2014年04月28日

新国立バレエ団『カルミナ・ブラーナ』レヴュー


Fortuna con balanza.jpg

La Fortuna carrying a balanced scale with two books, symbols of evil and goodness of this goddess. Boccaccio, De casibus『名人列伝』 (1450-1475)


私は、『カルミナ・ブラーナ』という曲が余り好きではない。
特に冒頭の感情を掻立てる一撃が。
それはたぶん、私の中の内面にあるものに深く作用するからこその嫌悪であった。
なので、新国立バレエの今まで2度の公演を見ていない。
今回、初めてこれを見た。
4月26日、27日 於 新国立劇場大劇場
「フォルトゥナ」役は、湯川麻美子と米沢唯。

新国立バレエ『カルミナ・ブラーナ』
公演概要
http://www.nntt.jac.go.jp/ballet/carmina_faster/index.html
主なキャスト
http://ow.ly/wdYct
振付家のデビット・ビントレーは、『カルミナ・ブラーナ』の時代設定を「現代」に置き換え
オルフの原曲にある主要な3場を
「愛」を象徴する「ダンスホール」
「欲望」を象徴する「ナイトクラブ」
「性愛」を象徴する「売春宿」
 に設定したと述べている。
→ http://www.nntt.jac.go.jp/ballet/carmina_faster/introduction/index.html
しかし、私には、
『カルミナ・ブラーナ』の歌詞はそんな単純な置き換える事を拒否しているように思える。
もっと時代横断的な解釈をした方が、この作品の意味がより深まるのではと感じている。

そもそも『カルミナ・ブラーナ』の原詩は11〜13世紀なのだから、
中世の終わりからルネサンスを経た近代、さらには現代にかけての物語と捉えた方が、すんなり腑に落ちる。

『カルミナ・ブラーナ』の原語歌詞と訳詞は、このサイトを参照した。
→ http://carminaburana.web.fc2.com/index.html


プロローグ 「 FORTUNA IMPERATRIX MUNDI 」 

第1曲 ”O Fortuna”「おお、フォルトナよ」
冒頭のソロでどう踊るかは、この作品全体を支配する。
『カルミナ・ブラーナ』の様に冒頭の一曲が強烈なインパクトを持っている作品では、特にそうなる。
湯川麻美子は、既に新国立初演時からこの場のフォルトゥナを踊っており定評を得ている。
流石に、ある種の”気”を感じさせる、強い踊りだった。
別のキャストの米沢唯に比べると、ステップの幅も取り、全体に強く大きく踊っていた。
これは、まさに世界を支配する「運命の女神」だ。

一方、
今回が初役の米沢唯は、身体のラインを明確に出し、
湯川が大きく円を描いているのに対して
こちらはもっと鋭角的で直線的に踊っている。
それは米沢のダンスの特徴でもあるが、そう動く事で、
フォルトゥナの動きが天から糸で吊られた操り人形のようにさえ見えてくる。
これは彼女がよりバレエ・クラシック的に踊ったからなのかもしれない。
だから湯川の様に全てを統べる女神には見えない。

フォルトゥナさえも、実は「運命」というなにものかに、
この強烈なオルフの音楽に、踊らされているようにさえ見える。
これは米沢の「解釈」だったのではないかと、私は思う。
「運命の女神」に、特別な意思はない、
彼女は単に、「運命」と名付けられた得体の知れないものの表象でしかないのだと、、、

つづく
第2曲 ”Fortune plango vulnera”” 「私はフォルトナの傷を嘆く」 で
神学生たちが闇の中で踊る。
ここで唱われている「髪」を、
邦訳『全訳カルミナ・ブラーナ」は、フォルトゥナの前髪はあるが後頭は禿げている
(「機運の神」としてチャンスはやってきた時に掴まないと、
後からでは捉えられないという象徴)
と、訳しているが、
新国立バレエ団のパンフレットの訳などは、
 「黒髪豊かな若者も 
    時がくれば失う その黒髪を」
と、  
「少年老いやすく」「花の命は短くて」というイメージで訳している。

ビントレー版『カルミナ・ブラーナ』作品全体でのここのダンスとしては、
「運命の輪」によってうるわしい青春(春)はとても短い、
だからこそ、
修道院から世俗へと、若き抑え難き思いを外へと、向かわせているように見える。
若者の熱い血潮をさえ、感じる。
ふと、
 「青春はうるわし
     されど逃れゆく、
   楽しみてあれ、
     明日は定めなき故」

ルネッサンス期にボッティチェリの庇護者だった
ロレンツォ・イル・マニーフィコの愛誦句を思い起こす。



第1部 「PRIMO VERE 」「 UF DEM ANGER 」

第3曲 ”Veris leta facies”「春の楽しい顔は」 で、 
おなかの大きな女たちが出てくる。
これにはちょっと驚いた。
タイトルもそうだが、
これは明らかにボッティチェリの「La Primavera」の世界に思えるからだ。
誰もが知っている名画には、解釈が多様にあるようだが、
西風ゼフュロスが風を吹きかけ森の女神クロリスを目覚めさせ(又は孕ませている)
花々(フローラ)の春を呼び寄せていることは、確かだろう。
さらに、中央のヴィーナスは、おなかが膨らんで同じボッティチェリの「Nascita di Venere」が「天上のヴィーナス」に対して「世俗のヴィーナス」とされ、その体型は明らかに違う。
春の豊穣が、性を介して多産に結ぶ。

キリスト教中世世界に、
グレコ・ローマンの神話を復興し、より世俗的人間的な世界を導く。
これは「ルネサンス」のことだろう。
歌詞にもフローラ、ヴィーナスが出てくるから、
振付のビントレーは、ボッティチェリとルネサンスを意識して提示したのは間違いない。


第8曲 ”Chramer, gip die varwe mir" 「お店屋さん私に紅をください」 では、
第1の神学生が娼婦たちと様々な遊びを戯れるが、手で双眼鏡の仕草をして遠くを見る真似をする。それを女たちが同じように真似をする「何が見えるのか知らん」と。
双眼鏡で遠くの何かを見る、これはまさにルネサンスが産んだ近代の「視る」という行為だ。
遠くの何かを見たいということと、異性を求めるということがここでは重ね合わされる。
そして
 ”Wol dir, werit, daz du bist    ようこそ、世界よ, お前は
  also freudenriche!         かくも喜ばしい ”

と、恋し、視る、事が「世界」との喜ばしき遭遇を導く。
「恋愛」は、単に異性を求めること以上の、世界への欲望を開花させる。

この場の最後は男女の総踊りとなり、
あの、第10曲 ”Were diu werlt alle min" 「世界が全て私のものであったとしても」

"Were diu werlt alle min   世界が全て私のものであったとしても
von deme mere unze an den Rin ーー 海からライン川まで
des wolt ih mih darben,       そのためには、無しですまそう
daz diu chunegin von Engellant    それによって、イングラントの王妃を
lege an minen armen. Hei !       私の腕に横たえるためには. ヘイ ! "

となる。
「視ること/視られること」が「恋愛」を産み、さらにより遠くを視ること、
視線は遠い異国へと向かう。
これが、
中世修道院の暗い一室(フラ・アンジェリコのフレスコ画で有名なサン・マルコ修道院の僧坊などを想起されたし)で神と対話していた者たちが
解放された先の、「近代」という時代なのだ。


この場を踊った第1の神学生は、菅野英雄と奥村康祐だった。
菅野は体のラインが本当に美しい。それが春の気分を出していた。
「恋する女」役はさいとう美帆、アイリッシュダンスのステップが軽快で気持ちいい。
奥村の相手役は、小野絢子。奥村のうぶで若い青年の雰囲気と小野はとても合う。
二人でのダンスの部分も清純な若い人の恋を思わせる。
この二人は、思った以上に相性が良いのではないか?
今後もっと組んで欲しいと思った。


第2部「 IN TABERNA 」 

第11曲 ” Estuans interius" 「内に燃え上がる」 は、男性のソロ
歌詞は、儚い存在である自身を持て余す苦悩からヴィーナスへの思いを述べ、

 ”mortuus in anima    魂において死に
  curam gero cutis.  私は関心を肌に向ける”

と語る。
ダンスもその苦悩を純粋に示し、第2の神学生が踊る。
もの凄い勢いで思いを炸裂させ踊っていたのが八幡顕光、
一方、福田圭吾は、もう少しゆったりと音楽と歌詞を踊っていた。
この二人は同じ役を踊る事が多いが、今回もそれぞれの個性が際立つ。
こういうダンサーを二人持っていることは、素晴らしいと思う。

この神学生の欲望の先は
「ローストスワン」に向けられる。
『カルミナ・ブラーナ』の原典を書いていた放浪僧たちは、美食の歌を書く事も多かった。
ここででは、人間の原初的欲望である食べる事と性が重ね合わされる。
本島美和と長田佳世はともに、新国立バレエ団きっての美脚の持ち主なので、
この役はぴったりだが、特に踊る訳でもないのでちょっともったいないか。
もっと踊る振りにできないか?
ジョージ・グロスの風刺画をビントレーがモデルとしたと云う「食いしん坊たち」は着ぐるみなので限界があるだろうが、もう少し滑稽で悪辣な動きをデフォルメしてほしかった。

第一部から「街の男たち」が出ていて、ここでも活躍するが、
如何にもヤンキー風のチンピラという感じで良かった。
世俗の一般の若い男たちなのだろうが、今現在の日本では既に「昭和」の男達とも云われるだろう。
今日では、もっと異なる男たちのイメージ、
たとえば、背後のウォールに巨大な旭日旗を描いて
(他の落書きでも良いが、こんな俗な所にある壁があんな綺麗なままはあり得ない)、
「怖雄流斗那 上等!」って書いたらどうかしらん、、(^o^)
きっと、よりリアルになるのではないだろうか。
オルフの音楽の向こうにある「ナチズム」を想起するためにも、
そうした演出は効果的だと思う。



第3部「 COUR D' AMOURS 」 

第15曲 ”Amor volât undique”「キューピットは至るところを飛び回る」 で、 
第3の神学生が、娼婦の館に迷い込む。
その男につづいて、舞台下手から大きなサングラスをかけた紅い服の女が徐に現れる。
(「フォルトゥナ」なのだが、冒頭の目隠しはサングラスに代わり、真っ黒な衣装は赤い、
なので「フォルトゥナ」には見えない。)
ここの歌詞は

  ”Siqua sine socio,    仲間の居ない彼女には
  caret omni gaudio;  すべての悦びに欠けている
  tenet noctis infima  彼女は闇の底を持ち続ける
  sub intimo       最も奥底に
  cordis in custodia:  心の暗所に”

最後に、アムールの声である児童合唱(新国立バレエ団では女声)が
”fit res amarissima. 事態はもっとも辛いものとなる” と付け足す。

次の16曲 ”Tua pulchra facies"「あなたの美しい顔は」 で
第3の神学生がフォルトゥナに恋情を告白しながら、徐々に服を脱いで裸になっていく。

  ” me fay planszer milies,      私を1000回も悲しませ
   pectus habet glacies.     心は氷をもっている
   a remender          癒しによって
   statim vivus fierem        私は直ぐに、元気になる
   per un baser.          一つのキスによって ”

静かに徐々に欲望が現れる。
これに呼応するように、第17曲 ”Stetit puella" 「少女が立ていた」 で
   ”Stetit puella  少女がたっていた
rufa tunica;  赤いチュニカを着て”

赤いチュニカの女(フォルトゥナ、もうサングラスはしていない)が肢体をくねらせて踊る。
この部分の歌詞は、原典では、オルフの採用した部分の後に以下のように続く、
  ” 娘が 木の下に立って 
   葉に 恋人の名を書く
   するとウェヌスが来る
   大きな恋(カーリタース)
    気高い恋(ミンネ)を
    娘は男にあげる ”

つづいて、男声が求めるが如く、唱い始める、
第18曲 ”Circa mea pectora" 「私のこころの周りには」

  ” Vellet deus, vellent dii   神よかなえてください。神々よかなえて下さい。
   quod mente proposui:   私がこころに決めたことを
   ut eius virginea      ーーかの処女の
   reserassem vincula. Ah   鎖をはずすという  ああ
   Vellet deus, vellent dii   神よかなえてください。神々よかなえて下さい。
   quod mente proposui:   私がこころに決めたことを ”

二人は絡み合って踊る、神学生が求めるのを、赤い女(フォルトゥナ)が攻撃的にやっつける。
(女声ソロはただ「Ah~~」とだけ声を添える、合唱は「Manda liet, manda liet」と囃す)
合唱が周りから囃し立てるが、この状態は変わらない。
このパートの、バーミンガムロイヤルバレエ団(Céline Gittens and Tyrone Singleton )
リハーサル映像
→ http://vimeo.com/25409046

19”Si puer cum puellula” 「若し、少年が少女とともに 」で
更に男が動物的に求める、
20”Veni, veni, venias” 「来い、来い、来ておくれ」では
周囲の男女も絡み踊る。

その後、突如、曲想が変わり、
第21曲 ” In truitina mentis dubia" 「心の迷う秤のなかで」  
この曲は、全曲中最も美しいが、そこで最も美しいパ・ド・ドゥが踊られる。

湯川は、ここでも基本的にはフォルトゥナのままだが、
(これは相手がゲストだったせいかもしれない。初演時の山本隆之とだったら違ったのだろうか、、)
米沢は、ただのひとりの女(どちらかと言うと少女に見えるが)として踊っているように見えた。
今までに見た福岡雄大とのパ・ド・ドゥのどの踊りよりも、
美しくうっとりするものだった。
この二人は、こんな幻想的な踊りも出来るのかと、初めて感じた。

 ” In truitina mentis dubia     心の迷う秤のなかで
  fluctuant contraria        揺れ動く。 ー−相反する 
  lascivus amor et pudicitia.     放縦な愛と純潔が
  Sed eligo quod video,       しかし、私は私が見るものを選び  
  collum iugo prebeo:        頚をくびきに差し伸べ
  ad iugum tamen suave transeo.   甘いくびきへと進む ”

たぶん、米沢の解釈では、ここでは「フォルトゥナ」ではく、
恋するひとりの女なのだろう。
この詩句は、原典では、男が女に言い寄り、女が応えるという対話詩だが、
この部分は女の迷う心情を表している。
男の愛情を受け入れるかどうか、ひとりの女としての迷いが原詩にもある。
ただしかし、「浮いたり沈んだりする秤」が、
運命の車輪を廻す不安定な存在である「フォルトゥナ」の象徴とも読める。
常に背後にフォルトゥナが居ることは、
米沢のように踊っても同様だろう。
どの面をより強調するか、それがダンサーそれぞれの個性に基づいた解釈になる。
湯川の個性からは、フォルトゥナの面を強調するのはすんなりと腑に落ちる。

第22曲 ”empus es iocundum"「楽しみの時だ」 では、
男女に分かれて、フォルトゥナと神学生が戦うのだが、
まるで子どもたちが「はないちもんめ」を楽しんでいるのようにさえ見える。


第23曲 ”Dulcissime” 「この上なく甘美に」

  ” Dulcissime        この上なく甘美
   ah totam tibi subdo me !   ああ、貴方にすべての私をささげる ! ”

この曲の歌詞は、実は原典では、第21曲と同じ詩「恋のみそかごと」に依っている。
この長い詩の一番最後の句が、この第23曲の部分に当たる。
長い迷いの末に、女は気持ちを固めたのか、、、

第24曲「Ave formosissima"「 ああ、この上なく美しい人よ」 で
聖母、ヴィーナス、ヘレナ、などの女性たちを崇め、
赤い女は、神学生に愛を捧げられ、高々とリフトされる。

しかし、
その直後、音楽がまた一変し(第25曲 ”O Fortuna”「おお、フォルトナよ」)、
フォルトゥナのテーマに変わる。
女は、神学生の手を振るほどき、その「本性」を顕わにする。

知らぬ間に、背後には、多くのフォルトゥナが出現する。
新国立バレエのパンフレットでは「フォルトゥナのクローン」とあるが、、
「クローン」にするには、男性ダンサーも踊っているのは何故だろうか?
(「クローン」であるなら、生き写しでなくてはならないので
『ラ・バヤデール』の影の王国のコールのようにすべきだろう。)
背後の、
フォルトゥナ化した男性ダンサーは、さっきまで「街のチンピラ」として踊っていた男たちだ。
多くの人たちが、フォルトゥナの、運命の力の畏れを抱き、
彼女を「運命の女神」として祀り踊っているように思えた。
だから、
ここでのフォルトゥナは、闇の中から目隠しをして現れた冒頭のフォルトゥナとは、明らかに違う。
踊りの振付は同じでも、
フォルトゥナは、人々の欲望とその喪失という情念を得て、「神」になったのだ。

私たちは、この『カルミナ・ブラーナ』一曲を通じて、
フォルトゥナとその運命に操られる人々を見てきた、
そして、その操られる人々を付き従えて、
今、フォルトゥナは、さらに大きくなり、踊っている。

最後の場面、3人の神学生たちは、その中には入る事無く、
舞台奥へと消えていく。
振付家のビントレーは、「彼らは地獄へ堕ちた」とインタヴューで述べているが、
本当にそうだろうか?
神学生から堕落し「神」にも見捨てられ、
今また「運命の女神」にも見捨てられた、
しかし、その音楽に踊らさせ、背景に消えていく。
本当は、フォルトゥナの「クローン」と化して、
オルフの強烈な音楽とともに踊る方が、楽で心地よいのではないか。
共には踊らず、背景に消えていった、彼らは、地獄に堕ちたかもしれないが、
未だ、「蜘蛛の糸」に出会える可能性は残されているのではないだろうか。


レヴュー 了

以下も、参照されたし。
「新国立バレエ 『カルミナ・ブラーナ』プレヴュー  Ballet ”Carmina Burana” Ballet of New National Theatre Tokyo」 http://zoushigaya.seesaa.net/article/395080610.html

「『カルミナ・ブラーナ』 校訂原典版とカール・オルフ作曲版歌詞の照合、及び若干の注釈」
http://zoushigaya.seesaa.net/article/396075540.html



Rueda de la Fortuna.jpg

La Ruota della Fortuna. Francesco Petrarca, "De remediis utriusque fortunae" 『順逆両方への対処法』(Paris, 1503)






















posted by 星跡堂主人 at 16:29| 東京 ☁| Comment(1) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
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Posted by Johnd770 at 2016年01月19日 02:16
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