピレット、両家へのヴェローナ大公の訓誡の場で流れる第7曲「大公の命令」冒頭部の再現で、ここではロメオの追放を示しているとされるとされるが、実際に舞台でこれを聴くと、この曲の醸す強烈な悲劇性を感じざるを得ない(ヌレエフ版では第1幕冒頭でこの主題が使用され物語の通奏低音としての「死」を提示している)。その一撃の後に曲は弦楽合奏の甘美なオルガン的な音に変わり、そのまま朝の場へと繋がる。
ヌレエフ版では、ジュリエットが前幕最終場でロメオがティボルトを殺した小剣を持ったまま死神と寝るという斬新な演出がされ印象的。
これは原作第三幕第二場のジュリエットの言葉「Nurse, I’m going to lie in my wedding bed. And death, not Romeo, can take my virginity!」に基づいている。


寝室のパ・ド・ドゥ
ラヴロフスキー版
フルートの美しい旋律で幕が開くと、ロメオはジュリエットの寝ているベッドに凭れ掛かり寝ている。ラヴロフスキー版の特徴であるがどの場面もとても絵画的だ。
ジュリエットの悲しみにロメオが寄り添い、典雅なアラベスクがここでもジュリエットの振付の特徴であり、特にアラベスクのままリフトされそのまま廻る部分は印象的。二人が肩を寄せ合って手を大きく拡げる振付はバルコニーの再現で、その後左腕を上げたロメオにジュリエットが右腕を巻き付け体も大きく撓らせたアティチュードでゆっくりと回転する振付は彫刻のように美しい。この場の白眉ともいえる。
この版の特徴は、途中曲想が変わる部分で部屋の外に誰か人が来ていることを感じて動揺し、その後二人の急く気持ちと共に音楽も加速しロメオは窓の外へ飛び出していく。
前半が愛の別れのアダージョで、後半は外部の圧力に抗する二人という両面を強調している。
Mariinsky Ballet, Diana Vishneva and Vladimir Shklyarov 2013
https://youtu.be/22SyWOJ3N6g 

Moscow Bolshi Ballet, Galina Ulanova, Yuli Zhdanov 1954
https://youtu.be/hbc41CB1r5Y?t=3136  


クランコ版
ロメオがマントを取ろうとするとジュリエットが起きてカーテンを閉める。ロメオはやや下手にぼんやりと立っている。そこへ上手奥からジュリエットが駆けて来て背後から抱きついてパ・ド・ドゥが始まる。向かい合いジュリエットの腰に抱きつくとジュリエットが上体を反らして廻す(マクミラン版に似ている)。
アラベスクしたジュリエットをロメオが抱え、宙で一回転させる。思わず脱力して倒れそうになるジュリエットをロメオが髪を撫でながら(髪を撫でるはクランコ版の重要なモチーフ)抱え上げ、リフトされ背中を大きく反らし、半回転して対面し、手を上方に差し出したロメオの身体に脱力したようにしがみ付く。一旦は離れるも抱き合い、今度は腕を大きく横に拡げたロメオの首に腕を巻きつけそのまま横へ移動(cf.薬を貰う場面での神父とのリフト)、ロメオが身体を抱くとジュリエットは大きく腕を広げ仰け反る。また首にしがみ付くを繰り返しながら、舞台を上手から下手前へ移動。アラベスクから回転し再びロメオの方へ背中から倒れかかるとロメオは両手を前方へ突き出しジュリエットの脇に腕を入れ受け止める(クランコ版に特徴的な振り)。「愛の主題」で回転しアラベスク(『白鳥の湖』に似ている)。リフトされたジュリエットは顔を覆う。曲想が変わる部分で大きくリフトされ脱力しアラベスクで抱えられる。前半部が繰り返されるも、抱えられたジュリエットが倒れながら脚をバタバタさせる特徴的な振りがある。ロメオは窓の方へジュリエットを再び引き戻す。音楽が加速するとグランジュテの型でのリフトなどを繰り返しベーゼ。ロメオはジュリエットに顔を覆うように促し、彼女の髪に顔当てて、その間に立ち去る。弦のピチカートでハッとしたジュリエットは窓の方へ駆け寄るももう彼はいない。
ラヴロフスキー版由来のアラベスクを基本にしながらも、脱力するようなジュリエットの踊りは、クランコ版が新しく創り上げたものと言っていい。

Stuttgart Ballet, Marcia Hardée,Richard Cragun 1973
https://youtu.be/4jvFcp-pwlI


マクミラン版
ラヴロフスキー版以来の弱るジュリエットをロメオが抱き寄せる点は同じで(ウラーノワへのオマージュも入れながら)、クランコ版と同じく抱きとめながらの回転が多用されるが、その回転がより捲き込むような身体の水平ラインでの曲線として強調される。クラシックバレエには余り無いフロアに泣き崩れることとリフトとによる上下のラインも強調される。そのためにより立体的に観えると言える。さらに音楽が加速したところで敢えて振付は直ぐには加速せず、一旦ジュリエットが佇み泣く仕草を見せその後、加速していく。前半部の再現でさらに加速する。加速と停止の繰り返しにより、観る者にさらなる加速感を抱かせる構成になっている。
新国立劇場巣ごもりシアター 1:38:00〜
posted by 星跡堂主人 at 18:55| 東京 ☀| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バレエ『ロメオとジュリエット』 各版比較 その4 第二幕「結婚の場と騒乱」


第二幕は、僧院でのジュリエットとロメオの結婚と、キャピュレット、モンタギューの騒乱のコントラストが、このバレエの中心である。
ラヴロフスキー版はこの両者にバランス良く作られて、特に結婚の場は美しさと騒乱の場の群舞は、1940年初演時には革新的な演出振付だったと思われる。
ラヴロフスキー版 結婚の場 
→ https://youtu.be/ZXyhWsbjP9I?t=1359
初演時のウラーノワは限りなく清楚で美しかったことだろう。この場はウラーノワあってこその場だったと思える。
ウラーノワ は、自身のジュリエットの造形に関して、ボッティチェリなどルネサンス期の肖像画を参考にしたと述べているが、まさにそのような古風で清純な美しさを感じさせる。

710233.jpg

ラヴロフスキー版初演時(1940年)結婚の場での、
ウラーノワのジュリエットとセルゲイエフのロメオ


クランコ版は、カーニバルダンスに力点が置かれており、他の版よりもそこが印象的。様々なキャラクテールダンスの集積のようだが、その一方で古典的なフォーメーションも重視されている。さらに、娼婦役をクローズアップしたのもこの版の秀逸な点。
マクミラン版は、そもそもカーニバルパレードではなく、街の喧騒の中に結婚のパレードが入って来て、これがジュリエットとロメオのそれと対比される。
このヒントは実はアシュトン版にあった。アシュトン版ではマキューシオが舞踏会で仲良くなった女性とのパ・ド・ドゥを踊る。ジュリエットとロメオとは異なるもう一組の男女が設定された。
但し、アシュトン版ではそれがマキューシオの死によって悲劇になる。
悲劇は、ティボルトの死としてラヴロフスキー版以来第二幕の主題になっているが、アシュトン版は第二幕のラストで、バルコニーで嘆くジュリエット、ティボルトの死を嘆くキャピュレット夫人、さらにマキューシオの恋人を場面に出して、三重の悲劇として印象づけこの幕を閉じる。
一方、マクミラン版は、ジュリエットとロメオとの結婚の場にはそれ程力点が置かれず、ラヴロフスキー版のような美しい結婚と騒乱の対比ではなく、騒乱とその悲劇に中心が置かれ、街で結婚のパレードも挿入しているわりには他の版に比して(アシュトン版もクランコ版もラヴロフスキー版ほどではないが美しい場になっている)結婚自体は余り印象に残らない。ティボルトの死とそれを嘆くキャピュレット夫人へと重心は置かれる。
キャピュレット夫人の嘆きの場は実は原作にはなく(原作第三幕第一場で夫人はティボルトの死を悲しんでいるが、ヴェローナ大公に公正な裁きを訴える方に力点がある。)、プロコフィエフとラヴロフスキーの創作なのだが、ラヴロフスキー版でのティボルトの遺体を乗せた輿に髪を振り乱して嘆く姿も印象的だが、ここではキャピュレット卿や他の従者も出るのでキャピュレット家全体がこの悲劇を嘆き復讐を誓う場(夫人は輿の上で「殺せ」のポーズをする)としての印象が強い。
これを同じように輿に乗せて嘆くクランコ版では、夫人だけが服をはだけ、髪を振り乱して激しく嘆く(ラヴロフスキー版のように「殺せ」ポーズはしない)。また、斃れたティボルトがさらにロメオに襲いかかっていく演出はクランコ版に既に見られる。
これがマクミラン版となると、輿には乗らず、夫人一人がその場でのたうち回り、より夫人一人の強い嘆きが強調される。
キャピュレット卿も出てくるが階段の上で立ち止まり、舞台中央にはただ夫人とティボルトだけが残されるのは、マクミラン版の特徴であり、夫人役の為所でこの嘆きの凄みが本島美和はの演技にはよく出ていた。映像よりも2019年の公演時の方がさらに凄みが増した。


ラヴロフスキー版 https://youtu.be/ZXyhWsbjP9I?t=2400
アシュトン版 https://youtu.be/IlrrXbIiHXw?t=4369
クランコ版 https://youtu.be/4loEwSl-giI?t=418
新国立劇場巣ごもりシアター https://bit.ly/2ACWxmU  1:33:00〜

ヌレエフ版は、他の版にはないジュリエット自身がこの場に登場するのが大きな特徴。これは当時の時代背景からすればあり得ないことだが、ティボルトのこの死のシーンが、ラヴロフスキー版ではキャピュレット家全体の悲劇と復讐として位置づけられたものが、アシュトン、クランコ、マクミラン版とキャピュレット夫人その人の嘆きとして印象づけられてきた上演史のなかで、さらにジュリエット自身の嘆きを、この場でしかももの凄い迫力で体が波打つコンテンポラリーダンスのような振付でそれを描いたことは、バレエ『ロメオとジュリエット』史の中で画期的だと云わざるを得ない。
そして、この時ティボルトを突き刺したロメオの短剣を手にジュリエットは第三幕を迎え、印象的な死神とのベッドシーンへと繋がる。
第三幕冒頭の前奏曲で、ジュリエットは前幕最終場でロメオがティボルトを殺した小剣を持ったまま死神と寝るという斬新な演出がされるのである。これは原作第3幕第2場のジュリエットの言葉「Nurse, I’m going to lie in my wedding bed. And death, not Romeo, can take my virginity!」に基づいている。
この短剣は第三幕で一貫してジュリエットを支配し続ける。彼女がそれから解放されるのは、その死に際してまでやってこないというのが、ヌレエフ版『ロメオとジュリエット』のドラマトゥルギーであり、マクミラン版が焦点化したジュリエットの主体性をさらに深めたのがヌレエフ版である。
ヌレエフ版  https://youtu.be/S0628WZ-2CA?t=1589

posted by 星跡堂主人 at 02:20| 東京 ☀| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バレエ『ロメオとジュリエット』 各版比較 その3「バルコニー・シーン」


バルコニーシーンは、原作では「第二幕第二場「キャピュレット家の庭園」(ヌレエフ版は噴水も作り原作の庭園のイメージを再現している)になっており、エリザベス朝の二階建ての舞台機構を活かしたシーンになっていたようだが、バレエで高さのあるバルコニーが設定されたのは、クランコ版から。
ラヴロフスキー版は大きなテラスのように見え高さの上下はない平面の作り。
アシュトン版は舞台奥に階段が設置されているので、そこで僅かに上下の高さをだすが、クランコ版は明らかに高い位置にバルコニーが作られた。だが、マクミラン版のように階段はない。
抑も館のバルコニーに階段はないだろう。この版ではロメオがジュリエットを抱え少しづつ降ろしてくるのに対して、階段を設置したマクミラン版ではジュリエット自らが階段を駆け下りてくる。本来は無いだろう駆け下りる階段を設定した点で、マクミラン版は特異とも言えるし、ジュリエット像を考える時にもとても大きな差異だと記憶しておいて良いだろう。

ラヴロフスキー版 https://youtu.be/k5_fbR1_p6w
クランコ版 https://youtu.be/cDloTFpoZAI
マクミラン版(新国立劇場巣ごもりシアター) 51:50〜
ヌレエフ版 https://youtu.be/-IChqA_gQMY?t=3903


パ・ド・ドゥ、ラヴロフスキー版は腕を絡めるようなポーズやリフトが印象に残り、ロメオは『白鳥の湖』の王子のように大きく右手を上げ愛を誓う。愛を確かめ合う二人が体を寄せ合い、片手を広げてその愛を訴えるポーズも印象的。この版全体が典雅でクラシックな作品に仕上がっているので全体の統一性がそこにはある。また後のマクミラン版でジュリエットが自分の胸にロメオの手を当てさせる仕草は、ラヴロフスキー版パ・ド・ドゥ冒頭の引用である。ただ、プロコフィエフの音楽が振付に対してやや余っているようにも観える。

アシュトン版は、リフトが少なくアラベスクなどが印象に残るが、舞台奥の階段の上をバルコニーに見立てた。

クランコ版は、従来の二つの版に比してさらに難しい振付を試みた。ラヴロフスキー版でも見られた逆さリフトだけではなく、ジュテするジュリエットを抱きとめ回しながら抱えフィッシュまで持っていくなどの様々な難しいリフトがあり、音楽の速度に振りが遅れない。クランコ版に至って初めてプロコフィエフの音楽に振付が十全にフィットしたといえる。また、アシュトン版の舞台形状をさらに徹底して、舞台を横切る大きな橋状の構造を作ったユルゲン・ローゼの巧妙な舞台装置により、それまでの版よりも明確にバルコニーと分かる設えとなった。パ・ド・ドゥ冒頭で、ジュリエットはバルコニーに見立てられた橋状構造の上から少しづつロメオによって降ろされ、逢瀬の後にはまた戻される。ロメオがバルコニーの端を掴んで懸垂をして高さが強調されもする。現在、観客の多くがイメージするバレエ『ロメオとジュリエット』のバルコニーシーンは、このクランコ版によって創られた言っても過言ではない。

マクミラン版は、振付の多くの点でクランコ版を踏襲しているが、弓のように撓ったジュリエットをリフトや、ロメオが跪いてジュリエットを上げ下げするリフトを繰り返す点が特徴。この二つの振りはマクミラン版を強く印象付ける。

その後に創られたヌレエフ版の舞台はラヴロフスキー版のテラスと似たイメージだが、この場は「Le jardin des Capulet」とされ、原作の「Capulet's orchard」の再現と思われる。舞台奥の数段上がった所には噴水も設えられ、その前でジュリエットがフランス風の美しいロンドジャンブ・アテールをする。さらに大きな特徴は、ロメオだけが踊る場(20「ロメオのヴァリアシオン」)でもジュリエットも踊り、パ・ド・ドゥ全体が、二人がお互いの踊りと身体を追いかけ合うフーガのような構造になっている点だ。踊りのレベルとしても明らかに一段上がった感があり秀逸な振り付けである。パリ・オペラ座での改訂版は1984年にモニク・ルディエールとパトリック・デュポンによる初演である。


posted by 星跡堂主人 at 00:46| 東京 ☀| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする