2019年05月01日

新国立バレエ『ラ・バヤデール』(牧阿佐美版)2019年3月公演 ーー米沢唯の踊ったニキヤーー レヴューノート


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ニキヤとは如何なる存在かを問うことなくして
『ラ・バヤデール』は踊れない。
聖なる巫女としてのニキヤ
本来は神に仕える(神の女)であるニキヤは、
地上の戦士であるソロル(太陽)と恋をすることは許されないはずである。
それはいわば不倫であり、神に罰せられるべき行為である。
ところが、バレエ『ラ・バヤデール』ではニキヤは罰せられる事がない。
いや、そのように見えるだけかもしれぬ。

新国立バレエの牧阿佐美版は、「影の王国」で終わる版ではなく、寺院崩壊まで含む原典版(1877年10月 サンクトペテルブルク Théâtre Bolchoï Kamenny 初演)に近い形になっている。
現在、寺院崩壊まである版は以下の4つである。

・マカロワ版(1980年5月初演、ABT Natalia Makavova/Anthony Dowell/Cynthia Harvey )
・新国・牧阿佐美版(2000年11月初演、アンナ・アントーニチェワ/カルロス・アコスタ/田中祐子)
・マリインスキー・ヴィハレフ復刻版(2001年5月復刻初演、Daria Pavlenko/Igor Kolb/Elvira Tarasova)
・ラトマンスキー 復刻版(2018年11月復刻初演、ベルリン州立バレエ Polina Semionova/Alejandro Vireilles/Yolanda Correa ) 

マカロワ版は、結婚式途中でニキヤが現れ、寺院崩壊となり、ニキヤの掲げるヴェールをソロルが持って天に導かれるように終わる。

ヴィハレフ復刻版は、寺院崩壊の後、ニキヤが高々と右腕を上げると背景にブッダが現れる。ニキヤは神仏との共に世俗の欲望に断を下す。だが倒れるソロルの元に歩み寄り抱え起すとソロルは蘇り、ニキヤのアラベスクをソロルがサポートする型で幕となる。

ラトマンスキー版は未見だが、レヴューによると寺院崩壊シーンはプロジェクトマッピングが使われ、筋は概ねヴィハレフ復刻版と同じようだ。
ラトマンスキー版のレヴュー(英文)→ https://bit.ly/2URKgjd


一方、牧版の最も大きな特徴は、ヴェールを掲げて聖なる山へと坂を登って行くニキヤに追いすがるソロルは一旦はヴェールを手にするも、途中で生き絶えて斃れる。
ニキヤひとりが、坂を登って行き、幕となる。
これに関して、
牧阿佐美は「こうまで女性二人を悲しませ死に至らしめる男性が本当に許されていいものなのでしょうか」という疑問があったと述べている。
(「『ラ・バヤデール』改訂振付にあたって」 2000年11月初演時パンフレット)
この改訂にあたり音楽を担当したジョン・ランチベリーは、牧版の悲劇的なラストシーンと音楽との不調和に関して
「最後の和音を長調から短調に変える事で簡単に解決した」と述べている。
(「『ラ・バヤデール』ミンクスの音楽と牧阿佐美版について」2003年2月再演時パンフレット)
しかし、この音楽的処理は、2008年5月にアレクセイ・バクランが指揮をするようになってから元の長調に戻され現在に至っている。


ラストシーンに特徴のある牧阿佐美版では、そこでのニキヤをどう見るかが重要になってくる。
「影の王国」のニキヤは言うまでもなくアヘンでラリったソロルの幻影である。
だが、その後のソロルとガムザッティの結婚式でのニキヤも、ソロルの幻影と言えるかどうか?
ニキヤ役のダンサーがどうニキヤを踊るのか、
ソロル役のダンサーがそのニキヤをどう承け踊るのかによって変わってくるし、
この二人の踊りを、見物がどう観るかによっても変わってくる。

牧版のニキヤをダンサーがどう演じ、踊るのか、
以下、3月3日と3月10日に踊った米沢唯のニキヤの姿を追いながら考えてみたい。
(主に3月10日を中心に述べ、ガムザッティについては3月2日と3月9日の印象から言及する)


第1幕
ニキヤ「出」の足の運び
3月3日(以下3/3)よりも、よりゆったりと最初の一歩が出てくる。
ニキヤとは如何なる存在かと聞かれたら、私はこの冒頭の一歩の気品だと答える。
それくらいにこの場の一歩は大切だ。
なぜなら、見物には未だニキヤの姿ははっきり見えず、
暗い影から投げ出されるこの一歩しか見えないからだ。
『白鳥の湖』で上手奥から現れるオデットも、
『ジゼル』で下手前の家から現れるその姿も全身をはっきりと捉えることができる。
しかし、『ラ・バヤデール』のニキヤはそれらとは異なる出方をする。

それは暗闇から現れ出る光のようだ。
その光こそニキヤに思える。

体全体が見えてきても、彼女の顔から上半身はヴェールですっぽりと覆われている。
(新国版のヴェールはほとんど透けない)
だから、視線は自ずと踏み出される脚に向かう。
聖なる火の前の舞台中央に直るまで、視線はずっとその脚に注がれる。
米沢の脚は、優雅なドゥミポワントで、気品に満ちてするするとやってくる。
そこまで見物がニキヤに魅了されれば、
ヴェールを取られ顔が現われ出でることの成否はどうでもいいようにさえ思われる。
実はこの気品に満ちた脚が、遠い物語の先に再び現れるからだ。

神の舞姫としてのダンス
フルートの美しい呼び込むような音で
ソロダンスが始まる。
アレクセイ・バクランの指揮は音を思いっきり伸ばす。
そこに合わせるかのように米沢の体もすっと天へと伸びていく。
だが、音にぴたりとは合っていない。
音に付きながら離れている。ここが最近の米沢唯の踊りだ。
以前にはなかった、音と戯れ、自在に音を身体に呼び込む。
インテンポにバクランの音は進まないし、
そのインテンポではない音に、米沢の身体が伸びて、撓る。

動きが上手前での合掌に至る。
米沢の踊りはここで一つの収束点をつくる。
なぜ彼女が踊るのか、この祈りのためだ。
それが米沢の動きにおいてはすんなりと、観る者の腑に落ちる。
ここで彼女はソロルを思って踊っているわけではない。
ニキヤとは聖なる巫女なのだ。
パ・ド・ブレで聖火を周り、今度は聖火へ祈る。
テンポがやや加速するが、上げられる脚と手は決してそのまま連動しない。
手が脚を呼び込んでいるわけではなく、手も脚もそれぞれが音を感じて動いている。
その後の回転も決して外連(ケレン)をつけることなく
静かに収束する。
ここでの米沢は、3/3も3/10もほぼ同じだった。


大僧正とのやり取り
このやり取りに、それぞれのダンサーがニキヤをどういう人間として造形しているのかが出る。
中には大げさに拒否する者もいれば、静かにしかし凛として拒絶する者もいる。
小野絢子はそういう感じだった。
一方、米沢は、
ごく自然な一人の女性として大人しく拒んでいるように見える。
米沢のニキヤは、身体をその空間と音楽とその場の関係性に任せているように感じる。


水瓶を持ってのソロダンス
ここでも、特にソロルを探そうという仕草を強調はしない。
音に任せてソロルを待っている感さえある。
だから途中で決まるアラベスクが、ゆったりと静止して本当に美しい。
気持ちが焦っているわけではない、彼女はソロルを信じている。
その無心があるからこそ、アラベスクが美しく映える。


パ・ド・ドゥ
3/3は今一つ情感が伝わってこなかった。
これは主に井澤駿の側の問題だったかもしれないが、
3/10は、緩急のメリハリがより付くように修正されていた。
この場のパ・ド・ドゥは、もっと喜びを表現してもいいのかもしれないが、米沢のニキヤはとても内気で静かなニキヤに見える。



ガムザッティ
米沢のガムザッティも木村優里のそれも、
この幕を統べるかのような華やかで品のある雰囲気を醸していたが、それぞれの身体の差異が異なる雰囲気を出している。


ニキヤーガムザッティ 対決
米沢がガムザッティを演じた時はとても気品のある演じ方だったが、
木村優里も基本的にはそういう演じ方だった。
また
米沢のガムザッティは4年前もそうだったが、
舞台下手前でソロルと座っている場面で、
裾から徐々に脚を露出させていくという細かい演技をしていた。
福岡雄大のソロルはそれに気づいていうのかどうか分からぬが、
徐々に僅かに露出していくソロルへの誘惑が、
品だけではないガムザッティの欲望のあり方をそこに示唆していた。
そのようにそれとは分からぬうちに真綿で首を締めていくような悩殺が、品の良い姫としてのガムザッティの在り方としては相応しい。
このような脚の露出は、私の記憶のある限りでは、他のどのダンサーもしていない。


ところが、興味深いことに、
それぞれのガムザッティが対するニキヤは違っていた。
ガムザッティの米沢が対した小野絢子のニキヤは、
派手に感情を表すわけでは決してないが、
内に強い芯を持っているように演じたので、
3/2の初日の舞台ではややバランスが悪かったかもしれない。
米沢は3/9ソワレではそれを修正し品は良いが強さも出していた。
その結果、第一幕最後のガムザッティは、舞台を超えて
劇場全体から大きく息を吸い込んで、
凄みのある「殺せ」ポーズを作り上げていた。

木村に対する米沢のニキヤは、静かな内面を持った作り方をしていた。
そのためか、3/3はただでさえ華やかな木村の身体が圧倒的に感じられた。
それはこの作品の本質を突いており、
とても良いコンビネーションに思えたが、
気のせいか3/10の木村はやや抑えて演じていたように見えた。

同じ新国立バレエの一員同士だからこそより解釈を深めていくことがしやすい。
今後もゲストに頼ることなくバレエ団内部での切磋琢磨を続けて行ってほしい。
新国立バレエでの『ラ・バヤデール』は今までに6回あるが、
ゲストを一人も呼ばずに上演するのは今回が初めてのことだ。
(文末の上演記録参照)



第2幕
ガムザッティのヴァリアシオン
冒頭のカブリオール・バッチュ、
最近の傾向として、これを高々と打ち上げるのがガムザッティの力の誇示であるかのようだが、
米沢唯はそんなことはしない。
木村優里もそれほどはしなかったので、品の良いガムザッティという点では同じだ。
しかし、この二人の身体は全く異なる。
まさにゴージャスを絵に描いたような木村優里に対して米沢唯にはそれがない。
だから木村優里は自然に踊っていてもガムザッティとしての踊りが舞台に映える。
一方で、米沢唯は例えば中間部での回転してアラベスクする辺りで、ちょっとした間とタメを入れ、そこに音楽を引き込むように踊る。
それが、木村に比べて押し出しの弱い自身の身体を空間に拡張するエクステンションを、作り上げていた。

言うまでもなく、米沢唯のグラン・フェッテは素晴らしいものがあるが、コーダでのそれもそれほど強調はしない。
そこも気品のあるガムザッティという解釈で一貫して通されていた。
スキルはひけらかすものではない。米沢を見ているといつもそう思える。



ニキヤの死に至るソロダンス
4年前の2015年2月に米沢唯が初めてこのダンスを踊った時、
私はとても期待していたのだが、残念ながら今一つの出来だった。小野絢子も同様だったらので、この踊りは難しいのだと改めて思った。
感情表現、難しいバランス、その後のアレグロの激しさ。
イザベル・ゲランやウリヤーナ・ロパートキナのすごさを痛感した。

今回、ダンサーの負担を軽減するためかどうか分からないが、
後半のアレグロが初演時の振りに戻って(マカロワ版とほぼ同じ振り)、あの激しい花籠のダンスでは無くなった。
あそこが変わると、ダンサーは花籠ではなく、
ただその前の嘆きのダンスだけに集中できる。
(激しいアレグロは今の新国トップの小野絢子と米沢唯には向いてないとの判断もあるのか。)


3月3日の米沢唯は、
2フレーズ目での大きく跳んだジュテ・アントルラセの強度に、
彼女の全ての想いがこもっているように見えた。
新国の牧阿佐美版は、
マリインスキーやパリ・オペラ座のようにチェロのソロで通さず、2フレーズ目から弦楽合奏になる(マカロワ版もほぼ同じ)ことにも起因いているのだろうが、
音楽が大きく盛り上げる部分で、
彼女にしては珍しいくらいに素直に、激しく感情を表出し解放していた。
恋を失うことへの、また自分を裏切った男への、それを。


しかし、3月10日の米沢唯は、さらに違っていた。
冒頭からチェロの独奏が、3月3日以上に繊細でニュアンスに富んでいた。
弦とハープのピチカートの上での、ニキヤの嘆息かとさえ思えるほどに。
(テンポも幾分か遅くなっているように思えた)

その音の中で、ニキヤは崩れそうな思いを立て直し、天へと腕を辛うじて差し上げる。
第2フレーズ、弦楽合奏になる。
米沢は3月3日ほどにはアントルラセを強く跳ばない。
感情の強度はここにはないのだ。

アラベスク、アントルラセ、そして膝まづき腕をさし上げる。
その度に、その度に、
上手前でガムザッティと睦む愛するソロルからは遠ざかっていく。
これらの動きのどこかある部分に強度があるのではない。
その一連の動きが全体としてニキヤの気持ちそのものとなっている。
彼女の悲しみも嘆きも深く沈潜して、その深い身体の内から静かに滲みでてくる。
米沢のその身体の現われが、合奏のテンポさえも遅め、
音楽と踊りとがこの場で融けあい、舞台全体がその哀しみに静かに震えている。

そこで行われたアティチュード・バランスは、
再び身体を開こうとしても、うなだれるしかない、
その型自体が、女の哀し身そのものである。
彼女の恋は失われたのだ。
あのバランスの型がなぜあのような形なのか、私は初めて分かった気がした。


『ラ・バヤデール』という作品の怖ろしさは、
こうした中でも奸計を案じる者たちが居るということだ。
恋するひとからの花籠を渡されたニキヤは、徐ろにこころ甦り、花を愛でる。
ここでの、グレブ・ニキティン(東京交響楽団コンサートマスター)のヴァイオリンのなんと叙情的で、ニキヤへの愛情に溢れていることか。
(牧版はここをハープの伴奏でのヴァイオリンソロにしている)

しかし、奸計は実行され、ニキヤの体には次第に毒がまわっていく。ふらふらと死にゆく米沢唯のニキヤは、なぜかジゼルを彷彿とさせた。
殺されるくらいなら死を選ぶように見えた彼女自身の内面は、
自決という意志の強さよりも、心の平衡を失い自壊し崩れ、遂には斃れたのだ。
ソロルはニキヤを抱くことなく逃げ去り、
ニキヤは誰にも看取られず、たった孤りで息絶える。
米沢がここで踊ったニキヤの死とは、
誰からも顧みられることの無いニキヤの心の死であった。
そして
米沢唯の、このニキヤの死は、牧版の特徴であるラストシーンへと静かに脈打っていく。


現行のロシア版とパリ・オペラ座ヌレエフ版ではソロルが駆け寄りニキヤを抱き寄せ、マカロワ版では大僧正が抱き寄せるが、牧版では誰一人として彼女の元には寄り付かない。

(余談だが、斃れた後の米沢唯は舞台上で息をしていなかった。
六代目菊五郎が見た「瀕死の白鳥」のアンナ・パブロワのように。)



第3幕
影の王国のコール・ド・バレエ
新国の『ラ・バヤデール』は、2008年に指揮がアレクセイ・バクランに代わり、その後前回の2015年から全体にテンポが遅めになったが、今回は一段と遅くなったように感じた。
(2008年の舞台はNHKで放送されているので比較すると明白である。)

このテンポで、三段九十九折りの坂(他の上演ではほとんど見られないが、谷桃子バレエ団のスラミフ・メッセル版は妹尾河童の美しい背景美術と共に三段折れ坂道を採用している)を
アラベスク・パンシェの連続で降りていくのは至難の技だ。
特にパンシェした時に音を長く伸ばしているので、ダンサーもそこで体をいっぱいに広げなければならない。それは大変なことだろうが、観る側からすればその伸びがとても美しく見える。

中間部のアラベスクでのバランス、片脚を膝まずいて大きく広げられていくポール・ド・ブラ、さらにパ・ド・ブレ、
以前はここでテンポを速めたりしたが、テンポはやや速まったが音は伸ばしていた。
マリインスキーよりもずっと遅いし、
遅めのパリ・オペラ座(映像になっている1992年初演時よりも最近の方が遅い)よりも遅い。
このシーン最後のフルートの音も長く伸ばされ、
ダンサーたちのアラベスクも流れるかのように美しく伸びた。
こうしたことがこの場の音楽と群舞全体に徹底されていた。
このスキルと音楽性はもっと高く評価されて良い。
20年かけてようやく世界レベルのコール・ド・バレエになったと思うと、感慨深い。


パ・ド・ドゥ
第3幕は、3/3は全体にこの幕が求めている静かで澄んだ雰囲気に欠けていた。
最初のパ・ド・ドゥも動きのスムーズさが今ひとつだった。
この幕の二人の動きには、ほぼ完璧なスムーズさが求められる。
それは『ジゼル』の第2幕や『白鳥の湖』のグランアダージョ以上だろう。
パ・ド・ブレで下手後方の闇に消えてくところも、ややポアントの音が気にかかったほどだ。
(私はそれほどポアントの音を気にしないがこの幕には特別な静けさが求められる)

実は、このシーンはヌレエフ版が好きだ。
下手のソロルと上手のニキヤがほぼ同時に腕を天へとさしあげる。
二人はお互いを見ているわけではない。
にもかかわらず、そこに何かを感じて、身体がシンクロする。
現世では失われた二人の心と心とが通い合い、そこに甦るかのようだ。
ヌレエフの振付にはよくあることだが、ただ合わせているわけではない、心と心とがシンクロする動きが私はたまらなく好きなのだ。

牧版にはそういう動きはない。
だが、前を向く井澤駿のソロルと
背後の米沢のニキヤとの動きは、3/10には綺麗に同調していた。


3/10
群舞が見事な影の雰囲気を出したこの日、
その力に後押されるかのように、
場になだれ込んだ井澤駿のソロルは、見事なジャンプと回転技を決めた。
3/3とは明らかに違っていた。

ソロルが下手奥で膝まずいている、
そこへニキヤは下手からソロルに近づいていく、
嫋やかな影のように。
腕を伸ばすソロルの肩に手をかけ体を開いていくニキヤ
それは僅かな時間であったはずなのにまるでスローモーションのように見えた。
サポートされ前方にゆっくりと開いていく。
今度はニキヤがパ・ド・ブレでソロルを導く。

第2フレーズでニキティンのヴァイオリンが、一段と弱音になる。
このフレーズでは、ニキヤはソロルにサポートされて後ろ向きで横に大きく跳ぶのだが、
音楽は静寂を求めている。
まさに、これなのだ、
今回の『ラ・バヤデール』で何度も感じたことは。
ニキティンをトップに頂く東京交響楽団とバクランの指揮が、
常に舞台上のダンサーと対話をしている。
ミンクスの音楽が一段と輝き、それが、舞台上の空間のイメージを作り、ダンサーがそれに応える。
バレエとは、本来こういうものなのだと、今回ほど感じる舞台もそれほどない。
観る者にとってはまさに至福の時である。

だから、米沢唯は横に必要以上に大きくは跳ばず、
ニキティンの音を、場のイメージを壊すことなく活かした。
必要なことは、振付通りではなく、その場そのものを感じることなのだ。
この日の米沢の第三幕は、踊り自体の強度ではなく、
その場の中に自然に溶け込んでいく身体であった。
そして、それは「影の王国」でのニキヤにもっとも求められていることに違いない。

その後の上手奥からのグラン・ジュテでは、
下手前へのソロルに向かってクレッシェンドがかかる。
今度は米沢の身体が、音の加速を促しているように思えた。
静かな中にも、ソロルへと向かう気持ちがここで表現された。
その思いが、ソロルに受け止められると、
音楽は大きくテンポは落とし、
ここに愛があることを確かめるかのように
ニキヤの幻の体は、緩やかに男に身を委ね、静かに開かれていった。
(第二幕で死んでいった生けるニキヤの体は決してこのように開かれることがなかったのに、、、)

明らかに、米沢唯はここに音楽と心と身体の頂点を持ってきていた。
加速と静まり、思いとそれを受けとめられた幸福感、
それがまた、「影の王国」の静けさを壊すことなく、
静寂な空気の中にありながらも、観る者に深い愛情を感じさせる。

バレエは音楽と形式的な体の動きで成り立つ。
しかし、そこに血が通う、まさに心臓が脈打つように心が通うとはどういうことかを、
このところの米沢唯の踊りを見るたびに、私は思わずにはいられない。

二人の踊りの終わりにニキヤは
ソロルを静かに下手奥の闇の方へと導いていく。
ここも、3/3とは明らかに違っていた。
たぶん、ここまで積み上げてきた一つ一つのことが融け合い、
ここに滲み出てくるようにじんわりと伝わってきたのだろう。

実は、ここでもニキヤは、あのジュテ・アントルラセを繰り返している。
第2幕の悲嘆の中で、ソロルから次第に遠ざかっていったあのパと同じ動きなのに全く違う印象を観る者は感じる。
あの時ニキヤから離れていったソロルは
静かに飛翔するたびに自分から離れていくニキヤの姿に
ゆっくりと吸い寄せられていく。
ここでもニキティンの甘美なヴァイオリンの音が
闇に消えゆく二人を優しく包み込んでいた。

『ラ・バヤデール』初演時にこのヴァイオリンを奏でたのは、
あのレオポルド・アウアー(Leopold Auer)である。
その事実だけでも、バレエと演奏者の関係が如何に重要かが分かる。

この場面は、2003年1月パリ・ガルニエでのヌレエフ 没後10年の記念ガラ「Hommage à Noureev」で見たイザベル・ゲランが忘れられない。
そこにまるでないような、そこにいるような
儚げでいて、しっかりとそこに存在するかのような姿、
そこへ、魔法をかけられたかのように導かれていくジャン-ギヨーム・バールのソロル。



ヴェール
ゆっくりしたテンポから始まる。
途中でヴェールがチュチュの柄の襞に一瞬挟まったが何事もなく踊る。
ヴェールを持ってのピルエット
ここでニキティンがワルツのアクセントを強調するかのようにテンポを少し揺らすと、
米沢はその優雅な音にのって綺麗に廻った。
ここを綺麗に廻るダンサーは本当に少ない。
舞台奥へと向かうジュテ・アントルラセが3度繰り返される。
後半のパッセの連続でもそれほどテンポは上げずたっぷりと踊り、場の雰囲気を保ち続ける。

コーダ
3人のソリストとコール・ド・バレエが勢揃いしてテンポの速いワルツを踊るのだが、
以前はここが軍隊のような踊りに見えたが、
今は全くそんなことはなく、優雅なワルツに見えるようになってきた。
ソロルにリフトされたニキヤが出て
何度も何度もニキヤに現れるジュテ・アントルラセ、
最後に来て再び繰り返され、しかもマネージュをする。
ここも以前はマネージュの円がとてもこじんまりとしていたが、
今回は米沢だけではなく、どのダンサーも大きく回ろうとしていた。
その結果、舞台全体を回るように見えて、ニキヤの存在感が増した。

同じことは、ソロルのドゥーブル・アッサンブレのマネージュにも現れていた。
残念なことは、他日の渡邊峻郁はザンレールではなく、
水平に跳んでいくグラン・ジュテをしていた。
理由は分からないが、ニキヤのジュテ・アントルラセの動きとは余りにもリズム感が違いすぎるので
上に大きく跳んで回転するドゥーブル・アッサンブレにすべきだ。
(2003年のパリ・オペラ座来日公演で、マニュエル・ルグリもグラン・ジュテを使っていたが、以前は彼もドゥーブル・アッサンブレをしていた。)

最後の上手奥からのシェネ、よくロシア系のダンサーがするような加速感はないが、
極めて正確に同じ回転が繰り返され続けるので、
そのことで一瞬、目の前を通り過ぎていく幻のように思えた。



ソリストたちのヴァリアシオン
第1ヴァリアシオン 五月女遥
見事に踊る。だがスキルだけではなくこの場の雰囲気にあった踊りができるようになった。
中間部のピルエットの何と美しいことか。

第2ヴァリアシオン 奥田花純
冒頭のカブリオールの連続、その後の独特のためを入れたピルエット、奥田も五月女と同じくスキルが際立つダンサーなのだが、それを越える魅力が出ていた。

第3ヴァリアシオン 細田千晶 
細田は、バレエ団の中でも影の王国の雰囲気に最も合ったダンサーだが、遅いテンポで見事にキープされ、場の中に溶け込んでいくかのようなダンスで、見事だった。



最終場
牧版の最終場は、マカロワ版のごくごく短い短縮版でとってつけた感があるが、結局は、牧阿佐美自身が述べているように、結婚式や天罰としての寺院崩壊よりも、最後に坂の途中で倒れるソロルを表現したかったのだろう。

この場のニキヤは単なるソロルの見た幻影なのか、どうか。
第三幕第3場の「ソロルの部屋」で彼が見る過去のニキヤはソロルの罪意識が生み出した幻影に違いない。
だが第4場「寺院の前」で現れるヴェールを纏ったニキヤは、
ソロルだけにしか見えてないのだろうか?(パンフレット解説にはそうあるが)。
寺院が崩壊するのはニキヤの祟りであり、
ガムザッティもその父も大僧正も同じように感じていたのではないか。
だとしたら、彼らが「見た」かどうかは別としてニキヤの亡霊がそこに「居る」と彼らも感じていたはずである。寺院が崩壊したのはソロルの幻影ではない「事実」なのだから、それはニキヤの祟りだと全ての登場人物たちに共有されていたのではないか。
要するに、ソロルにしか感じられていない第3場の幻のニキヤと、他の人物たちにも感じられている第4場のニキヤは既に別の存在なのである。
別の存在である以上、演じる側もそこは意識すべきだろう。

では、終幕のヴェールを抱いて瀕死のソロルを導くニキヤは、どういう存在だったのか。
他の人はもう死んでいる又はそこには居ないのだから、
ソロルだけにしか見えない幻であっても不思議ではない。
だが、ニキヤ(を演じる側)からすれば、それで良いのかどうか。

なぜ、私がこのことに拘るのかといえば、
「ソロルの部屋」とその後の寺院の中に現れ寺院崩壊に導いたように思われるヴェールを纏ったニキヤと、最後に坂の前に佇みパ・ド・ブレをしている米沢唯のニキヤとは、私には明らかに別の存在に観えたからだ。
それは、第一幕で初めて我々の前に現れたヴェールに包まれたニキヤの、あの気品に満ちた脚の動きと同じだった。
寺院崩壊の激しさの後に現れたその姿は、その清らかな音楽とともに本当に神々しく澄み切った美しさに観えた。
恨みを抱いて寺院を崩壊させた姿には思えない。
では、ソロルを許して助けに来たのか、ジゼルのように。
それとも違う。そういうことを全て超越したような静かなパ・ド・ブレを米沢は坂の前でしていた。
何と清らかで美しいパ・ド・ブレであろうかと、私は一瞬息を呑んだほどだ。

その後、米沢のニキヤは、ヴェールをなびかせて静々と坂を登っていく。
しかし、ただの一度もソロルを振り返らない。
今回の他のニキヤたちが少し顔をソロルの方に向けたりするのに、米沢のニキヤはただただまっすぐ前を見て、坂を登っていく。
それは強い意志の現れとは違う。
生きていたニキヤを米沢は決して強い意志の女としては踊っていなかった。
二幕で斃れた時も、愛する心を失ったように崩れ、誰一人として駆け寄らない孤独な死を迎えていた。
強い意志でも、ソロルへの愛でもない、
全てを諦めた上での
孤独な自己の生と死とを、彼女は坂の遥か向こうにじっと見すえていたのかもしれない。

だが、ニキヤが見たものが何であったのかは、分からなくてもいいのだろう。
米沢唯というダンサーが、最後にそういうニキヤをその身体から現出させたと、
それだけが大切なことに思える。
その米沢のニキヤのあり方が、
このラストシーンに特徴を持つ牧阿佐美版『ラ・バヤデール』に
牧阿佐美の演出モチーフである「こうまで女性二人を悲しませ死に至らしめる男性が本当に許されていいものなのでしょうか」という許す許さないの次元を越えて、清らに澄んだ孤りのニキヤがあり得ると、通り一遍の解釈を越えた深みを添えたことはまちがいないからだ。
新国『ラ・バヤデール』の、オーケストラのビックフィニッシュが、これほどにも神々しく感じたことは、私にはかつてない体験だった。


しかし、もしニキヤにも天罰があるとしたら、たった孤りで坂の向こうを見据えざるを得ないこのニキヤの姿こそ、神が与えた試練なのかもしれない。
それは、観る者には遥かに遠い先にある星のような美しさでもあるのだが、、、

(了)





新国立バレエ団『ラ・バヤデール』全幕 上演 の記録
2000年11月17日〜23日 6公演 ジョン・ランチベリー指揮 東京フィル
ニキヤ/ソロル/ガムザッティ
アンナ・アントーニチェワ/カルロス・アコスタ/田中祐子
酒井はな/逸見智彦/越智久美子
宮内真理子/小嶋直也/西山裕子
志賀三佐枝/森田健太郎/高山 優

2003年2月21日〜3月2日 5公演 エルマノ・フローリオ指揮 東京フィル
スヴェトラーナ・ザハロワ/イーゴリ・ゼレンスキー/西川貴子
酒井はな/山本隆之/真忠久美子
志賀三佐枝/森田健太郎/柴田有紀
宮内真理子/小嶋直也/西山裕子

2008年5月18日〜25日 5公演 アレクセイ・バクラン指揮 東京フィル
スヴェトラーナ・ザハロワ/デニス・マトヴィエンコ/西川貴子・湯川麻美子
寺島ひろみ/中村誠/真忠久美子
本島美和/マイレン・トレウバエフ/西山裕子

2011年1月15日〜23日 5公演 アレクセイ・バクラン指揮 東京交響楽団
小林ひかる/デニス・マトヴィエンコ/厚木三杏
川村真樹/芳賀望/堀口純
小野絢子/福岡雄大/本島美和
寺田亜沙子/山本隆之/長田佳世

2015年2月17日〜22日 4公演 アレクセイ・バクラン指揮 東京交響楽団
小野絢子/ワディム・ムンタギロフ/米沢 唯
長田佳世/菅野英男/本島美和
米沢 唯/福岡雄大/長田佳世

2019年3月2日〜10日 5公演 アレクセイ・バクラン指揮 東京交響楽団
小野絢子/福岡雄大/米沢 唯
米沢 唯/井澤 駿/木村優里
柴山紗帆/渡邊峻郁/渡辺与布






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2019年01月23日

小野絢子が踊った「Revelation」(平山素子振付) 2015年1月16日 於新国立小劇場


以下は、4年前、2015年1月の公演のレヴューです。

平山素子さんが振り付けた ”Revelation"
新国立バレエDance to the Future で小野絢子が自らの殻を突き破る様な素晴らしいダンスをした。
(2015年1月16日 新国立小劇場)
優れた作品は、ダンサーの中に眠っているものを見事に引き出す。
この作品は、
平山さんが初めて振り付けた(公にしただろう)作品で、
1999年の名古屋での世界バレエ・ダンスコンクールのためのものだった。
彼女はここで優勝して頭角を現した。
その直前に姉が不慮の事故で亡くなった。それが大きなモチベーションになったのだと思う。

ダンスは現実そのものではない。
しかし、現実との身悶えする関わりによって、
自分の身体から絞り出すように、きっとこの作品は生まれたのだと思う。
ダンサーも、必死で振付られた作品を攻め、そこから自分の内にある何かに出会い、それをそれこそからだから絞り出す。
”Revelation”はまさにその字義の如き作品だ。

2006年に平山は、ボリショイのプリンシパル、スヴェトラーナ・ザハロワにこの作品を託す。
小柄な平山(舞台では全然小柄に見えないのだが)とは異なり長身で手足の長いザハロワはこの作品をまた別のものに描き上げ、しかもずっと踊り続けている。

2006年ザハロワ初演の映像「マリス・リエパ・ガラ」(10/31モスクワクレムリン宮殿ホール)
https://www.youtube.com/watch?v=BVc427LCSbs

2008年3月8日「ザハロワ・ガラ」
https://www.youtube.com/watch?v=PxwLwPqBDy0&list=PLobg54P1YodwwOdYvBsMdONbC8QNn1qxQ

2008年9月14日 於アテネ (映像が相当に悪いがそれが却って幻想的)
https://www.youtube.com/watch?v=Jd7_x2wgdk0

この間に彼女は出産を経験している。

2011年 於ベオグラード ちょっと痩せ過ぎているが良いダンス
https://www.youtube.com/watch?v=GMl0uXqkKcU

2013年9月10日 於モスクワ 冒頭がないしオケの前で踊っているのでちょと印象が異なるが、最後の椅子の上に立って椅子を揺らす振りははっきりと分る。
https://www.youtube.com/watch?v=cdluflR_pwo

2014年1月18日
やや上からの綺麗な映像で振りがよく分かるが途中がちょっと切れていて残念。
https://www.youtube.com/watch?v=G62P0giuMdY

平山さんも、欧州の各地で踊り続けてもらえて嬉しいことだろう。
小野絢子の” Revelation ”はもっと鋭角的で、それは平山さんの原振付に近い。だがそれは日本人とロシア人の身体的差異だと思う。
ザハロワは、手足が長いので大きく動く、その分ゆっくりに見える。
(ロシアのクラシックバレエの基本である「ワガノワ・スタイル」も、そのようなスタイルになっている)

小野は冒頭上手前でゆっくりと腕を上げる所で、
その身体の中心が細かく顫動していた。
そこに彼女のモチヴェーションの在処があるかのように。
そして踊り外部への眼差しが、内のその顫動する内部に戻ってくる事で、自らのうちにあるものを感じる。
深い哀しみ。諦め。嘆き。。。
そこに何を見るかは、この小野のダンスを
見るものによっても異なるだろう。
しかし、その何ものかがしっかりと感じ取られる。

強く動き停まり、また強く動く。
それが小野のダンスだった。
だが、その一方で、彼女独特の柔らかさも漂う。
これが身体の個性だ。そしてそれは平山素子には無い個性だ。
小野によって、この作品自体も” Revelation ”された。

最後の椅子でのバランス、
小野はザハロワよりもずっとここにポイントを置き、
ここがクライマックスかのように、徐々に
ちょうど蝶が羽を広げるかの様に美しくそれでいて私にはそれが限りなく哀しく見えた。

静かに音が消え、闇となる中へ
不安定な椅子の上で揺れる小野の姿は、
何かしらの戸惑いさえ感じさせた。
なぜかしらぬが。






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2017年05月03日

新国立バレエ イーグリング版『眠れる森の美女』の特徴


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今週末(2017年5月5日〜13日)から再演されるイーグリング版『眠れる森の美女』の版としての特徴を、初演時のレヴューをもと他の版と比較しながら、まとめてみました。

「プロローグ」
「冒頭のカラボス」
カラボスが冒頭で登場するのがイーグリング版では印象に残る。
さらに王宮への登場では大きなタランチュラに乗って現れ、ポアントで女性ダンサーが踊る。
このカラボスの設定はこの版の特徴であるが、初演時には今ひとつその効力を発揮していなかった。その理由は「第2幕」の終わりの所で述べる。

「妖精の数が1つ多い」
  妖精がリラの精も含めて7(通常は6)リラの精、誠実、優美、寛容、歓び、勇敢、気品。
  妖精の曲が足らないので「気品の精」には原曲第2幕の「男爵夫人の踊り」が使用される。

「リラの精のヴァリアシオン」 
振り付けは、ロシア系とは大きく異なり、ピーターライト版とほぼ同じ。


「第1幕」
・ほぼ、英国ロイヤルバレエ系の振付を踏襲(ロシア系とは異なる)。
・コーダ(オーロラの仮死)は、通常の演出よりもドラマッチックに演じられる。


「第2幕」
「プロローグ」も幾らか特徴があったが、イーグリング版はこの第2幕が最もユニーク。

・王子のソロに使用される事が多い「伯爵夫人の踊り」で王子と伯爵夫人とが踊る。

「王子のソロ」
原曲第3幕の「サラバンド」が使われる。
1946年初演のド・ヴァロワ/アシュトン版を踏襲したと思われるが、振付けは異なる。
マクミラン版もこの曲を使うが、イーグリング版の振付けは回転技が多く、アシュトン版よりもマクミラン版に似た感があった。

「パ・ダクション」
幻のオーロラは、通常版のようにジュテで飛び出さず、パ・ド・ブレで静々と現れると、
思っていたが、実際は、アラベスクで一度ポーズをして、ジュテで飛び出す型でした。
(私の記憶違いです)

「オーロラのヴァリアシオン」
どの版とも異なる独自の振付で、初見だと大いに戸惑う。
舞台奥の遠景のオーロラが徐々に前景へと現れてくる。
通常この踊りで強調されるアラベスクだけではなく、回転技も多い。
その点では、「王子のソロ」と呼応しているのかもしれぬ。
第2幕「オーロラのヴァリアシオン」に関しての振付の歴史に関しては、以下のページを参照されたし。
→ http://zoushigaya.seesaa.net/article/408519801.html?seesaa_related=category

「パノラマ」
通常は、リラの精に伴われて王子が森のお城へと向かう間奏的な場面だが、イーグリング版では、森の精のコール・ド・バレエが奇麗に踊る。
このシーンは新国立バレエ団特徴を活かして見応えがある。

「カラボスとの闘い」
プロローグでの印象的なカラボスのあり方からすれば、
もっと活躍しそうなものだったが、このシーンではあっけなく退散してしまう。
プロローグとこの幕との整合性に欠けるのだが、第2幕でのオーロラと王子とのラムールを重視したということか。
それはこの幕の掉尾を飾るパ・ド・ドゥを強調し、王子とカラボスとの闘いよりもオーロラと王子のうっとりするような踊りで幕を下ろしたかったからだろう。

「パ・ド・ドゥ」
通常はない、目覚めたオーロラと王子とのダンス。
曲はチャイコフスキーが美しいヴァイオリン独奏を入れ仕立てた「間奏曲」。
ピーター・ライト版や牧阿佐美バレヱ団が上演するウエストモーランド版には、この場面で間奏曲を使用したパ・ド・ドゥがあるが、それらの版ではオーロラは豪華なチュチュで踊るのだが、イーグリング版ではネグリジェで踊る。(ヌレエフ版では、この幕の王子の長く技巧的なソロの曲として使われる)
振付け全体としては、イーグリング自身がアレクサンドラ・フェリと踊ったマクミラン版の『ロメオとジュリエット』のバルコニーを思い起こさせるニュアンスがある。最後も深いベーゼでライトが落ちる。


第3幕
・美術(川口直次)や衣装(Toer van Schayk)が帝政様式に見える。
衣装に関して、再演(2017年5月)で王妃役を演じた仙頭由貴が自身のブログで
第三幕の王妃の衣装は、ナポレオン一世の皇妃ジョセフィーヌの肖像画がモデルとなっていると述べている。
→ https://ameblo.jp/sentoballet613/entry-12272924173.html
初演版は、ユグノー戦争を治めたブルボン家の初代アンリ4世から100年後の17世紀のヴェルサイユ宮殿がイメージされていたはずだが、やや違和感を持つ。

第3幕「踊り」順番
序「ポロネーズ」
1「宝石」(エメラルド、アメジスト、サファイア、金)
通常踊られている「サファイアの精」の5拍子のソロ(22-d)はカットされ、踊られる事の少ない「金の精」(22-b)のソロが入る
2「白い猫と長靴を履いた猫」
3「フロリナ姫と青い鳥」
4「赤ずきんと狼」
5「親指トム」(パ・ペリシオン)
6「グラン・パ・ド・ドゥ」
終「マズルカ」
「アポテオーズ」

「祝宴の踊り」
「宝石」
女性3人(エメラルド、サファイア、アメジスト)と男性1人(ゴールド)で踊られる。
通常演奏される五拍子の「銀の精」は(原典では「サファイア」)はカットされ、カットされることの多い「金の精」が、初演時の音楽とともにその振りを幾らか残しながら、男性らしい大きな踊りに変えられて踊られた。
(初演時は、福岡雄大、池田武志、小野寺雄の日替わり)
初演時にはこの曲が第2幕のオーロラのヴァリアシオンとして振付られた。現行のセルゲイエフ版では第3幕のリラの精のヴァリアシオンとなっている。

「赤ずきん」
振付を現代風に工夫した振付けで、「赤ずきん」を踊った五月女遥が出色。
ダブルキャストの広瀬碧も良かった。

「親指トム」(初演時は、八幡顕光、小野寺雄の日替わり)
最後に踊るのが庶民たる「小人」の乱入で、
これが異彩を放って良い出来だった。

そしてその直後に
オーロラと王子のグラン・パ・ド・ドゥが始まる。

「グラン・パ・ド・ドゥ」
「親指トム」からすぐにグラン・パ・ド・ドゥに繋がるので、
以前の新国立バレエ・セルゲイエフ版にはアントレで宝石たちが踊り祝福をしたが、その部分は今回の版ではカットされている。
この曲の流れの意図が何かはよく分からないが、後で少し触れる。

パ・ド・ドゥ及びヴァリアシオンは、基本的に英国系の振付で踊られ、特異な点は見られない。
だが、コーダのテンポが通常よりもずっと高速で踊られた。
ここには、振付家の何らかの意図を感じざるを得ない。
まさに「古典」とされるこのパ・ド・ドゥの振付けを基本的には変えることはなく、
しかし、一方で現在のダンサーによる現代的な表現として、このテンポはあったのではないか。
「祝宴の踊り」の最後に「親指トム」を入れそこに現代的な振付けを施し、それとこの高速コーダて古典的なパ・ド・ドゥをサンドウィッチした。
それが、このイーグリング版の第3幕の特徴といえる。

「アポテオーズ」
しかし、全編の最後は、ヌレエフ版のようにマズルカを踊り続けながら終わるという演出は採らず、あくまで古典の「アンリ四世讃歌」を謳い上げる「アポテオーズ」に戻って、幕となる。

以上です。

日本で『眠れる森の美女』を踊る事の意義も含めた、初演時の詳細なレヴューは、こちらにあります。
→ http://zoushigaya.seesaa.net/article/410430193.html?seesaa_related=category





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挿絵は、Paul Gustave Doré による Charles Perrault "La Belle au bois dormant" (1867)









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2017年04月10日

新国立バレエ『ベートーヴェン・ソナタ』           使用曲順とその作曲年代 

新国立バレエ『ベートーヴェン・ソナタ』
2017年3月17〜18日 於新国立劇場中劇場
演出・振付 中村恩恵   音楽監修・編曲 野澤美香

第1幕
「プロローグ」

モーツァルト『レクイエム』Introitus「Requiem aeternam(永遠の安息を)」Adagio ニ短調 4/4拍子 (ピアノ版) 1791年

「T」
ヴァイオリンソナタ第5番「春」作品24 第一楽章Allegro ヘ長調 4/4拍子 1801年
https://youtu.be/SkyA09JitSg?t=30s

「U」
ピアノソナタ14番『幻想曲風ソナタ』("Sonata quasi una Fantasia")作品27−2(「月光」)第一楽章Adagio sostenuto 嬰ハ短調 2/2拍子 1801年
https://www.youtube.com/watch?v=0siIoIWd62c&list=RD0siIoIWd62c#t=64


「V」
エグモント序曲作品84 ヘ短調〜ヘ長調 Sostenuto ma non troppo3/2拍子〜Allegro3/4拍子  1810年
https://www.youtube.com/watch?v=GaeB6Sn_rYM

「W」
弦楽四重奏第9番ハ長調作品59−3 第2楽章Andante con moto quasi Allegro イ短調 6/8拍子 1806年
https://www.youtube.com/watch?v=MCW15IvuwvM

「X」
弦楽四重奏第7番作品59-1 第3楽章Adagio molto e mesto〜attacca ヘ短調 1806年
https://www.youtube.com/watch?v=csk9OX4hDV0


「Y」
ピアノソナタ第25番作品79 第2楽章Andante ト短調 9/8拍子 1809年
https://www.youtube.com/watch?v=Wen7pREYFgw


第2幕
「T」

交響曲第7番作品92 第二楽章Allegretto イ短調 2/4拍子 1812年
https://youtu.be/9HcRwYjiXl4?t=11m48s

「U」
弦楽四重奏曲第15番作品132 第五楽章Allegro appassionato イ短調 1825年
https://youtu.be/tASP0Vgln-g?t=37m19s

「V」
ピアノソナタ第31番作品110 第三楽章変イ長調 序奏4/4拍子〜フーガ6/8拍子 1821年
https://youtu.be/Ez0oP9PHjCc?t=8m18s

「W」
交響曲第9番ニ短調第四楽章作品125 Prestoニ短調 3/4拍子〜Allegro assai ニ長調 4/4拍子 1824年
https://www.youtube.com/watch?v=S69IwyJZjZw

「X」
弦楽四重奏曲第15番イ短調 作品132  第三楽章 "Heiliger Dankgesang eines Genesenen an die Gottheit, in der lydischen Tonart"  Molto Adagio 〜Andante 1825年
https://www.youtube.com/watch?v=l8Mij38ciyw











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2015年10月29日

Les Contes d'Hoffmann 『ホフマン物語』  上演史



Laboccetta.jpg

"The Lost Reflection"  Mario LABOCCETTA による挿絵(1932年)


Les Contes d'Hoffmann 上演史

Les Contes d'Hoffmann (『ホフマン物語』)は、1851年のパリ・オデオン座で戯曲として上演されて以来、オペラ、映画、バレエ、コンテンポラリーダンスと、様々な形態で舞台化されてきました。
明日10月30日からは、新国立劇場バレエ団がピーター・ダレル版のバレエを上演します。

主に、オッフェンバックのオペラが中心になりますが、管見に入る限りで、
その上演史をまとめてみました。


1851/03/21  Les Contes fantasiques d'Hoffmann (戯曲版)
Theatre de Odeon,Paris で初演される。
脚本は Jules Barbier Michael Carré
1幕 Prologue
2幕 Opympia from “DerSundmann” (1816)
3幕 Antonia from”Rath Krespel”(1819) ("Councillor Krespel", also known in English as "The Cremona Violin")
4 幕 Giulietta from "Abenteuer in der Silvester nachat" (1814) "Das verlorene Spiegelbild" ("The Lost Reflection") from Die Abenteuer der Sylvester-Nacht (The Adventures of New Year's Eve), 1814.
5幕 Epilogue

1880-10-05  Jacques Offenbach Opera Les Contes d'Hoffmann 作曲途中で死去。

1881/02/10  Opéra-Comique,Paris で Les Contes d'Hoffmann 初演。
Ernest Guiraud が未完部分を補い、ディアローグをレチタティーヴォへ変更など。
しかし、オペラコミックの支配人 Leon Carvaille はニクラウス=ミューズ役のパートを大幅にカットし、
4幕のジュリエッタ部分も全てカット代わりに"Baracrolle" をオフェンバックの別の作品『ラインの妖精』
(”Les Fées du Rhin”, “Rheinnixen”)から挿入
その他、オッフェンバックがホフマンの小説から引用したと思われる箇所。
≪chanson de Kleinzach≫ (acte I) qui brosse le portrait du héros grotesque d'un roman court de E. T. A. Hoffmann: Le Petit Zachée surnommé Cinabre ou Petit Zacharie, surnommé Cinabre (Klein Zaches, genannt Zinnober, 1818)

Le personnage de Pittichinaccio est, lui, puisé dans la nouvelle Signor Formica (in Les Frères de Saint-Sérapion, 4e partie).

Enfin Hoffmann consacra un chapitre des Fantaisies à la manière de Callot (1re partie, 1813) au Don Juan de Mozart, dans lequel la cantatrice qui interprète Donna Anna meurt d'avoir trop chanté, ce qui renvoie au rôle interprété par la cantatrice Stella (actes I et V) mais aussi à la mort d'Antonia (acte III).

1881/12/07  Ringtheatre,Wien で初演するも、翌日劇場は火災に見舞われ何百人も死ぬ。
「アントニア」の幕のミラクルのせいだという流言が流布し、レパートリーから外れる。
(しかし、オペラコミック版は4幕を殆ど削ったはずだが、、、
ミラクルは残ったのか? E.Guiraud が4幕ジュリエッタの幕を復活させていたという説もあり)

1887 オペラコミックが火災に遭い、オーケストラ譜などが焼失。
この二つの火災事件により、『ホフマン物語』には呪いがかけられていると、巷談に取り沙汰される。

1893 Salle de la Renaissance du Théâtre-Lyrique,Paris で漸く再演される。

1904 Opéra de Monte Carlo,director Raoul de Gunsbourg and André Bloch ( re-orchestration)
integrating the fourth act(Juliet)after the second act (Olympia ) and adding his own compositions (air Everywhere Sparks, diamond,septet on the theme of Barcarolle, Perte du reflet) based on the music of Offenbach.
元々第4幕だったジュリエッタのパートが再構成されて、第2幕オランピアの後に置かれたらしい。
オランピア→ジュリエッタ→アントニアの順がこの版で構成される。
ジュリエッタ幕の決闘シーンの背後で「Barcarolle」が流れる。

1905 Commish Opera,Berlin で Hans Gregor のプロデュースで再演。
Maximilian Moris の演出によりジュリエッタの幕も再構築されるが、作曲者に依らない曲「ダイヤモンドのアリア」等が挿入され、オランピア→ジュリエッタ→アントニアの順にされた。
但し、ホフマンが鏡像を失った事はカットされて、シュレミルを殺すなど筋立てに混乱があり、長さも短かったためアントニアの幕の前に置かれたらしい。

1907  1904 年の Raoul de Gunsbourg ,André Bloch に基づき
Edition Choudens が修正第5版を出版する。
プロローグにミューズは登場せず、オランピア→ジュリエッタ→アントニアの順
この版がその後長らく決定版として流布する。

1911  Edition Choudens(ショーダンス版)により、原脚本の Michael Carre の甥 Albert Carré が演出し オペラコミックで再演される。

1929/2/12  Berlin Kroll Opera で Alexander von Zemlinsky プロデュース、 Ernst Legal 演出、Otto Klemperer 指揮で再演される。
Ernst Bloch は上演を見て「アントニアの幕は音楽やその悲劇性において最後に置くべき」などの批評を書く。 Kroll Opera はナチ議会の本部が置かれ、大戦中に破壊され、その後再建はされなかった。

1948  Louis Musy 演出、André Cluytens の指揮でオペラコミックで、戦後初の上演。

1950/3 宝塚歌劇団雪組(脚本演出:執行正俊、オッフェンバックの音楽を酒井協、山根久雄が編曲)が上演。
 春日野八千代(ホフマン)音羽信子(アントニア)緑八千代(ニクラウス)朝倉糸子(オリンピア)天城月江(リンドルフ)
 5月には東京帝国劇場でも上演。(東京宝塚劇場は「アニー・パイル劇場」として米軍に接収されており使えず)
  

1951  Michael Powell and Emeric Pressburger により映画化、
音楽指揮 Thomas Beecham cond. Royal Philharmony
Robert Rounseville, Moira Shearer, Robert Helpmann and Léonide Massine らが出演。
オランピア→ジュリエッタ→アントニアの順

1958  Gelsenstein/Voigtmann 演出 Berlin Comisch Oper
1851 年 Jules Barbier Michael Carré による台本復元で、ドイツ語による台詞を入れ、大きな改作がなされる。

1961  Théâtre de la Monnaie, Bruxelles で Maurice Béjart による演出がなされる。

1972/04/06  Edinburgh King's Theatre Scotish Theatre Ballet
Peter Darrell (choreographed) J.Lanchbery (arranged) A.Livingstone (design), P.Pasic( decor).
1976, 1982/04, 1984/05, 1987/05 に再演。
1998/04 resteged. Decor Spalanzani & P.Farmer 
レヴュー
Tales of Hoffmann Proved a hit not just for Scotish Ballet, but for the international companies who took it into their own repertoires. (“Scotish Ballet Forty years”, 2009 Saraband Scotland)
“Noriko Ohara in captivating form as Olympia, the lifelike mechanical doll” (“Scotish Ballet Forty years”) “Noriko Ohara(an exquisite Antonia)” (“Glasgow Herald” 05/24/1984)

1974  パリオペラ座での初上演。Patrice Chereau による演出。

1977  Fritz Oeser による校訂新版が Kassle の Alkor 社から出版される。(エザー版又はアルコア版と呼ばれる) この版は、オフェンバックの遺産継承者 Cusset 所有のスケッチなどに基づいて校訂版を作成。
ショーダンス版 オランピア→ジュリエッタ→アントニアを
元の戯曲にあるオランピア→アントニア→ジュリエッタに戻した。
プロローグーにミューズ(ニクラウス)を登場させたので、ニクラウスの役割が大きくなる。
またジュリエッタの場面では賭博場シーンも復活させた。
現在各地で上演される演出は概ねこの版に基づいているが、 但しジュリエッタが毒を誤って飲んで死ぬという点は、その後の演出では採用しないものもある。


1978/4/1 宝塚歌劇団花組、宝塚バウホール杮落し公演として上演。(脚本演出:菅沼潤、編曲:吉崎憲治)
 アントニア→オランピア→ジュリエッタの順
ホフマン(安奈淳/寿ひづる)ニクラウス(松あきら/真汐ちなみ)悪魔他4役(みさとけい/宝純子)アントニア(上原まり/北小路みほ)オランピア(邦月美岐/如月巳麗)ジュリエッタ(北原千琴/如月巳麗)

1988/10/15  牧阿佐美バレヱ団、バレエ ピーター・ダレル版を上演。
ホフマン三谷恭三/今村博明、リンドルフ本多実男/堀登、ステラ豊川美恵子/草刈民代、、オランピアゆうきみほ、アントニア川口ゆり子、ジュリエッタ大原永子

1990/11/23  牧阿佐美バレヱ団、バレエ、ピーター・ダレル版再演。
ホフマン三谷恭三/今村博明、リンドルフ本多実男/堀登 ステラ豊川美恵子/草刈民代、オランピア大畠律子、
アントニア川口ゆり子、ジュリエッタ大原永子/佐々木想美。

1996  Michale Kaye 演出 Opera nationale de Lyon
1984 年に発見されたオッフェンバックの草稿に基づく版。ジュリエッタの幕を補完し、彼女は毒薬で死ぬ。

1998/12  名古屋市芸術創造センターにてバレエ、深川秀夫演出・振付版が上演される。

2000/10/5  牧阿佐美バレヱ団、ピーター・ダレル版を再々演。
ホフマン森田健太郎/逸見智彦、リンドルフ/正木亮羽/相羽源氏、ステラ坂西麻美/橋本尚美、 オランピア佐藤朱実/橘るみ、アントニア上野水香/柴田有紀、ジュリエッタ田中祐子/平塚由紀子。

2002  Robert Carsen 演出 Opera nationale de Paris

2002  Olivier Py 演出 Grand Théâtre de Genève

2003  Jean-ChristopheKech演出 LausanneOpera
1993 年に発見された資料に基づく版。ジュリエッタの幕に新たな要素を入れる。

2010/07/16  Noism 金森譲の演出振付で上演。音楽はトン・タッ・アン(an ton that、ヴェトナムの作曲家) オランピア→ジュリエッタ→アントニアの順でそれぞれを四精霊の木、火、水、に見立てた。
ステラ(亡き女優とされる)を含めた主役ダンスーズ4役を井関佐和子が一人で踊る。

2015/10/30 新国立劇場バレエ団(東京) バレエ ピーター・ダレル版を上演。
装置:川口直次、衣裳:前田文子、照明:沢田祐二
ポール・マーフィー指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

http://www.nntt.jac.go.jp/ballet/hoffmann/




hugo Steiner-Prag.jpg

”Councillor Krespel” Hugo STEINER-PRAGによる版画挿絵(1943年)


参考文献
・ショーダンス版 スコア Les Contes d'Hoffmann  
 Ernest Guiraud (1837–1892), completion Paris: Choudens Fils, 1907. Plate A.C. 5100

・Tales of Hoffmann  illustrated by Mario LABOCCETTA 1932,New York

・The Tales of Hoffmann illustrated with lithograph by Hugo STEINER-PRAG 1943,New York

・『ホフマン物語 オペラからスクリーンへ』 Monk GIBBON 光吉夏弥訳 1952,アーサークラブ

・『ホフマン全集』 深田甫 編集  1971〜

・『集英社版世界文学全集18 砂男他』 池内紀 解説  1979

・””E.T.A.HOFFMANN” (『E.T.A.ホフマンの世界』) Eberhard ROTERS 金森誠也訳 1981,Berlin 2000,吉夏社

・"OFFENBUCH Les Contes d'Hoffmann” Attila CSAMPAI, Dietmar HOLLAND 酒巻和子訳 1984,Hambrug 1988,音楽之友社

・ ”E.T.A.HOFFMANN, Das Leben eines skeptischen Phantasten” (『E.T.A.ホフマン-ある懐疑的な夢想家の生涯』) Rüdiger SAFRANSKI 識名章喜訳 1984, München Wien 1994,法政大学出版

・『ホフマン物語』ジュール・バルビエ台本 安藤元雄訳(原著不明) 1988,新書館

・『ジャック・カロ リアリズムと奇想の劇場』 中田明日佳編  2014,国立西洋美術館

・ユリイカ「特集ホフマン 悪夢と恍惚の美学」 1975年2月

・Les Contes d'Hoffmann  wikipedia Français,English,Deutsch





















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posted by 星跡堂主人 at 00:37| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 新国立バレエ団 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする