2009年11月30日

路地のたのしみ 2「先哲の路地」

IMGP7261 のコピー.JPG

この路地の入り口には、菊池寛が住んでいた。
菊池の創刊した「文藝春秋」は、
大正十二(一九二三)年一月に小石川区林町で産声を上げ、
震災後の大正十三(一九二四)年一月に、
彼の自宅がここ「高田町大字雑司ヶ谷字金山三三九」に転居したのにともない、
編集部もこの地に移ってきた。
(大字雑司ヶ谷の番地は字ごとに、だいたい百番単位で区切られていたようで、
「字金山」の番地はすべて300番台)
大正十五(一九二六)年の「東京府下高田町明細図」のこの付近に
「文藝春秋社」と記載されている。
(その地図には「字金川」と地名がなっているがこれは誤記。)

「文藝春秋」は売れに売れ、菊池の家はその後昭和十二(一九三七)年に、
もっと南の「大字雑司ヶ谷字金山三九一」に移り
森のような木立のあるより大きな邸宅になり、
その家は「金山御殿」と呼ばれるようになるのだが、
間もなく自殺する芥川龍之介も、小林秀雄も、川端康成も、横光利一も、
一度は、この小さな路地に現れたことだろう。

しかし、
菊池寛の息子が「この辺りで一番偉い人は誰?」と、父に訊いたら、
即座に「諸橋さんにきまっている」と、菊池寛は答えたという。
「諸橋さん」とは、当時大塚窪町に在った東京文理科大学
漢文科教授の諸橋轍次のことであり、
諸橋轍次は、この路地の奥に住んでいた。
菊池寛の息子と諸橋轍次の息子は、この路地を行き来してよく遊んだという。

IMGP7253 のコピー.JPG


そして
世界一の漢語の宝庫『大漢和辞典』は、この路地の奥で構想され、生まれたのであった。




この稿、終わり。






























































posted by 星跡堂主人 at 23:13| 東京 ☁| Comment(0) | 路地のたのしみ Le plaisir de le chemin étroit | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]