2018年09月14日

「Summer / Night / Dream」


ダンスはイマージュでしかない。
それは詩がイマージュであることと似ている
イマージュであるのなら、
それをどう思い出すかによって、様々に変化する
私たちの過去がそうであるように



ダンス公演のレヴューやサマリーには、どのような意義があるのか?
資料映像が残される現在では、それを見れば公演のより客観的な記録は分かる。確かにそうではある。
映像資料が残こされなかった時代と、現代とではレヴューの意義も違ってきているだろう。
しかし、本当にそうであろうか。
公演の記録映像をのちに見たときに、自分が抱いていた印象と違うように感じることはしばしばある。
振付の正確性などは、映像記録の方がずっと秀れているのだろうが、ダンスを観る者の印象とそれが一致しないときに、観る者の記憶の不正確さは、指弾されてしかるべきだろうか。

映像記録のなかった頃、舞台は評判記やレヴューによって人々の間に流布していた。人々は、舞台を観なかった人も、観た人も、その文章を頼りに舞台を思い起こした(思い描いた)はずである。
「いやあ、そういう風に私は観なかったよ」と、著名な評論家のレビューに納得しなかったりもしただろう。
相手が著名な評論家であろうと、それとは違うと自分の観方は簡単には変わらない。
なぜなら、絶対的な客観性がそこにはなく、相互に主観的な相対性しかないからだ。
様々な人の様々な観方が、渦のように相俟って、その時代の評判記は出来ていたのではないか。
そういう間主観的な舞台の見方は、映像という客観的資料がある今日では最早意味がないのだろうか。


同じ舞台を観ても、その思い出し方は違ってくる。
同じ事実に遭遇しても、それをどのように記憶しているかが、人によって違うように。
歴史という物語では、社会や民族によっても記憶は違ってくる。
そこでは間主観的な記憶が想起され共有されている。

舞台を観るという行為は、すぐれて個人的な行為である。
特に、心が震えるほどの舞台体験をした後では、たった一人の孤独の中に居続けたいと、私はよく思う。
だが、読書や家で一人で映像を見ることとは違って、
劇場という(限定的に囲われた空間であろうとなかろうと)空間を、ほかの観客と共有することでその劇場空間の空気を作っているということにおいて、それはまぎれもない共同的な行為でもある。

レヴューやサマリーは、私が観た舞台のイマージュでしかない。
だが、それは、ダンサーや振付家、演出家、音楽や美術、衣裳の担当者など様々な人の思いによって作られたイマージュを
私以外の人々と半ば共有しながら体験した間主観的なイマージュでもある。
だから、それは、私ひとりの個人的な体験とは言い切れない。
しかし、それでも、私が観た、私が感じたイマージュでしかないことも変わらない。

では、私は、その舞台のイマージュを何故書くのか?
私自身の記憶の想起のために。
一方で、それを他者と共有したいがために。
共有は、一致である必要は全くない。
私のイマージュに対して、いや違うだろうと、お互いのイマージュの差異を語り合うことも、間主観的な体験の一部だ。
差異を否定し合うのではなく、差異にこそ豊かさを感じられる。
優れた作品とは、私にとって、他者との差異を感じさせる作品でもある。

上演されたものが新作であれば、サマリーの意義はより高いと思う。なぜなら誰もが知っている振付・演出ではなく、誰もが初めて見るものだから。世間にもそれが如何なる作品なのか、全く流布していないから。


隔年で上演され、今年で3回目になる「JAPON dance Project」、
「Summer / Night / Dream」と題された、今年の作品のサマリー及び若干の感想を以下に記す。
公演は2018年8月25,26日の二日間2公演 於新国立劇場中劇場。
私は、両日とも観た。演出が異なった箇所もあった。


「Summer / Night / Dream」

演出・振付・出演 JAPON dance project 
遠藤康行 小池ミモザ 柳本雅寛

振付・出演 ゲストダンサー
服部有吉(元 ハンブルクバレエ団、H/Wバレエ学校芸術監督) 
津川友利江(元 カンパニー・プレルジョカージュ) 

出演
新国立劇場バレエ
米沢 唯 渡邊峻郁 池田理沙子 柴山紗帆 渡辺与布 
飯野萌子 川口 藍  益田裕子 原田舞子

配役
オベロン:遠藤康行
タイターニア:小池ミモザ
パック:柳本雅寛
デミトリアス:服部有吉
ヘレナ:津川友利江
ハーミア:米沢唯
ライサンダー:渡邊峻郁

美術:長谷川 匠 
照明:足立 恒 
衣裳:ミラ・エック Mylla Ek(マッツ・エックの姪)

使用された楽曲に関しては以下を参照した。
音楽監修の井上裕二氏作成のJAPON dance project 2018×新国立劇場バレエ団『Summer/Night/Dream』楽曲リスト
https://twitter.com/JAPONdance/status/1035069812068605952
改めて聴き返すと、選曲が素晴らしいし、舞台に合わせて原曲を微妙に加工されている。使用楽曲はゴシックで表示した。



第1部

中劇場のオケボックスを潰し、舞台9列目とその後の通路までを含んだ半円形の舞台となっている。だから奥行きはとても深い。

1 柳本雅寛/パックが下手から出て、客の前で息をす〜す〜と吐いては吸い込むことを繰り返す。
初日は客に同じ行為を促したが、客のノリがイマイチだったためか、二日目はそれはせず、指を鳴らすと照明がパッと変わる。パックは、黒白のチャッカー柄の衣装。

2 メンデルスゾーンの「A Midsummer Night’s Dream」序曲がかかり、舞台には上からいくつもののガラスのように光る様々な大きさの板様のものが垂れ下がっている。その板が様々な光を反射することで、森の中で月の光が木々に揺らめく様を思い起こさせる。
公演の日の夜はちょうど満月だったので、帰宅途中に通った雑司ヶ谷霊園の中はまさにそのような光に溢れていた。

米沢唯/ハーミヤ 舞台やや上手奥から出て、クロワゼで両手をあげるポーズを決めてから踊り出す。
ハーミヤの衣装は黒白の縦の縞柄。
他の登場人物たちも同じように、まずポーズしてから踊り出すが、ポーズはそれぞれ異なる。
序曲にのった祝祭的な踊るが終わると、
服部有吉/デミトリアスと柳本/パックだけが残り、他のダンサーは引っ込む。
デミトリアスの衣装は、オレンジのジャケットと同色のスカート。

この前後で、池田理沙子と柳本が踊った記憶だが余り印象に残っていない。

3 服部有吉/デミトリアスのソロ 「Concerto en ut majeur,RV425」 Allegro Vivaldi(マンドリン版 Rolf Lislevand)
途中で舞台中央やや上手よりの鏡を覗き込んで、自分の姿をじっと見つめたのち動きがさらに激しくなる。 
この場は服部自らが振付けたと思われる。
キレのある微細なステップのダンスが後半に行くほど加速していくのは見事だった。


4 パーカッションと主体とした民族舞踊的な音楽にのっての群舞7人(川口藍、益田裕子、原田舞子、飯野萌子、渡辺与布、池田理沙子、柴山紗帆)が踊る。衣装はオレンジに黒のドットなど3パターンあり、皆同じではない。
「Zealous Order of Candied Knights」(熱狂的なキャンディー騎士団) Matmos
とてもリズミカルな音の中で益田、原田のうねるような身体の動きがとてもいい。


5 少し跳ねるような音楽に乗って小池ミモザ/タイターニヤ、遠藤康行/オベロンが奥から出てきて踊る。「Ping」 Hauschka
柳本/パックが絡み、最後は小池が居なくなり、遠藤と柳本二人で掛け合いのような振りになり可笑しい。


6 ヘレナ/津川友利江が這い回るような姿勢で上手奥から出てくる。ヘレナの衣装は黒を基調として柄が入っている。ハーミヤ、タイターニヤ、ヘレナの女性たちは衣装は違っているがどれも大きめの襟飾りで首回りを覆っている。シェークスピアの時代を意識しているのだろう。
無音の中でデミトリアス/服部にヘレナ/津川が言いより、服部の背後にぺタッと付いてまわる。
途中で服部が踵を返しすと、バッハが流れ始め踊る。「ゴルトベルク変奏曲」第7変奏(サキソフォン版 清水靖晃 )
曲が終わると、津川が服部の足を踏んでいる。    
さらに舞台中央で、津川が服部に強引にキッス。
その後、バッハのフーガがかかり踊りだす。「ゴルトベルク変奏曲」第10変奏(サキソフォン版 清水靖晃 )
この場の振付は津川と服部に任されていたようだ。
二人のボケとツッコミのような掛け合いが即興的になされている感さえあった。まるでダンス漫才のような、それでいて凄いスキルの応酬でもあった。


7 タンゴ 「A la Gran Muñeca 」(大きな人形のところで) Rodolfo Biaggi 楽団(1950年版、原曲は1920年)
舞台奥からオベロン/遠藤が、益田裕子を連れ出てくる。
他の群舞も出て古いタンゴの名曲で踊り出す。一人のダンサー(池田理沙子か)だけが仮面を付けて踊っている。


8 タイターニヤ/小池が出てきて怒っている。オベロン/遠藤が様々に謝るが、許されず。
音楽が一瞬かかり踊ろうとするもタイターニヤは全く乗らず。ノイズが入る。


9 ハーミヤ/米沢唯とライサンダー/渡邊峻郁が踊る 
「A Midsummer Night’s Dream」actT Scherzo
冒頭で下手奥から駆けてきたハーミヤをライサンダーが受け止め上げる綺麗なリフトが入る。二人の美しい愛の交歓が所謂アダージョではなくアレグロテンポで踊られる。
このテンポ感でも美しい情感が交わせるのは、米沢と渡邊のスキル故だろう。
ライサンダーの衣装はオレンジのジャケットとスカートでデミトリアスとほぼ同じだが、スカーフを巻いている。
デミトリアスは舞台奥で二人の姿を呆然と見ていた。



10 静かなピアノの曲。「Then」 Goldmund
仮面をつけられた渡邊(下手前)と服部(中央)。そこへ津川が上手奥から出る。服部の前を通り過ぎようとすると服部が彼女を捕まえる。
それでも津川はライサンダー/渡邊の方へ行き、彼の前に立ち抱えられようとする。 
上手奥から米沢/ハーミヤが出て、ライサンダーに絡むが無視され、彼はヘレナ/津川、服部と踊り続ける。
米沢だけ弾かれ続けるが、途中から津川と米沢の女性二人が絡む。
米沢は下手前で体が硬直する。
津川が、米沢の左腕を自らの顔へと持っていき幾度も触れさせるが、その腕はすぐにだらりとなる。
これが繰り返されたのち、米沢の腕も身体も全く動かなくなる。
米沢は初日よりも2日目の方が表情を抑えていたように見えた。
それがさらにこの場の静謐な雰囲気に溶け込んだ。

前のピアノの音に被さるように曲が変わり「A Summer by The Sea U」 David Wenngren
米沢の体を、他の3人が高く掲げ、下手の袖へと運んで行く。
まるで一編のレクイエム(鎮魂歌)のようなシーンだった。
全編を観た後に翻って惟うに、この場こそ、全編を統べる静かだが強烈なイマージュになっているように思えた。
彼女、彼らは、ここで「踊って」いるようには観えない。
だが、それが楽曲と共に確かな印象を私の中に遺し続けている。



11 アコースティックな世界から一変し、電子音のような音が響いてくる。「Whitewater」 Tortoise
仮面を付けられたタイターニヤ/小池が、下手から体のバランスを失ったかのような変な動きで出て来る。
途中で舞台中央やや上手の鏡を覗き込んでのち、動きが一層激しくなり、四つん這いになったりして動物的な動きにさえ思える。2015年の横浜バレエフェスティバルで踊った遠藤との「半獣」を思い出す。
下半身が透ける衣装がこのシーンではとても効果的だった。
途中から大きなノイズが入ってきて、遠藤が奥から出てきて、小池を抱きしめ、面を取る。
遠くから飛行機のような何が迫ってくるような音が聴こえてきて
遠藤は小池の体をを大きく振り回し始める。
プレルジョカージュの傑作「ル・パルク」のあのシーンを思い出す。
ベーゼはしていないのだが。



12 様々な音の霧の中から、次第にヴィヴァルディのような明るい音が響いてくる。「Spring 0 &1」Max Richter
ダンサー全員が出てきて踊り始める。
葬られたかと思われた米沢/ハーミアも、渡邊/ライサンダーと楽しげに踊っている。
一方で、通奏低音に乗って(『Summer/Night/Dream』楽曲リストよりも実際の舞台ではこの音が特に強調されているように聴こえた)舞台奥から、裸のパック/柳本がひとりゆっくりと歩を進めて来る。 
最後に皆いなくなり、仮面を付けたデミトリアス/服部だけが残こされて、暗転。

1部で仮面を付けた役
女性群舞(池田理沙子)、デミトリアス/服部、ライサンダー/渡邊峻郁、タイターニヤ/小池ミモザ、



第2部

1 ピアノの重い音でメンデルスゾーンの結婚行進曲冒頭が出るが、すぐに三連符の運命主題のようになり、そののち続きが重く流れる。「A Midsummer Night’s Dream」 Wedding march W.Horovitz pf
舞台奥から仮面を付けた12人が出て来る。
(柳本雅寛と米沢唯は不在)
女性ダンサーはボディファンデーション、男性は上半身裸でロングタイツ。
音楽は展開部で急に終わる。


2 全員仮面を付けたダンサーたちが舞台全体に広がっている。
微かな鐘の音で、まず津川が面を取り、辺りを見回して、股を開く。
次に舞台上手の原田が取る。次に舞台中央前の小池が取る。
さらに舞台奥の益田裕子が取り、あたりを不思議そうにゆっくりと眺める。
どのダンサーも再び仮面を付ける。


3 後ろ向きになったダンサーの間を遠藤がよろよろと動き始め、体に触ったりする。微かな笑い声が聞こえてくる。
(2日目は遠藤の動きもやや小さかったせいか、笑い声も小さかったか、ほとんどしなかった?)
その後、全てのダンサーが面を取り、舞台中央前で全員がポーズを取り集合写真を撮っているように光が放たれる。


4 その後、またダンサーたちが舞台に散らばり、
上手奥に居る服部がハッハッ、ハッハッ〜ハッアと息を吐き始めると、他のダンサーも各々息を吐く、そのリズムに合わせて次第に足踏みが始まる。


5 ダンサーたちが独特のリズムで足を鳴らしながら、舞台奥へと徐々に消えて行く。
遠くで太鼓を叩いているかのようにも聴こえる。


6 残ったのは上手奥に小池と津川、下手奥に益田と原田。
二組は向かい合って体を寄せ合い両手を挙げてやや上方をみて、静かにつぶやくように唸るように何かを声として発し始める。

徐々にそれがメロディーだと分かってくる。霧の中から立ち現れてきたそのメロディーは、なんと「君が代」ではないか。
彼女たちは「君が代」を唄っている。錯覚かと思いながら耳を攲てる。確かに「君が代」だ。
彼女たちは決して歌詞を唄ってはいないのだが、
とおきみそらのかたからことばが、聴こえてくるように、唄っているように思える。
女性ダンサーが一人、地を這うような仕草をしている。

7 鐘のような低い汽笛のような音が鳴っては消え、繰り返される。
舞台奥からダンサーたちがその音に合わせるかのようにゆっくりと出て来る。
皆一応に中空を眺めて首をあげている。中空には彼らが一部で着ていた服が浮かんで居る。


初日の「君が代」には驚く。
正確には、霧の中から何やらメロディーが立ち上がってきていて、それがあのメロディーだと気づいた時の戦慄は言いようがない。言葉の字義通り、身体が震えた。
ダンサーたちは、歌詞を口遊んでいるわけではない。
だが、はっきりとその歌詞が私には聴こえてきた。
その場は、一瞬のようでもあった。
すぐに大きな鐘のような、低い汽笛のような音が鳴っては消える。
そして、舞台奥からダンサーたちがその音に合わせるかのように密やかに出てくる。
皆一応に中空を眺めて首をあげている。中空には彼らがかつて着ていた衣裳が浮かんで居る。
その光景は、まるで原爆を被爆した人々の亡霊のような姿に、私には思えた。


その光景が、まるで原爆を被爆した人々の亡霊のような姿に、私には思えたのも、
多分、私がそのようなイマージュに捕らわれたのは、「君が代」を聴いたからだろう。
初日の第2部は、私には全てが「君が代」に収斂されていくように思えた。
あの曲のインパクト、破壊力はそれほどにも強い。

被爆者との対話を繰り返して、そこから得た被曝体験のイメージを、広島市立基町高校の生徒が描いた絵画
「人間襤褸(らんる)の群れの中に」
http://hpmmuseum.jp/modules/xelfinder/index.php/view/342/motomachi37.pdf


「君が代」は2日目には「シャボン玉」に代わっていた。
不思議なことに、この時も、ダンサーは歌詞を唄っていないのに、その歌詞が私の脳裏には鮮やかに浮かんできた。
まさにダンサーたちの身体によって記憶がイマージュとして想起されたのだ。
この選曲は、秀逸だった。
直後のダンサーたちのやや上空に顔をあげての仕草と、この歌詞とが重なるからだ。
それはシャボン玉のように一瞬で空に消えていく自らの生の儚さのような、また物憂さのような、人の致し方のない生の宿命のような、イマージュを、私に想起させた。
意味ではない、そのような漠然としたその場のイマージュに、私の身体は包まれていた。

「風になびく富士の煙の空に消えて
            ゆくへもしらぬわが思ひかな」   
                          西行 

(西行の時代、富士山頂からは噴煙が立ち昇っていた)



8 汽笛のような鐘のような音がゆっくりと響き続ける中、舞台に全員が揃って、
その後、舞台下手前にいる津川が、ぷわ〜と息とも声とも叫びともつかぬ音を口から吹き出し始める。
それに続いて順繰りに他のダンサーも、ぶわぁ〜、はぁ〜、ひはぁ〜と吹き出す。
それぞれの音にダンサーの魂が宿っていて、それが中空に飛び出ていくようだ。
舞台中央前に居る小池は体がのけ反るほどに吹き出す。
それが何度も何度も繰り返される。
ダンサーの声というものを平生は聴くことがないので、この場はとても印象的。体を動かすことの根に息があり、そこから平生ダンサーが禁じられている(そう勝手に思っている?)声を吐き出すことで、ある種の解放感が観る者とダンサーとの間で共有された感があった。

途中から高音のノイズが入り始める。(初日の方が強く耳に響いたが2日目は少し落としたようだった)
すると上手やや中央よりに居た服部がダンサーの間をジグザグに走り出す。
服部が動くとそこに結婚行進曲の音が再び聞こえだし、(第2部の冒頭のピアノではなくオーケストラ演奏)
それに負けじとダンサーたちのぷわ〜も音が大きくなり重なっていく。
その後、結婚行進曲の音が優勢になり、ダンサーたちは服部のようにジグザグに動き、いつの間にか踊り始める。隊列のしんがりの池田理沙子がバレエのジュテ・アンルラセで跳んでいく。

服部は、舞台奥中央に開いた扉からの光を目指す。扉の向こうには花吹雪。
服部はそこへと吸い込まれていく。
他のダンサーたちはその扉の前で踊り続ける。
曲が終わり、幕。



再び結婚行進曲を流してのラストシーンは、必要だったか?という気もしないではない。
如何にも終わったという終わり方が、この作品で求められていたのか?
デミトリアス/服部が奥へと吸い込まれて行くことの意味を考えざるを得ないが、敢えて、それはどうでも良いようにも思える。
何らかの「生の希望」を、ここに挟みたかったのかもしれぬが。

カーテンコールになり、柳本と米沢もみなと同じ衣装で登場していた。これがちょっと不思議でもある。
第2部で全く踊っていない二人が、何故同じようなボディファンデーションとロングタイツで出てくる必要があったのか。多くの見物が見誤ったように、この二人も第2部の何処かで踊っていたという錯覚を起こさせたかったのか?
しかし、柳本や米沢のような個性豊かな身体を見物が見忘れるわけもないのだが。
また、不在であることで舞台を統べる(存在している)ほどの仕掛けを、第1部でしていたとも思えない。


第1部での音楽の選定、効果的な使い方、さらにミラ・エックの衣装は素晴らしかった。
第1部での音と衣装の素晴らしさが、第2部の何もない空間をより際立たせたと言える。第1部の記憶が第2部を作っているとも言える。
その上で、さらに
第2部は、観る者のイマージュの軸線は、何が作るのか? 
観る者の記憶の統合はどのように行われるのか? 
という実験だったとも言える。
音楽 アレンジされた結婚行進曲  君が代 シャボン玉 
ノイズ 効果音のような音
所謂「ダンス」は主にラストのみ 
舞台奥から射す光と花吹雪が舞う扉の向こう
身振り 抑えられた身体  息
不在の二人
これらのイマージュをどう繋げるかは、観る者一人ひとりに任されている。
ラストシーンは無くてもよいように思うのだが、
しかし、それが決して終わりということではないという感覚も残る。
その意味では、終わりのない終わりとして、ダンサーたちの宙吊りにされた衣装のように
それぞれのイマージュは、サスペンドされているとも言える。
私たちの生が、明日もまたその後も続いて行き、その度に過去が想起されるように。
何日か経った今も、この舞台は、様々なことを思い出させる
二つと無い作品だと、私は思っている。



鹿摩隆司(Shikama Takashi)による舞台写真(JAPON dance project Twitter )
https://twitter.com/JAPONdance/status/1042361695744622594
https://twitter.com/JAPONdance/status/1042367914811092992
https://twitter.com/JAPONdance/status/1042368393775472640




「君が代」私註
「君が代」は、元来は『古今和歌集』読み人知らずの賀歌であり集中では「我が君」となっており、これを「お上」の治世を賀ぐと断定はできないとされている。また賀歌以前には歌謡的な恋歌が原型だったのではないかという説もある。
だが、明治国家成立以降、この歌に西洋的な音楽が施されてどのように歌われてきたかの歴史をみれば、その意味するところは、今は唄われなくなった「海ゆかば」(歌詞は『万葉集』大伴旅人の歌)と大差ない。
私個人の記憶を思えば、私の子ども頃は、この歌は「大相撲の歌」(千秋楽で今でも唄っている)だと思っていた友人も居たほどに、人々がこの歌詞を唄うことはほとんどなかった。子どもの頃の私の「聖地」中日球場でも試合前にこの曲が流れていたが、座ったまま無視する多くの大人を尻目に、私は直立してこの曲を唄っていた。私は「日本国民」なのだから「国歌」(当時は「国歌」ではもちろんないが)唄うのは当然なのだと強く感じていた。
しかし、その後、日本近代史を学びかつ在日コリアンと関わる中で、この曲の罪深さを思い知った。
1999年に広島の一校長の自殺を機に、国民に信を問うことなく、そのどさくさ紛れに「国旗国歌法」は制定された。私は今もこの制定過程を無効だと思っている。故に、あの強行的な法制化以来、この曲を二度と唄うまいと心に誓っている。それは、この曲のために死んだ、さらには今でもこの曲のために不当な扱いを受けている多くの人々への連帯の思いの、私なりの表明である。
「表現の自由」という意味でも、「君が代」法制化に反対した忌野清志郎の「Kimigayo」(1999)とその販売を拒否したレコード会社の一件は、私にとっては古いことでは決してない。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=262&v=UwodtldRCuQ

だから、初日を見終わった後、1999年とは比較できないほどに極右化している昨今の日本で、この曲を使った勇気をまず賞賛したい思いがふつふつと湧いてきた。

参考 久曽神昇(きゅうそじん ひたく)「国歌 『君が代』の歌詞の変遷」 愛知大学 文学論叢 25輯 (1988年2月)







 
posted by 星跡堂主人 at 15:15| 東京 ☁| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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