2014年08月27日

私の、見知らぬ名古屋 その1「橘宗一(たちばなむねかず)少年の墓所」


父の法要のために名古屋に帰省した折に、
見知らぬ名古屋を訪ねてみた。

名古屋城のすぐ下で生まれ育った私にとって
栄町よりも向こうの東の丘陵地帯は、未知の場所が多い。
高校が東の丘陵地帯にあったので、
帰りに猫が洞池の辺を歩いた事はよくあったが、
いまだ知らない所ばかりかもしれない。


IMGP3471.JPG


名古屋の東側は、西側と違い、東京の山の手のような山あり谷ありの丘陵地帯。
東京の山の手が一本筋が違うと全く街の様相が異なるように、
そこもちょっと脇に入ると全く別の世界が広がる不思議な空間だった。
ここは名古屋なのだろうか?
私の知っている名古屋とは全く違う風景がそこにはあった。

きっかけは、
最近もらったある人からの手紙に「橘宗一少年」という文字を見たことだった。

遠い記憶の底から呼び起こされるように、その名前は静かに私の中に甦ってきた。
大逆事件?いやちがう、大杉栄と伊藤野枝だ、、、
関東大震災時に、後に満映を牛耳る甘粕正彦を初めとした憲兵に
虐殺された大杉栄、伊藤野枝、
たまたまアメリカから帰国していた大杉の甥、橘宗一、当時未だ7歳(満6歳)。

名古屋で彼の墓が発見されたということは、
遠い昔未だ名古屋に居た頃に、報道されたのを記憶している。
しかし、まだ若かった私は「虐殺」という言葉におののき、
そのことを深く考えようともせず、橘少年の墓に特に興味を持たなかった。


3.11以降の、昨今の世相の中で、
その方から「橘宗一」という名前が記された手紙を貰わなかったら、
名古屋を故郷として愛していながらも、
この墓に参じ祈る事もなかったかもしれない。


それにしても雑司ヶ谷霊園のように有名な方の墓のマップがあるわけでもない
日泰寺墓所で、その場所は分るだろうか?と、案じた。
調べてみると、日泰寺墓所は覚王山の日泰寺あるのではなく、
少し離れた自由が丘に近い辺にあるようだ。
自由が丘なら、本当に高校に通った道の近くなのに、
今日まで全く知らずにいたのだから、
知らないということの浅はかさを改めて痛感する。

Googleマップで見る限り、日泰寺墓所は相当に広い。
あの名古屋の夏の盛りに見つけられるものだろうか。

さらにネットで調べてみて、
「古書の森日記」のこの記事に辿り着いた
→ http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/51698110.html

言うまでもなく「古書の森日記」は、
惜しくも数年前に亡くなった黒岩比佐子さんのサイトだ。
彼女の遺著『パンとペン』は、
大逆事件から治安維持法という長い冬の時代をしぶとく生き抜いた
堺利彦の生き様を膨大な資料を蒐集して甦らせた労作だ。
(黒岩さんとお話する機会を持てなかったのは、私の最も惜しむことの一つだ)
この記事にある橘少年の墓所の写真、
この向こうに映り込んでいる寺院のような建物、これが場所を特定する決め手となった。


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橘宗一の墓石に刻まれた文字 

Mr.M.Tachibana/Born in Portrland Oro /12th 4 1917.U.S.A
吾人は/須らく愛に生べ志/愛は神なればなり/橘宗一

筆者注
「Oro」はたぶんオレゴン州の意味か、オレゴン州の現在の略称は「OR」。

「吾人は須らく愛に生べし」(私たちはぜひとも愛に生きなければならない)
というきっぱりとした呼びかけは、神への篤い思いを感じさせる。
この墓前に跪き祈りを捧げると、その思いが静かに伝わってくる。
丘からの風が緩やかに吹いてくる。


しかし、墓石の裏面を見ると、
あの有名な一句に出くわす。

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「大杉栄、野枝と共に 犬どもに虐殺さる」


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裏面の銘文
宗一(八才)ハ/再渡日中東/京大震災ノ/サイ大正十二年/(一九二三年)九月十六/
日夜大杉栄/野枝ト共ニ犬/共ニ虐殺サル
Build at 12th 4 1927. by S.Tachibana
那でし子を/夜半の嵐に/た折られて/あやめもわか奴/毛のとなり希理/橘惣三郎

筆者注
宗一は数え年でも七歳のはずだがなぜか「八歳」と記されている。
橘惣三郎は橘宗一の父、その詠んだ歌は、
「なでし子を夜半(よわ)の嵐に手折られてあやめもわかぬものとなりけり」と読める。
「なでし子」は、花の「なでしこ」と「愛する子」との掛詞。
「あやめもわかぬ」は、「はっきりと分らない」それほどの酷い状態だったということと、
宗一の母(大杉栄の妹)の名前「あやめ」との掛詞。


「吾人は須らく愛に生べ志」と刻んだその裏に
「犬どもに虐殺さる」、
さらに「あやめもわかぬものとなりけり」と、
「愛でし子」が「あやめもわかぬ」程の「モノ」となって帰ってきたと、
刻印せざるを得なかった思いの無念。

表のあの神の愛への思いがあればこそ、
この裏面の言葉が深く胸に迫ってくる。



「神思うことばのうらに虐殺と刻みし父の思いや如何」


墓前にはかわいい人形が手向けられていた。
僅かな慰めである。
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「橘宗一少年」を思い出させてくれた手紙の主と
黒岩さんに導かれて、ここに来ることができた。
その恩寵を深く胸に刻み、橘宗一少年に別れを告げた。

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黒岩比佐子さんのブログにも引用されていた
佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』の抜粋が一部読めるサイト
→ http://d.hatena.ne.jp/karatedou/touch/20110914

毎年9月15日に開かれている「橘宗一少年墓前祭」(このサイトは2009年のもの)
→ http://irregularrhythmasylum.blogspot.jp/2009/08/blog-post_29.html

橘少年の墓が発見された経緯が記されているサイト
→ http://saluton.asablo.jp/blog/2007/09/16/1801366








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posted by 星跡堂主人 at 21:59| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 名古屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第7回雑司が谷ぞうさんぽ「鎌倉街道から高田富士へ」

6月末に実施した
第7回雑司が谷ぞうさんぽ「鎌倉街道から高田富士へ」の内容と写真が
「雑司が谷ぞうさんぽ」のサイトにアップされております。
御覧下さいませ。
→ http://michikusa-walk.seesaa.net/article/400702874.html

「雑司が谷ぞうさんぽ」は、3.11の後、
改めて、雑司が谷地域の歴史とその良さを実地に歩いてみて
発見していこうとと、始まった「まちあるき」の会です。
posted by 星跡堂主人 at 13:47| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑司が谷 雑司ヶ谷 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする