2013年03月10日

新国立バレエ 『ジゼル』 米沢唯、厚地康雄 (2013年2月23日)


新国立バレエ団 『ジゼル』
ーー 新制作と云うべき舞台、限りなく禁欲的な問いと若き等身大の情熱 ーー
 
2013年2月23日
主なキャスト
ジゼル 米沢唯、 アルベルト 厚地康雄、 ハンス 輪島拓也、
ペザント・パ・ド・ドゥ 細田千晶、奥村康祐、
バチルダ 湯川麻美子、 クーラント公 貝川鐵夫、
ウィルフリート 清水勇三郎、 ベルタ 西川貴子、
ミルタ 厚木三杏、 モンナ 細田千晶、 ジュリマ 寺田亜沙子

井田勝大指揮 東京交響楽団

全配役等、その他のデータはこちらで見られます
→ http://blog.livedoor.jp/masamifc/archives/1818280.html#more


今回の新国立バレエ団『ジゼル』でまず驚いたのは、
従来のコンスタンチン・セルゲイエフ版と随所に異なる演出がなされ、
謂わばニュー・プロダクションに近いものになっていたことだ。
デヴィッド・ビントレー監督の要請でバーミンガムから来日し、指導した
デズモンド・ケリーによるステージングの成果なのだろう。
その様子を伝える新国立バレエ団ブログの記事
→ http://www.nntt.jac.go.jp/nbj/blog/2013/02/15/舞台リハーサル2日目の風景/


序曲冒頭の音の鳴り方からして、
既にリズムを激しく刻むロシア風の感じではなく
おっとりした西欧風の造り。

前回2006年6月の上演映像(残念ながら映像と音楽が全く合っていませんが)
http://www.nntt.jac.go.jp/ballet/20000623_ballet.html

その後も、オーケストラの音の造りはロシア風とは異なる音取りがあるなど、
私の記憶に残るフェドートフが指揮した新国立『ジゼル』とは違う印象を受けた。

さらに、アルベルトの第1幕の「出」が違う。
ロシア系の演出では、アルベルトは従者と共に現れて、一度上手の小屋に入る。
その後、ハンス(ヒラリオン)が登場する。
しかし、今回の新国立の演出では、
アルベルトは最初に登場せず、ハンスが出てきた後に
従者ウィルフリートと共にやってくる。
これは、単なる「出」の順序以上の効果を齎す。
つまり、アルベルトの「剣」の扱いに直接影響するのだ。
ロシア系では、ハンスが去った後に再び小屋から登場したアルベルトは、
剣とマントを小屋に置いてきているので、既に腰にさしていない。
だが、西欧系(今回の新国立もこちら)の演出だと、アルベルトは、
はじめマントのみ外して、剣をさしたままであることを従者に指摘される。
それによって、その後に展開する「剣」を巡る物語の演出効果が、より活きることとなる。

他にも、
第1幕のジゼルのヴァリアシオン、
上手奥から、下手前へと
ポアントでロン・ド・ジャンブ・アン・レールを繰り返しながら移動する見せ場で、
ロシア系では、ずっとそれを繰り返すだけだが
西欧系では、上手前にいる恋人へと身体をクロスさせ腕を投げかけるという動きが入る。
ダンサーによっては、投げキッスさえする。

ロシア系のジゼル第1幕のヴァリアシオン
メゼンツェワ1幕のヴァリアシオン 31分くらいから
http://www.youtube.com/watch?v=TabPITaVzfM

ザハロワ1幕のヴァリアシオン
http://www.youtube.com/watch?v=HL5dKMWkIe0



目に見えてはっきりと誰もが判る違いは、第2幕で現れる。
幕が開くと、ジゼルの墓が上手前になく、上手奥にあるのだ。
ジゼルの墓は、ロシア系では上手前にあるが、
仏英などの西欧系では上手奥に築かれる。
この墓の位置の変更は、必然的にその後のダンサーの動きに大きな変化を促す。

ミルタは下手奥から舞台をT字形にパ・ド・ブレするのではなく、
ディアゴネルに横切る。
アルベルトの「出」でも、舞台をディアゴネルに横切り
上手前で佇み、下手奥のジゼルの墓をさっと振り返る。
マントを翻し振り向く厚地康雄のアルベルトの姿は、かっこよかった。

また、コール・ド・バレエの型も明確な◇(ダイヤ)型編隊になっていた。
有名なアラベスクで交差するシーンも、
舞台両側から交差した後、コール・ド・バレエは見事に◇型へと隊形を整えていった。
美しかった。この型も、以前とは異なるように見えた。

第2幕は、照明デザインも大きく工夫されて、以前よりもずっと効果的になり、
ウィリたちのチュチュが、サイドから照明されることにより、より美しく
幻想的に見えた。

以上の変化は、決して小さくない改変であり、
もう6年も前の新国立『ジゼル』のプロダクションとは違う
新しいプロダクションと考えて良い。
しかも多くは、より良い方に改変されていた。

新国立バレエ団の『ジゼル』は、
1998年にセルゲイエフの伴侶だったナターリア・ドゥジンスカヤが、
マリインスキー劇場の指揮者ヴィクトール・フェドートフと共に来日して造り上 げた。

この版の特徴の一つのは、ペザント・パ・ド・ドゥの女性ヴァリアシオンの曲が、
通常のト長調ではなくニ長調2/4アレグレットで演奏され、
アダージョの最後で回転する女性が男性の作る腕の輪に手を入れて組むという
難しい型になっていることなどだが、それらは、今回も初演時のままだった。
細田千晶の繊細なダンスに、奥村康祐の喜びに満ちた若々しい動きが印象的だった。

http://www.youtube.com/watch?v=TabPITaVzfM
マリインスキー・バレエでのセルゲイエフ版
ペザント・パ・ド・ドゥ、女性ヴァリアシオン 38分くらいから


またマリインスキー版にはなく
新国立版の特徴として特筆すべきは、
第2幕の最後、
墓に戻るジゼルが墓の十字架に腕をかけ、
まるで蝶が羽を開くように大きくアラベスクパンシェをするシーンだ。
新国立バレエ団、前回(2006年)公演のこのシーン

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この振りも、今回の上演でも残されてはいたが、
前回のように墓の位置が下手前で客席からよく見える場所でこのアラベスクパンシェが花開くのと、
今回のように下手奥の方でするのとでは、印象が大きく違う。
後に述べるが、
ジゼルを演じた米沢唯は、その効果の差異を考慮して
別の解釈をこのシーンに忍び込ませていた。



さて、今回の上演版の特徴はここまでにして、
一体、そうした新しい版の基で、
ダンサーたちがどのように踊ったのかを述べたい。


私は見る側なので、今も新国立バレエ『ジゼル』を幾度か反芻している。
ダンサーとは、基本的に自己の踊りによって解放されたい存在だと思う。
それが踊る喜びだから、自然に身体がそれを志向する。
より大きく跳び、より速く周り、より高く脚を掲げようとする。
それが気持ち良いから。

バレエも基本的にはそれを志向している。
だから物語の内容としては?な時に、派手に大きく踊ることもある。
それはバレエダンサーのある種の性向とも言えるし、
客も、物語をそっちのけにして
ダンサーの身体の動きの強度にカタルシスを感じる事がしばしばある。

もし、それを一貫して抑制しつづけたら、、
身体の解放を抑制し、物語が志向する動きに身を委ねたら、、、
どのようなダンスになるのか。

それが、今回の米沢唯が踊ったジゼルだったように思える。
第1幕「出」のバロネから始まり、
ヴァリアシオン・コーダの ピケターン、
『ジゼル』という作品では、多くのダンサーが
第1幕では心臓は弱くとも明るく元気に振る舞う。
そして、静寂の世界である第2幕との対比を明確にしようとする。
しかし、米沢の第1幕は、全くそうではなかった。
少しアプローチは異なるが、私の狭い見聞では、こうした第1幕の演り方は、
とても孤独で繊細なジゼルを演じたパリ・オペラ座(2000年6月)の
アニエス・ルテステュだけである。
(ルテステュのジゼルは、当時パリでも物議を醸したようだ。)

しかし、米沢の徹底していたのは、それが第2幕においても変わらなかったことだ。
第2幕のグランデヴェロッペ、パンシェ、アントルシャ、グランジュテ、など
ロマンティック・チュチュのエクステンションを静かに美しく際立たせる
そうした動きでさえ、米沢は抑制し続けた。

どのシーン、どの動きをとっても、
ダンスとしての活き活きとした解放感は一度たりとも現れず、
結果的にある一つの動きが強度をもって見る者に強く印象づけられることはなかった。

これはものすごくストイックな抑制である。
なぜなら、バレエダンサーの身体の志向性を、
見る側の客に強く自分の踊りをアピールするということを、
最初から最後まで抑制的にコントロールし続けるということだからだ。

それはまた、今日までの『ジゼル』という作品が作り上げてきた構成や美学、
第1幕では明るい少女、
それとコントラストをなす第2幕では静寂の中でのエクステンションを見せるという美学を、
問いなおすということさえも含んでいる。

考えてみれば、
『ジゼル』という作品のジゼルという人物像には、
本来、こうした動きが必要だったのではないか。
ジゼルはどのように踊られるべきか、その音楽と振付の動きと物語内容とは
どのように関係付けられるべきか。
1841年の初演のカルロッタ・グリッジ以来
パリでは一度途絶えたものがロシアで生き残り、
縷々述べてきた西欧系とロシア系に見られるような様々な解釈が施され振り付けられ、
世界中で多くのダンサーが踊り続けてきた、
また、見る側にも「ジゼルはこう踊るんだよね」というイメージが出来上がってしまっている
この作品に対して、
米沢唯は、今一度『ジゼル』という作品のジゼルとは、どう踊られるべきなのかを問い、
私たちに示したように、私には思えた。


幕が上がってから幕が降りるまで
終始一貫してそれを保持する緊張感は、物凄いものだと思われる。
踊る側の内側の緊張感は、しかし舞台ではその物語の人物にぴったりしているので、
見る者には「自然」に見える。
今までにないジゼルなのに、ああ、ジゼルってこうだよね、と感じる、、、

作品の「人物を生きる」とはこういうことだと、
『ジゼル』というバレエの今までのあり方と、
西洋が造ったバレエダンサーの身体の志向性に抗して、
米沢唯は、ジゼルを造形した。

「狂乱シーン」と謂われる場が、あれほど静謐感に包まれていたのはそのせいだ。
それでいて、あ、ほんとに死んでしまった、、、と思える。
たぶん米沢は、このシーンを「狂乱」とは捉えていない。
身体の弱いごく普通の少女が、初恋を失い、
茫然自失の中で消え入るように息絶えた、と捉えているのだろう。


もちろん、それが舞台で生きたのは、
抑制的なジゼルを承け続けた厚地康雄の若く情熱的なアルベルト、
実直な輪島拓也のハンスがあってこそで、この三者のアンサンブルも絶妙だった。

特に、第2幕は全てがアルベルトの夢かとさえ思われた。
これは、厚地が、1,2幕を通して、ジゼルとの踊りにおいて、
常に抑制的な米沢の動きにシンクロしながらも、
ーーこれは言葉の単なるあやではなく、文字通り二人の動きはシンクロしていた、
これは『ジゼル』の、特に第2幕では最も重要なポイントであるーー
厚地が一人で踊り動く時には、その気持ちの昂ぶりや激しさを示したからだろう。
第2幕の「出」の、美しくしかし気持ちを全面に出した動き、
墓の前で座り込み、ひたすら祈る姿、
こんなにも一心にジゼルに祈りを捧げるアルベルトを、私は初めて見た。

そうした二人の身体の動きの結果、
次第にジゼルの存在は「夢幻」になり、
アルベルトのジゼルへの「思い」だけが実在に見えて(思えて)くる。


朝を告げる鐘がなっても、ジゼルは表情を変えない。
斃れようとするアルベルトを抱き起こす。
このシーンが、今回特に強く見る者に情感を醸したのは、
ジゼルの身体が初めてアルベルトを抱いたからではないか。
その暖かみは、まるで「ピエタ」のようにさえ見えた。
たぶん、暖かみは客の心が産んだ幻想なのだろうが、、、

米沢唯は、このシーンを目掛けてずっと抑制してきたのだ、私にはそう思えた。
一瞬、それまで幻だったジゼルが、現(うつつ)の姿をその思いとともに現した。
そう感じられた。しかし、次の瞬間、
握られたアルベルトの腕は、すとんとジゼルの胸から落ちる。
二人の身体が交わり、一瞬うつつに現れたジゼルの思いは、また消え去っていく。

その後、
先にも書いたが新国立版『ジゼル』は、
墓に消えゆくジゼルが、墓の前で大きくチュチュを拡げアラベスクパンシェするのに特徴があるのだが、
前回までの演出では、墓は下手前にあったので、
このシーンは特に目立ち、観客の印象に残るものとなっていた。
しかし、今回の演出では、墓は下手奥に引っ込んでいる。
そこで、米沢は別の方法を選んだように見えた。
もちろんアラベスクパンシェはしたのだが、その動きは、それまでの動きと同様抑制的にされ、
決して蝶の羽のようには拡がらなかった。

さらに、そのあと、
もうジゼルの身体は舞台袖に引っ込んでいる、
しかし、闇に消えゆく中でひらひらと舞うものが見えた。
手だ。
それは時間的には1秒もなかったことだったろう。
闇の中でひらひらとアルベルトの方へ靡いたように見えた。
先に一瞬現れ、アルベルトの手を取ったそのジゼルの思いが、闇に舞っている。
今一度、アルベルトを求めて。   (注1)

アルベルトの手と交わったジゼルの「手」が、見る者に遺る。
そしてアルベルトは、ジゼルの形見の花を抱き、歩む。
見事な幕切れ。

この二人は、『ジゼル』を初めて踊ったのだ。



脚注
注1『ジゼル』をハインリッヒ・ハイネの『ドイツ論』(1835年にパリで刊行)から着想した
  テオフィル・ゴティエ(Théophile Gautier)は初演後に
  「コートレにあるハインリッヒ・ハイネに」という公開書簡を発表し(「ラ・プレス」1841年7月5日)
  その中でジゼルが墓に戻るシーンを以下のように描写している。

 「美しいミルタも水蓮の花弁に帰っていく。
  ウィリたちは生気をなくし、絶え入るように退場する。
  ジゼルも逆らいがたい力に引き寄せられて自分の墓に近づく。
  無我夢中のアルブレヒトは彼女を腕に抱いて接吻を浴びせながら運び、花咲く塚の上に座らせる。
  しかし土はその獲物を離したがらない。
  草むらの地面が割れ、草木は朝露の涙をためて身をかがめ、花は頭をかしげる。
  角笛が響く。ウィルフリードが心配して主人を探しに来る。
  数歩後に続いてクーラント大公とバチルドが現れる。
  そうするうちに花たちジゼルに覆いかぶさる。
  もはや透き通る小さな手が見えるだけだ。
  その手もまた消える、すべては終わった!
  アルブレヒトとジゼルは二度と再びこの世で逢うことはない。
  彼は塚の傍らに跪き、花を詰んでそれを胸に抱きしめる。
  それから彼を許し慰める美しいバチルド姫の肩に顔をもたせて去っていく。」
    引用は『舞踊評論』(渡辺守章編、1994年6月)に拠る


参考
「『ジゼル』 終幕の音楽」
http://zoushigaya.seesaa.net/article/343623929.html

「バレエ『ジゼル』の在り方、聖なる百合または凛とした白梅」(『ジゼル』上演史など)
http://zoushigaya.seesaa.net/article/327050707.html




posted by 星跡堂主人 at 00:17| 東京 ☀| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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