2012年04月07日

ギャラリーKAIの白洲千代子さんの個展と、染井霊園


染井霊園近くのギャラリーKAIさんで、以前ご近所だった
白洲千代子さんの個展(4月8日まで)が開かれているので行ってきました。
→ http://www.gallerykai.com/


IMGP8240.JPG


こちらは、いただいたペンダントヘッド

石や陶片、真珠や硝子などがワイヤーで自由に組み合わされ、
思わぬ形になっているのが、とても面白い。
しかも、白洲さんがその場のインスピレーションで
いろいろな組み合わせで作っていく、
それも間近で見られて、
単に出来上がった作品を見る以上の楽しみが味わえました。
→ http://blog.gallerykai.com/

ギャラリーKAIさんは、以前目白台にお店があった頃からそうでしたが、
店主の趣味が隅々まで行き届き、
小さなサロンのような所です。
白洲さんや店主といっしょに
そこで初めて出会ったお客さんとも楽しくお話しができ、
ほうじ茶にレモングラスを加えた店主オリジナルのお茶なども出てきて
とても和みました。



さて、このギャラリーKAI
染井霊園と目と鼻の先の場所なので、
掃苔フリークとしては、行かざるを得ません、、(^^)

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染井霊園内にある藤堂家墓所の桜、
この一画だけ塀で囲われていて、遠目からは
深い緑の中、門柱にかかる枝が美しい。

染井霊園には以前から訪ねてみたい墓所がありました。
ロダスカ・ワイリック(Loduska. J. Wirick)女史の墓所 

IMGP8206.JPG



彼女のミッションの解説(英語文)→
http://www.bible101.org/japanmissions/page05.htm

日露戦争時に戦病兵のために奮闘し
「東洋のナイチンゲール」と云われ、明治天皇から銀杯も賜っている
この女史の墓所も、一時期無縁化して撤去の危機にありました。
それを様々な所に働きかけ救ったのが
雑司が谷旧宣教師館のマケーレブ宣教師などの研究者の野村先生でした。
現在、この墓所に建つ説明板も、野村先生に依るものです。
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ロダスカ・ワイリック(1856-1914)
 アメリカ合衆国オハイオ州に生まれ,1890年(明治23)ドレイク大学を苦学して卒業。直ちに宣教師として来日,5年間にわたり伝道活動に携わり,一時帰国。翌1896年再び来日し,教会を開いて伝道に努める一方,学習院や府立四中(現在の都立戸山高校)等で英語を教えたり,多くの孤児や捨て子を自宅に引き取って養育した。また,当時偏見の強かったハンセン病施設で患者の世話をしたり,四ッ谷鮫河橋スラム街での奉仕活動にも尽した。日露戦争(1904-5)が始まると看護婦と医師の資格を有するワイリックは戸山の陸軍病院に赴き病床から病床を回って負傷兵を励まし,献身的な看護に当たった。
 いつしか,「東洋のナイチンゲール」と呼ばれるようになり,日本政府や東京府からも表彰された。人類愛と奉仕活動に尽くした信念の人ロダスカ・ワイリックは1914年(大正3)4月30日東京赤坂の病院で死去。享年五七歳。ここ染井霊園で永遠の眠りに就く。

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開かれている書には、聖書「ヘブライ人への手紙」第11章第4節から
「かれ死ぬれども信仰に/由りて今なほ言へり」 
と、刻まれています。



染井霊園のずっと奥の方へ突き抜けた先には、
日蓮宗の古刹本妙寺があります。
ここにも一度見ておきたかった明暦の大火供養塔がありました。
本妙寺はかつて本郷丸山にあり、一説には、
明暦の大火の火もととも云われています。
(但し、同寺はこの説にHPで反論しています。
→ http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/taika/taikapage.htm )


IMGP8166.JPG


よくこの三幅対で写真などで引用されるのですが、
よくよく銘を見ると、明暦の大火時の供養塔は
右の板碑型のものだけで、
中の石仏の台座には弘化年間の銘がかずかに見え、
これは後に時代に作られた供養仏かもしれません。
仏像の様式からしても江戸の後期のように見えます。
また、
左のものは、

IMGP8165.JPG


はっきりと分かるように安政大地震(安政2、1855年)の供養塔です。



ここの墓所には、古い墓石や石仏が多く遺っています。
特に「永代供養塔」(無縁塔)には多くの石仏が集められています。

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中で最も古いものは、天和3(1683)年銘の如意輪観音
左の脚を前の方にはっきりと押し出して、
傾げた顔から頭にかけてのラインと対角線になっていて
興味深く、美しい造形です。

IMGP8169.JPG




同じ如意輪観音、宝永2(1705)年銘

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お顔が中々福々しい。


さらに興味深かったのは、享保6(1721)年銘のこちら

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仏像というよりも、
亡くなった童子の姿を写しているようにも見えます。
こういうお姿は余り見かけないように思います。

 

石仏だけではなく、墓石にも古いものが見られます。

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こちらは、慶安3(1650)年銘のある五輪塔



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この宝篋印塔も、寛永15(1638)年の銘。



さらに

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この五つの五輪塔群、
両脇の二基は銘が確認できませんでしたが、
中の三つは、
左手前 慶長12(1607)年  中 慶安4(1651)年  右奥 天和2(1682)年
で、どれも古いものでした。
特に慶長年間の墓石は江戸では珍しいものです。


と、思っていたら、さらに珍しいものを発見!

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何と、天正3(1575)年とあります。
さらに驚いたことには!

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「於三州長篠戦死」とあります。
あの織田徳川連合軍が武田騎馬隊を鉄砲三千丁で殲滅した
長篠合戦の戦死者(側面に「雨宮十兵衛源家次」とあります)の墓です。

しかし、よく見るとこの墓石は
江戸中期以降の駒形墓石。
たぶん、武田家滅亡の後徳川に召し抱えられた旗本(雨宮家)が、
江戸期に供養した墓石と思われます。
しかし、それにしても長篠合戦の戦死者の墓が
江戸の染井にあるということ自体、何とも縁は奇なものという感慨を持ちました。




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posted by 星跡堂主人 at 23:40| 東京 ☀| Comment(0) | 石仏 Statue de pierre de Bouddha | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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