2010年08月14日

雑司が谷に遺る戦痕 Les cicatrices de la guerre de Zoushigaya




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これは法明寺門前脇にある銀杏の木。
黒く炭化した部分は焼夷弾で燃えた痕と、
この銀杏の横に住んでいらっしゃるおばあさんから伺った。

今の、雑司が谷にも、戦争の傷痕は、遺っている。

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銀杏の全景


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春になって新芽が出てきた頃の、戦災銀杏



また、
他の方には、東通りに居る布袋様も、戦災で腕がもげている。
あの布袋様は以前はジュンク堂の辺りにあった、と伺った。

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確かに左手を失っていらっしゃる。
それにしても、石像の腕がこんなになるとは、どれほどの猛火なのか、、、



さらに、
雑司ヶ谷霊園の墓石に、
艦載機による機銃掃射の痕があるとも伺った。

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背面に回ると、右肩から一筋の弾痕がはっきりと遺っていた。

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戦災樹木で有名な銀杏は、雑司が谷からもほど近い大塚の天祖神社にもある。
その異様な姿には、一目で惹きつけられる。

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近くによると、燃えた痕が今でも生々しい。
雑司が谷の法明寺なども燃えた同じ日、昭和20年4月13日の
無差別空襲による傷。

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この銀杏は長らく新芽を出さなかったが、何十年も経ってから
新芽を吹いたという。


戦争は、それを知らないものには、遠い昔の話だが、
今でもよく見れば、街には戦争の傷痕が遺っている。

その時、多くの命が失われたことを、思い出すよすがでもある。
きっと、それはその時を生き、今もそれを記憶しているひとの
胸の奥にも、癒えることのない傷として遺り続けている。

それは見えないが、見ることも決してできないわけではないと、思う。




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雑司が谷御嶽坂に咲いている芙蓉












posted by 星跡堂主人 at 19:47| 東京 ☁| Comment(0) | 戦災 Cicatrices de la guerre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月25日

山の手空襲 ハチ公像の作者 安藤照(あんどうてる)、士(たけし)親子

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初代ハチ公像


渋谷駅前に佇むハチ公は、実は二代目であることは余り知られていない。
初代の作者は、鹿児島の西郷隆盛像などを造った安藤照。
1934(昭和9)年に完成し、1944(昭和19)年に戦争のための金属供出で
「名誉の出征」と遂げている。
現在の二代目は、戦後の1948(昭和23)年に完成し、
作者は、安藤士(あんどうたけし)で、初代の作者照のご子息である。


二代目を造るにあたっての士の談話が、『東京新聞』に連載された。
(5月23、24日 朝刊)
それによれば、終戦直後の物資不足の中、像を鋳造するための銅がなく、
途方にくれていたところ、空襲で焼け落ちた自宅の庭に
父が戦前に手がけた大作「大空に」が無惨な姿でころがっていた。
士は、これを溶かして銅を得て、今のハチ公を鋳造したという。

興味深いことに、
この時のハチ公像の石膏原型が、鹿児島と秋田県鶴岡に遺っているという。→
http://www.edita.jp/kagoshima-food/one/kagoshima-food824394.html

http://www.shonai-nippo.co.jp/cgi/ad/day.cgi?p=2006:9:24

鹿児島のが「石膏原型」、鶴岡のものが「試作品」とされているが、
ハチ公が如何に人に愛され、この作品が人々に伝えられてきたかを、
よく示すエピソードだ。
鹿児島は初代の作者安藤照の故郷、秋田県はハチの故郷である。

所で、この安藤照は、雑司が谷とも縁がある。
雑司が谷に現存する旧宣教師館に住み、キリスト教の布教活動をしつつ、
青年教育や幼児教育に携わっていた
ジョン・ムーディー・マッケーレブ(John Moody McCaleb)の設立した全寮制の雑司ヶ谷学院で
安藤照も学んでいたのだ。→
http://www.city.toshima.lg.jp/129/bunka/bunka/shiryokan/kyusenkyoshikan/documents/senkyoshi39-40_1.pdf

旧宣教師館は現在、豊島区郷土資料館の分館で、東京都の有形文化財に指定されている。

実は、マッケーレブ邸では、
鹿児島出身の東郷青児の父が料理人として雇われており、
東郷青児も若い頃は熱心なキリスト教信者で、教会で絵画を描いていた。
徳富蘆花なども関わっていた今の旧宣教師館、マッケーレブ邸には、
熊本、鹿児島人脈があったと推測される。



今日、5月25日は、
東京の山の手が灰燼に帰した山の手大空襲から六十五年目に当たる。
渋谷区初台に住んでいた安藤照が、自宅防空壕の中で亡くなった、
その空襲の日でもある。
(安藤照は「東京大空襲」で亡くなったと書かれているものもあるが、
『東京新聞』の記事でご子息の士は、5月25日の空襲で亡くなったと述べている。)




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安藤照「お下げ髪の少女」











































posted by 星跡堂主人 at 21:35| 東京 ☀| Comment(0) | 戦災 Cicatrices de la guerre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月10日

東京大空襲 65年目の3月10日

65年の歳月は、それを体験してこなかった者には遠く、
体験した者には、昨日のことのように生々しく肉体をえぐる精神の疼きだろう。

私は、それを知らない。
昭和20年3月9日深夜に、
麻布で被災し日本橋まで逃げまどったという父の話から、
僅かにそれを知る程度だ。

自分の経験しないものをイメージするには、それなりに努力が必要だし、
怠惰で忘れっぽい人というものは、それが苦手だ。
どう、3月10日の東京の記憶を繋ぎ止めるかは、
その人それぞれの思いの強さによるしかない。

しかし、一方で、
その体験は余りにも惨いので、多くの体験者も
それを語ることが大変困難でもある。
思い出したくない、忘れたいのが人情だろうし、
また、体験してない者も、そんな悲惨なことを目の当たりにイメージしたくもない。
ごろごろと転がっているトーストされた死体の山、
今も戦災者に遺るケロイドの傷。
そんなものは見たくないのが、人情だろう。
(体験者の方は視覚よりも強烈な人の焦げる匂いという臭覚をよく語る)
それを、
敢えて見ろとは、何人も強制はできない。

にもかかわらず、
これを記憶することが、
私の住む東京という街とその人たちにとって大切だとしたら、
どうしていけばよいのだろうかと、戸惑う。

記憶こそが、ひとという生命体にとって、
単なるDNAの運び手でしかないという存在を超えうるものだとしたら、
自らのDNAにその記憶をどう刻むかは、結局、
その個体と環境との葛藤からしか生じないだろう。

だとしたら、個体としての私が、戦災という状況にどう関わり、
どうその体験者の肉体に刻まれた精神の疼きを、自らの身体で感じるか、
そういうことになる。
それはそれぞれの私の身体が、どう感じるかでしかない。

ただしかし、身体が感じるというのは、単なる感性だけの分野ではない。
感じるには、思考も知識もなければ、感じることはできない。
思考も歴史認識も全てを総動員して感じることがなければ、
所詮、身体に記憶を刻むことはできないだろう。

これらの樹々が、今もその身体に記憶を刻むでいるように、
私も、感じたい。



浅草寺本堂脇の戦災銀杏

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雑司が谷法明寺の戦災銀杏

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米軍が空撮した昭和20年3月10日朝の下町
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東京大空襲関連の記録の載るサイト→
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tokyoudaikuusyuu.htm

東京大空襲の国家賠償を求める訴訟→
http://www.geocities.jp/jisedainitakusu/sub-sosyo.html

3月14日まで横網町公園復興記念館で開催されている
東京大空襲を記録した石川光陽の写真展の記事→
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20100220/CK2010022002000049.html






posted by 星跡堂主人 at 21:07| 東京 ☁| Comment(0) | 戦災 Cicatrices de la guerre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月13日

明日、東京大空襲訴訟、判決

明日、14日、東京地裁で東京大空襲訴訟の判決が出ます。

空襲の被害は国民が等しく受忍すべきものという従来の考え方に
変更が為されるか、注目されます。

戦争の悲惨さに耐え、また亡くなった方々への追悼の思いで、
訴訟を起こされた方々に敬意を表したいと思います。

今日付の『東京新聞』は一面抜きで特集記事が載っていましたが、
ネットにはアップされてないようで、
以下は『毎日新聞』の記事です

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091213-00000018-mai-soci

雑司ヶ谷近辺も、4月13日の城北大空襲で大きな被害を受け、
毎年、4月13日には南池袋公園で
「4.13根津山小さな追悼会」が開かれます。
http://www.com-support.co.jp/nezuyama-tsuito/

この公園の近辺はかつて根津山と呼ばれていて、
空襲で亡くなった方々が埋められたと云われています。
メトロ有楽町線の工事時に、遺骨が幾らか発見されました。

私たちの東京という街が、
戦災で亡くなった方々と切っても切れない都市であることを、
忘れたくないと思います。



posted by 星跡堂主人 at 23:57| 東京 ☁| Comment(0) | 戦災 Cicatrices de la guerre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする