2014年03月10日

新国立バレエ『白鳥の湖』 2014年2月公演レヴュー〜〜米沢唯の構想力〜〜



新国立バレエ団牧版の『白鳥の湖』は、
数ある『白鳥の湖』の中でも余り見る気のしない版というのは、衆目の一致するところである。

新国立バレエ団が1998年5月に初演した
セルゲイエフ=ドゥジンスカヤ版をベースにしつつ
2006年11月に当時の芸術監督牧阿佐美によって改訂初演されたが、
冒頭でブルメイステル版を取り入れながら、その導線がその後見当たらず
ラストシーンが如何にも旧態だったり、
2008年6月の再演時には、
第3幕のパ・ド・ドゥをカット、改悪したりして、
様々な版の寄せ集めが結果的に統一的な演出(解釈)を失わせている。

この版の致命的欠陥は、
21世紀の今日、19世紀に作られた『白鳥の湖』を改訂するという
ヴィジョンが全く見られないという点だ。
1953年初演のブルメイステル版以降、
クランコ版(1962年)、
ヌレエフのウィーン版(1964年)、パリ版(1984年)という二つの版、
グレゴローヴッチ版(1969年、ロシアンダンスはこの版からヒントを得ているか?)
ノイマイヤー版(1976年)などが評価されてきた
20世紀後半以降の『白鳥の湖』の上演史を考慮せず、
今現在にこの作品を、解釈し再上演する事の意味を、殆ど感じさせない版なのである。

一言で言えば、作品として凡庸で
現代的な知的な興奮や面白さを感じさせない版である。

牧阿佐美の演出振付版では、ご本人も相当に思いを込めたと思われる
『ラ・バヤデール』が一番だと、私は思う。
『ライモンダ』も、日本では他に上演していないという価値はあった。


さて、
こういう難しい版をどう踊るかは、ダンサーにとってある意味その力が試される。
優れた作品なら、その振付通りに演じれば、それなりになるが、
愚作ではそうはいかないし、
バレエ団所属のダンサーはそれを拒否することもできない。
それはある意味で
牧版『白鳥の湖』というロットバルトに、
囚われているオデットのようなものだ。

この愚作からどのようにしたら解放されるのか、
そう思ってみる、まあ、そうしか見る側も楽しみ方が少ない。
だが、見る側も愚作だと思いながらも、
そこにひゐきのダンサーが出るなら、見るしか無い。

愚作につき合うのは、ダンサーも見る側も同じように
今ここの演出、振付の凡庸さを、どのように想像力を駆使すれば
愚作の陥穽から解放されるのかの、試練でもある。
私が見たのは、
小野&福岡(2月15日)、米沢&菅野(2月22日)、長田&奥村(2月23日)の3組である。

小野絢子、福岡雄大
小野絢子は、たぶん不調だったのだろう、前回(2012年5月)ほどの輝きがなかった。
前回は、その特徴である体のラインが美しさを強調していた。
それはある意味で自分の良さをこの振付に流し込むという正当な対応だった。
福岡雄大は、前回とは見違えるほど。
特に彼は昨年末の『くるみ割り人形』の頃から体の動きが一段と制御され
ノーブルになった。古典を踊る場合、これは決定的な事だ。
特にこの牧版の中で唯一の良き特徴と云える(といってもこれは元々の新国立版セルゲイエフ=ドゥジンスカヤ版にあったものだが)1幕のソロ、
ここでの憂いを含んだ静かなダンスは今までの彼には無かったもののように思えた。
しかし、残念ながら、一番最後の弓を持ってターンする所で何故かオケが彼の踊りより速く奏でた、一瞬だが。
なので、彼の憂いが活きなかった。
(バクランと東京交響楽団の音楽は全体に素晴らしかったが、あそこだけはどのダンサーの時ももう一息溜めて奏でてほしかった)
福岡の憂愁は、その後にどう展開したのか、
残念ながらそこは分からなかった。
これは彼の解釈が、この版に拒絶されたのか(特にラストシーン等)、
それとも、彼の解釈がまだ徹底しなかたのかは、分からない。
憂愁を帯びた王子が、どのように「愛」(「男」?)に目覚めて行くのか、
そこの解釈の導線が、見ている私には伝わってこなかった。

最後に見た、長田佳世と奥村康祐は、初役の緊張感からか、
もっとできるはずなのに、ややもの足らなかった。
奥村は、他の日に踊ったパ・ド・トロワは、ノーブルで素晴らしかったし
王子のソロダンスも悪くはないが、その踊りが、全幕の中でどのように位置づけられているのか、よく理解出来なかった。
まだ全幕を通してのドラマトゥルギーを構成できていない。
長田も、彼女の良さが出てない感じだった。
今後に期待したい。


さて、最も出色だったのは、米沢&菅野ペアだ。
それも今回は、米沢唯の構想力が炸裂した。
(2012年5月の初役時にはそこまでではなかった)
以下、
米沢の解釈の導線=作品全体を構想する力を追いながら、
その舞台を再現してみたい。


「構想の導線」ーー「序幕」ーー

既にネット上で多くの方が指摘しているが、
まず、冒頭(ブルメイステル版由来のオデットが白鳥に変えられるシーン)で
米沢唯は、不安感を明確に示し、
窓の向こうに居る悪魔に徐々に体が引きつけられて行く仕草を見事に表現した。
まるで上体が本当に見えない糸で引っ張られるかのように。

これがなぜ出色か。
実は、牧版が基にしたブルメイステル版や
その後に似た演出を取り入れたヌレエフ・パリ版では
ロットバルトの大きな翼に抱え込まれるようにしてオデットは攫われてしまうので、
米沢がしたような仕草は出来ないのだ。
牧版は大きな翼で抱え込むという演出を取らなかった。
悪魔は窓の外に居て、オデットはその窓へと引きつけられていく。

その事に意味を、米沢は見事に私たちに示してくれたのだ。
単なるちょっとした演技といえば、それまでなのだが。
(しかし小野も長田もこうはしていない)

しかも、このロットバルトに引きつけられる動きは
その後、
『白鳥の湖』(2幕の終わりや4幕)では何度も出てくるのだ。
冒頭のちょっとした身体の動きで、
米沢は牧版『白鳥の湖』への構想の導線を示した。
『白鳥の湖』という作品を知っているそれを見る側も、
しっかりと感じ取ることが出来たのだ。
この冒頭の動きから、作品全体が鮮やかにイメージされたのである。

舞台芸術の表現において、版の歴史と特徴を理解しながら
そのイメージを見る側に感じ取らせる。これほど大切なことは無い。
それを冒頭にやられたから、
多くの人はその一つのシーンだけで「わっ、すごい」と感じたのではないか。



「スムーズな美しさ」ーー「第2幕」オデットが舞台に登場するシーンーー 

特に水を落とす仕草など、初役時には、米沢はもっと動物的に動いていたが、
今回はそれほどではなかった。もっと人間的だ。
なので、王子との出会いも、異物に出会うという恐れよりも、
ある種の好奇心のようなものを示していた。
ここで菅野との追いつ追われつの掛け合いは、スムーズでしかも美しかった。
二人の動きが呼応し、かつ技術的にしっかりしていないと、この場面に美しさはでない。
ただの鬼ごっこに見えたりすることさえある。
この二人は既に何度も組んで来て、
ようやくペアとしてのお互いの呼吸が分かって来たのかもしれない。


「静けさを切り裂くポワント」ーー「第2幕」グラン・アダージョーー

このテンポで体をキープしつつ
かつ美しく見せるのは至難の業に思える。
以前よりももっと深く沈潜したようにさえ感じた。
今現在の二人の技術と若さがあるからこそ、可能だったシーン。
そんな動きにうっとりしている中で、一瞬ハッとするところがあった。

アダージョ途中でオデットが、王子から離れ飛び立とうとして捕まり降ろされ、
さらに王子から僅かだが下手前へパ・ド・ブレで逃れる、
その時だ、オデットが音を激しく立てるほど、パ・ド・ブレで舞台にポアントを打ち付けた。
その音が、静かなヴァイオリンとチェロの対話を一瞬にして切り裂く。
何だ?これは??
オデットは王子との間から逃れたい、しかし引き込まれるというアダージョの中で
自分の中のある強い思いに目覚めて来た、
それはまだ意識としてではなく、しかし身体がそう思わず反応してしまったという
そういう激しいパ・ド・ブレの音だったのではないか。
見る側も、その場では何が起こったのかは鮮明には理解出来ない。
しかし、そこにある抗しがたい何かを、オデットと共に感じた。



「遊びをせんとや」というオディールーー「第3幕」ーー

米沢のオディールは、王子を誑かすというよりも遊んでいる。
たぶん、妖艶さというものを出すのではなく、
そうした方が自分には合っていると思っているのだろう。
しかし、その遊びの中の楽しさに王子は次第に引き込まれ
1幕とは全くことなるソロダンスを、王子も楽しげに踊る。
菅野の王子は、米沢の遊びに翻弄されつつ変化していく。

思えば、オディールのヴァリアシオンの曲は、
1895年のマリインスキーでの蘇演時に
ドリゴが編曲した
チャイコフスキーの作品72−12「遊び」(「18のピアノ曲集」)である。

そして、ヴァリアシオンで米沢はさらに遊んだ。
ヴァリアシオン冒頭、米沢は4回転した。(これは初役時からしている)
2012年5月にこれを見た時は余りの事に、一体何が起きたのかすぐには理解できなかった。
4回廻った??
通常は始めに軽く1回転、その後2+2回転が多い。
多く廻る人でも3+3回転だ。

米沢は、最初に4回転してその後2回転した。
まるでフィギュアスケートのようだが、、(^o^)
米沢は4+2を廻った。クワド+ドゥーブルだ〜

その後のグランフェッテのトリプルばかりが注目されるが、
フェッテのトリプルは見た事があるが、
黒鳥のヴァリアシオン冒頭の4回転は、私は見た記憶が無い。
これはやはり凄い事だ。
さらに、上手奥からのパ・ド・ブレの
白鳥ポーズでの深い沈み込みと腕の鋭角的なラインは
(これも初役時からだが)
オディールが人間よりも動物的な戯れをしているようにも思えた。

初役時よりも
オデットがより人間的になった一方で
オディールは、そのヴィルトゥオーサと共に
異界性を保っていた。

米沢唯という人は、もの凄い難しい事をさらっとして、
それで〜〜としている佇まいのある方だが、
このオディールは、まさに技術力で遊び、王子を翻弄した、
そういうオディールだった。




「原初的な、なにものかの湧き上がり」ーー「第4幕」ーー

このどうしようもない「愛は勝つ」みたいな、
いい大人にはリアリティーの全くないラストをどうするのか?
特に、この幕で二人のパ・ド・ドゥがないと、
オデットダンサーは、王子の裏切りをどう許して行くのかのプロセスをとても作り難い。
白鳥のコールが踊り終わると、すぐにコーダに入ってしまうからだ。

オデットは王子を許したということよりも
この人を悪魔から助けたいという思いに駆られていたように見えた。
ある意味で、それは母性に近い、女性的な愛の形。
悪魔が迫り来る中に割って入るオデットには、
王子を許すとかそういう事を考えている暇はない。
そこに、愛した人が危機に瀕しているのを守ってあげたい、
ただそれだけに見えた。

しかし、もちろん悪魔に勝てるはずも無く、、
それを見ていた王子が今度は、オデットを助けねばと奮い立つ。
王子は、そこで初めて「男」に目覚め、
悪魔と戦おうとする。
オデットは王子を守ってあげたいと思い、王子は悪魔と戦う。
もっとも原初的な女と男の存り様を、そこに見たような気がする。
(私は既成の男女という枠組みを越えた何かを『白鳥の湖』で見てみたい。
たとえばヌレエフ版のような。しかし牧版ではそれは無理だろう。)

二人には、男女の愛と一言で片付けられない
もっと原初的な
女として、男としての、何かが湧き出てくる。
その力で、悪魔は湖に沈む。
そのように見えた。

弦楽器のトレモロがクレッシェンドされるなか、
オデットは、次第に、しかしはっきりと目覚め、解放されていく。
米沢唯は、そのようにオデットを演じ、
菅野英雄も、それに応えた、
そういう名演だった。








付記、
主役以外に関して
「コール・ド・バレエ」

コール・ド・バレエは、何を目指しているのか相変わらず不明だった。
これはダンサーのせいではない。
『白鳥の湖』のコールで、マリインスキーやパリオペラ座と対等に渡り合うという気持ちが無い。
渡り合うというのは、同じように競うということではない。
そのバレエ団の所属する団員の身体的特徴に合った美学を、
求めるという意識を感じないということだ。

短いチュチュで、飛翔するかの如き上部への動きを求められる『白鳥の湖』のコールほど
日本人の身体に不向きなものは無い。
ただ揃っていれば良いわけではない。揃っていたってバレエの美学は発生しない。
これは新国立バレエ団が出来た頃からずっと述べているが、
日本のバレエ指導者には、そういう発想自体がないのだろう。
ほとんどが日本人という特殊な特徴を持つバレエ団が、
どのように動けば、美しいコールになり得るか。
レフ・イワーノフが振り付けたとされる従来からの振付を変えてでも、
そこを考えてほしいし、追求してほしい。
それが西欧的な体型とは異なるわたしたちが、バレエ団を持ち
『白鳥の湖』を踊る事の意義ではないだろうか?
それを目指さなければ(すぐには出来なくとも)、
いつまでたっても、西欧やロシアのバレエ団に敵いっこ無い。


「キャラクテール・ダンス」
コールが、今一なのに比べて、
キャラクテールダンスは、私が見た限りではどれも素晴らしかった。
特に、竹田仁美、五月女遥、福田圭吾の「ナポリ」
大和雅美、古川和則の「チャルダッシュ」
本島美和の「ルースカヤ」(パ・ド・トロワが素晴らしかった細田千晶は見られず残念)、
本島のそれは前回よりもずっと、音楽の特徴とあの長いドレスを美しく見せる技を身につけており
うっとりとするほど素晴らしかった。
また、女王役の湯川麻美子も強い演技で印象的だった。






posted by 星跡堂主人 at 17:10| 東京 ☀| Comment(2) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする