2009年12月31日

雑司が谷初詣 ---- 雑司ヶ谷七巡りと護国寺

雑司が谷は寺社が多いので、どこを歩いても仏さま、神さまに行き当たるありがたい所です。お正月の初詣は目出度く、たくさんの神仏に出逢えるので、うってつけの場所と言えましょう。

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そこで、雑司ヶ谷初詣のモデルを、私が勝手に「雑司ヶ谷七巡り」として作りましたので、ご披露致します。

その一「鬼子母神と武芳稲荷」  

云わずと知れた雑司ヶ谷の代名詞。仏に諭され改心した母(鬼子母神)の子を思う心があふれている場所です。安産、子安の神さま。明治以前は参道に鳥居があったのですが、明治政府の神仏分離令でなくなりました。法華経の守り神でもあり、まさに日本風の神仏習合の神仏様でしょう。
子のほしい女性が、大銀杏に抱きつくと子が授かると云われていたそうです。
本堂は、寛文四(一六六四)年に加賀藩二代藩主前田利常(利家の四男)の息女で、安芸藩浅野光晟の正室(満姫)自昌院殿の発願で建立されたもの。この方は、三代将軍家光の娘として浅野家に嫁がれたようで、将軍を義父に持つ権勢があったようです。
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数年前「行く年来る年」で中継された際にライトアップされた鬼子母神堂

また、境内には、
鬼子母神堂が建つ以前からここにいらっしゃった雑司ヶ谷の鎮守武芳稲荷もあります。朱い鳥居は大銀杏を巡るように連なっています。
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鬼子母神堂裏手は妙見さんになっています。
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境内入り口にいらっしゃる阿吽の仁王さまは、以前は戸山の盛南寺にあったものを移したと云われている古いものです。
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境内を巡るだけでも、すでに多くの仏さま、神さまの御利益がありそうです。

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本堂の銅鑼、「元禄拾三歳」(一七〇〇年)の銘が見えます。

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本堂前の灯籠はいずれも江戸時代のもの。これは、元禄四(一六九一)年銘ですが、反対側には宝暦六(一七五六)年に「再興」したとあります。
この境内にあるものは、みな様々な人たちの思いが伝えてきたのだとよく分かり、とてもありがたいことです。

http://www.kishimojin.jp/index.html


その二「威光山法明寺と威光稲荷」

鬼子母神の境内を北に出ると道が二叉なっています。
そこには立派な名号塔が建っていて、「文化庚午年」=文化七(一八一〇)年の銘があり、ちょうど二百年前のものだと分かります。
ここを左に行くと法明寺です。
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鬼子母神は、元々法明寺に属していました。お寺の歴史もこちらの方がずっと古いですが、戦災で全てを失ってしまいました。弘仁元(八一〇)年に真言宗のお寺として創設された古刹です。
山門、本堂など全て戦後の再建ですが、参道の桜並木と共に趣のある雰囲気があり、山門をくぐると静謐な時が流れます。

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門を入ってすぐ右には蕣塚(あさがおづか)があります。朝顔の絵は酒井抱一です。
          「 富久  
蕣やくりから龍のやさすがた 」と文字は記されていますが、
「富久」は化政期雑司ヶ谷の趣味人、戸張喜惣次のもの。
彼は彫金師であり藪蕎麦(江戸の藪蕎麦は彼の店が発祥といわれています。)の店主であり、という多才な人で、抱一や蜀山人とも親しかったようです。
この「くりから龍」というのは、お不動様の化身で、雑司ヶ谷の南、高田の金乗院に見事な倶利伽羅不動の庚申塔があります。
祖師堂横の祠には元禄年間の庚申仏がいらっしゃいます。
http://www.homyoji.or.jp/index.html

「威光山稲荷」
法明寺山門脇の祖師堂の左に細い道があります。この道の左は法明寺墓所ですが、
墓所と境内のあいだを道に沿っていくと、右側にこのお稲荷さんの参道の入り口が出てきます。
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鬼子母神堂にも武芳稲荷があったように、古いことではっきりとはしませんが、
法明寺創建以前から、このお稲荷さんがあったのではと思われます。
参道が右に左にうねって登って、ここに入るだけでまさに迷宮に彷徨い込んだような不思議な所です。
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そうして、辿り着いた本堂の右をさらに行くと、奥の院のような場所があり、
そのさらに奥にはまあるい塚のような盛り土があって、その周りに小さな祠が幾つも建てられています。
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このまあるい塚が何か伺ったことはないのですが、西に開けたこの地に夕日がさっと差し込むと、遠い昔、慈覚大師円仁がこの地に射した一条の光に「威光」=「稲荷尊神」の顕現を見たことが忍ばれ、古代の雑司ヶ谷にさえ思いが馳せます。
威光稲荷は、この地で「威光」を見た慈覚大師によって創建されたとされています。
慈覚大師創建の寺社は、東国、みちのくにもいくらかありますが、江戸では浅草寺が慈覚大師によって中興されたと云われています。
惟うに、浅草寺ご本尊の出現の仕方と鬼子母神ご本尊の出現の仕方は似ており、浅草と雑司ヶ谷とは、神仏の霊気において何らかの関係があったのかもしれません。

鬼子母神堂、法明寺、威光稲荷へと巡る道は、雑司ヶ谷の古い歴史を遡っていく道でもあるように思え、またそこにありがたさを感じずにはいられません。


その三「妙法山本納寺」

威光山稲荷からまた元の道を辿り鬼子母神まで戻って、仁王様の前を抜けて境内を出ます。そのままけやき並木の方に折れないでまっすぐに小道を下っていくと、右手に本納寺さんがあります。
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創建は寛永年間で、本堂に安置されている「日月星」を顕す三光天像は最近
「東京近郊仏像めぐり」という本に掲載されたようです。

しかし、このお寺の良さは何と言ってもその瀟洒な境内の趣です。
美しく整えられた堂前のお庭など、ここに居るだけで心が洗われる気がします。
本堂脇のしだれ桜は春になると本当に優美に咲きます。

境内、右側には戸張喜惣治と共に雑司ヶ谷文化人であった金子直徳の供養塔や、
蜀山人の筆になる狂歌碑、近代の俳人大須賀乙字の句碑などもあります。
本堂裏手には、近代の雑司ヶ谷文化人の代表秋田雨雀の、これも瀟洒な墓所があります。

本納寺の元の住職兜木正亨は日蓮宗教典研究の大家で、
秋田雨雀等と共に雑司ヶ谷研究のサロンをここで作っていました。
今分かっている近世の雑司ヶ谷の様子も、ここでの研究が元になっています。
そうした伝統を今のご住職ご夫婦も受け継ぎ、地域、文化活動にご熱心です。

http://www.honoji.or.jp/index.html


その四「大鳥神社」

本納寺前の道をさらに都電の線路の方へ下っていくと、左手に大鳥神社が出てきます。
この神社は元は、鬼子母神内にあり、「鷺大明神」と称していました。
天保年間刊行の斎藤月岑『江戸名所図会』巻の四、「鬼子母神堂」の項に
「鷺大明神祠 同前左の方にあり。祭る神詳ならず。或いは云う、出雲国神戸郡鷺村の鷺浦に鎮座し給ふ、素盞鳴尊の妾女皐諦女なりといふ。この神は疱瘡の守護神にして、正徳の頃松平羽州侯、神告に依つてこれを勧請す。疱瘡寄願の輩、広前の小石を拾ひ得て守護とす。例年八月朔日祭あり。」と、ある。
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明治政府の神仏分離令で鬼子母神境内から除かれ、一時個人宅に祀られていた時期もあったようですが、
現地に勧請されて、今は日本武命と倉稲魂命が祀られ、雑司ヶ谷の鎮守とされ、
大晦日には年越しの祓い、六月晦日には夏越の祓いが行われます。

また、本殿右脇の奥には、高速道路建設で立ち退きを余儀なくされた日の出町にあった三杉稲荷も祀られています。
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その五「不動山寶城寺」

大鳥神社の境内を、本納寺さんとは反対側の本殿に向かって右(北)側から出て
都電の踏切の方へ行き、踏切を渡るとすぐに生協のお店がありますが、それを越えて、左には入り、一本目を右に。左手がやや高くなっている道沿いに行くと、
二方が坂道になっている四つ角に出ます。
この左脇にあるのが寶城寺さんです。
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参道入り口には、文政二(一八一九)年銘の「祈雨日蓮大菩薩」という石柱が建っています。このお寺も、境内が閑かで趣のあるお寺で、本堂前には縁台が出され、
心を落ち着かせ一休みするのにも良い所です。
こうした静かな場所で、来し方行く末を祈念するのも良いと思います。


その六「御嶽山清立院」

四つ角前の坂、御嶽坂の左手にあります。門前は階段で上に登っていきます。
階段の上からは、遠く新宿の高層ビル街も見渡せ気持ちがよいです。
堂宇はモダンなものですが、それなりに趣のあるもので、夜など明かりが点っているととても美しい建物です。
御嶽権現を祀っているので、このような山号が付いていますが、
疱瘡快癒祈願の「疱守薬王菩薩」や雨乞いの松があります。
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夕日に紅く染まる「雨乞いの松」と清立院本堂

疱瘡の「瘡守」と「傘守」が重なっているのかも知れません。
また近来は、ペットのご供養も熱心にされているようです。



さて、この四つ辻には、さらに小さな祠があります。
これは「白鳥稲荷」で、元はこの地の北にあった将軍家御鷹場(現在の雑司ヶ谷霊園の西側1/4ほどにあたる)で勧請されていたものが、いつの頃か、ここに移されてきたようです。
鳥居には文政六(一八二三)年の銘があります。鳥居の台座や手水鉢の横には、
将軍家御鷹場のお役人たちの名前がぎっしりと刻まれています。
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またここには、享保十八(一七三三)年銘の石橋碑もあり、
弦巻川という川が近くを流れていました。
野辺送りなどもここでされていたようです。
鬼子母神と護国寺を結ぶ道筋で、二方向に坂があり、下を川が流れるこの地は、
古い雑司ヶ谷の、霊的に特別な意味のあった地だったように思われます。
今でも、この四つ辻に立つと、何かしら不思議な感覚を覚える空間なのです。

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石橋碑と白鳥稲荷の祠

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清立院本堂脇に飾られている『江戸名所図会』「御嶽坂」の図




その七「おあなの鬼子母神」

御嶽坂を上り、雑司ヶ谷霊園の南辺をさらに南に行き、不忍通りに出て、
通りを護国寺方面に下っていく(清土坂)と、左におあなの鬼子母神へと下る小道があります。
現在、鬼子母神堂に祀られている鬼子母神像が出現した所です。
大きな木立に囲まれた小さなお堂があります。
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『江戸名所図会』「鬼子母神堂」の項に依れば、
「縁起に云く、この本尊は永禄四年辛酉五月十六日、この地山本氏・田口氏なる者池水に星の現ずるを見て後、その地を穿ち、鍬下にこれを得奉りしとなり。今護国寺の西にその出現の旧跡あり。星の清水と称す。」
今もここには、「星跡の井戸」と呼ばれる、△型をした井戸が遺されています。
御会式の御練りも、ここから発します。雑司が谷にとっては、大切な場所です。
「星が現れて云々」というのは、一説にこの近くで星のお祀り(北斗信仰か)をしていた修行者が居たとも云われています。

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境内にある文政六(一八二三)年銘の道しるべ


ここで七巡りはおわりですが、
本来なら、御嶽坂を上って、女子大の寮の脇を護国寺方面へと向かっていく
鬼子母神参詣古道を行くと、その先に大野山本浄寺があり、
雑司が谷の地誌『若葉の梢』の著者金子直徳縁の寺で、
この寺も含めたかったのですが、本浄寺は古い本堂を壊して新しいものに建て替え中で、はずしました。
以前は閑かな良い境内だったのですが、残念です。

この本浄寺の先、今は高速で隔てられていますが、
神齢山護国寺があります。
ここは云わずと知れた、素晴らしい名刹です。庶民的な雑司が谷の寺社とはことなり、さすがに将軍家のお寺という威容を誇っています。またそのコントラストもお参りする楽しさでもあります。
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http://www.gokokuji.or.jp/index.html




大まかなルートを地図上で表記すると、上記になります。
少しルート上から外れている右下のチェックマークは「おあなの鬼子母神」の位置です。
護国寺から目白通り方面へ向かう不忍通りを少し北側に入った所にひっそりといらっしゃいます。
また、清立院はなぜかどのマップでも「水仙寺」と表記されています。

今回は雑司が谷を中心にして
鬼子母神を基点として護国寺方面へのルートで巡るルートを書きましたが、

護国寺を基点として、
護国寺→おあなの鬼子母神(本浄寺)→(御嶽坂)→清立院→寶城寺→
大鳥神社→本納寺→鬼子母神→法明寺→威光稲荷


と、巡った方が分かりやすいかもしれません。
『江戸名所図会』などはそのような順番で書かれていますし、江戸から雑司ヶ谷へと訪れたいにしえの人たちはそのルートで巡り歩いたことでしょう。時折、音羽(護国寺門前の茶屋)で留まってしまった方もいたようですが、、、(^^)

  はつ春や神も仏も雑司ケ谷

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posted by 星跡堂主人 at 00:46| 東京 ☀| Comment(0) | 寺社 Temple bouddhiste et shintoïste | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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