2014年01月19日

金子直コ (かねこなおのり)ーー「雑司が谷」研究の先達ーー 覚え書き


金子直コーー寛延3年(1750)〜 文政7年(1824)ーー
明和年間から天明、寛政を経て化政年間まで
雑司が谷に居を構えた俳人、法華宗の大檀越。

幼名は竹次郎、成人してからは民次郎、貞次郎、理平次。
諱は直コ、後に眞コ。
号に宗周、杲山、兎丸、一相、白馬山人、紫磨子( しまし ) 、紫麻子。
家号は檟下舎(かげしゃ)、棣棠郷(やまぶこのさと)、重陰庵(ちょういんあん)など。
(「直徳」は図書館検索の多くで「ただのり」と読ませているが、
雑司が谷では「ただのり」と読むことはなく通常「なおのり」と読んでいる。)

金子直コ 事績年表
→ 金子直徳 年表.pdf

金子直コ 書誌年表
→ 金子直徳 書誌.pdf



(1)大田南畝との交友

金子直コは、大田南畝ー寛延2年(1749)〜 文政6年(1823)ーとほぼ同年を生きた人物で
牛込台に住み高田、雑司が谷にもよく遊んだ南畝とも交友があった。
(『鬼平犯科帳』のモデルとなった
長谷川宣以ー延享2年(1745年)〜寛政7年(1795)ーとも同時代人である。)


南畝が天明8年(1788)に刊行した
『高田雲雀』拾遺、
付記の稿(主に高田の地誌と大行院所蔵の小幡勘兵衛像、杉山日鑑像について記載されてる)は
直コから聞き書きして、補訂したと記されている。
早大図書館蔵本
→ 「http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_03797/

寛政年間に直コは主著『若葉の梢』(上巻寛政4年下巻同10年刊)を上梓するが、その序文に大田南畝の求めに応じて高田、雑司が谷の地誌をまとめたと記している。
南畝自身も『高田雲雀』の内容では不足であり、
それを大幅に増補するのは、金子直コをおいて他に無いと思ったのだろう。

 

(2)日蓮宗の大檀越

大田南畝が幕府御家人で様々な趣味人であったのに対して、
金子直コは、材木商で財を成し、それをもとに
雑司が谷他の法華宗寺院への寄進したり寺を再興した
大檀越という側面も強く持っている。
それを考えると、
直コの雑司が谷周辺の歴史への興味も、法華宗信仰の延長線上としてあったのではと思われる。

天明8年(1788)に雑司が谷鬼子母神前にある
本納寺に寄進した「三光天像」
→ http://www.honoji.or.jp/s_sankou.html

また、
雑司が谷鬼子母神から法明寺へと下って行く路の交差点には、
(場所B地点→ http://goo.gl/maps/k19ik
晩年の直コが建てた文化8年銘(1811)の
大きな題目塔が今も遺っている。

IMGP1658.JPG


この題目碑の側面に、
「当山三十四世大行院日樹」に依頼され
直コが法明寺の由来を記した。
雑司が谷法明寺が『吾妻鏡』に記載される「威光寺」で「源家祈禱所」であると記されている。
IMGP1558.JPG


しかし現在の考証ではこれは誤りとされている。
既に天保年間に『櫨楓』(はじかえで)を著した
雑司が谷の旧家の戸張苗堅は、この法明寺の由来記は
土地に伝わってきたものではなく、直コの創作だと批判していた。

IMGP1652.JPG

題目碑裏面に「金子小平次眞コ」と見える。
この塔は直コが還暦を迎えて発願したので、
還暦を機に「眞コ」という名も使ったのだろう。


直徳は、従来、雑司が谷では鬼子母神が中心と考えられていたのに対して、
法明寺を歴史的文脈に位置づけ、雑司が谷の価値の中心と据えよう意図していたのかもしれない。
また、この石碑の下(中)には銅板製の直コの祈願文があるとされている。

この題目塔の祈願文を『新編若葉の梢』(『初日山大日天堂妙法生寺伝記』に依る)から引用すると、
===================================================
南無妙法蓮華經 
久遠梵聲者、薩達摩分陀利迦蘇怛攬、今唐語譯音、妙法蓮華經、末法廣布七字題目、信為本尊、云々 東都雜司谷威光山法明寺寺門碑石ノ造立四聖六道、先祖法界、平等普利供養塔也、此妙塔成意趣、有元来一大願、曰宗祖大士三ヶ御遺教、日向承之、不至時而未成聽之年久、卽依之、身延山祖師堂常經講結、旣三萬部成就砌、奥ノ院建高三丈有餘ノ妙塔奉供養久遠佛滅後、末法流布ノ題目者、三寳三世十方分身佛四大士諸菩薩諸天番神等、奉謝大慈大悲ノ冥利報恩ノ微意ニ而、寛政三辛亥四月八日供養、九月説法アリ、是則、御遺示ノ其一を令成就處也、第二者、三大秘法ノ要尋、其不二ノ妙地、二十年漸得本國土妙、從是至文化五年辰十月再興願爲公訴時、因故障、又二十年我老衰六十二、露命難計、故一天地無二ノ妙地不偲拾、來歴書五巻本尊二幅佛像三體、家藏而待正時信聖也、此地、夫上總國夷隅郡麻綿原初日山大日天堂、高祖大士、宗建四格發聲ノ本國土妙ニテ、法門戒壇三秘一會ノ大靈場、大千世界最上ノ法地是也、故黄道正帯、寒暑ノ中、眞東頭最第一度、大乘妙國ノ日本出初照ノ地二、日光長點ノ妙法ヲ日種尊、敕上行菩薩、五々正中二、再誕日蓮大菩薩ヲ於此地、久遠塵點、三世諸佛ノ本懷ヲ開建シ、普ク十方法界ヲ救護シ給フ處也、此念願成就。妙法塔ヲ今生是其時ヲ奉所者也、
文化辛未九月廿五日建         妙法生主杲山一元謹書
赤胴板、此祈願文ヲ書テ塔の臺ノ石二納、裏二題目入記之、土用同刻二入ト也、幼名竹次郎、次に民次郎、貞次郎、又理平次と改名、

====================================================

(3)金子直コの出自

ところで、
直コの出自にはいくらか謎がある。
直コの父、車屋小平次は中山道沿いの宿場蕨の出身で
江戸に出て苦労して車屋を営んでいたとされるが、
『若葉の梢』を現代語に翻刻し直徳の事績を研究し
『新編若葉の梢』(1958)を著した海老澤了之助の調査によると、
蕨の金子家は、蕨を開拓した金子馬之助家忠を祖とする旧家で、
日蓮宗の菩提寺本法院には古い墓石が多く見られたらしい。

金子家忠が蕨市を開いたと説明する蕨市公式HP
→ http://www.city.warabi.saitama.jp/hp/page000001000/hpg000000973.htm
金子家忠について詳しいブログ
→ http://ckk12850.exblog.jp/5971585
本法院と隣接の春日社について紹介している蕨市のサイト
→ http://www.city.warabi.saitama.jp/hp/page000001400/hpg000001381.htm
蕨に現存する「金子塚」を紹介しているブログ
→ http://paralleli.life.coocan.jp/kofunblog2/?p=1987


なので、直コの父は相当な家出身とされているのだが、
一方で直コ自ら父小平次についてこのようにも記述している。
「賭博を好、裸にて年中くらせり。車を曳(く)を此の地の業とす。」
また恥辱を受けたら「其の怨に報づるに義を以し」と
手下と共に仕返しに殴り込みに行ったとも記されている。

海老澤了之助も、法華信仰の篤い文化人直コの父が、
本当にこういう人物なのか?と疑問をもったのかもしれない。
『新編若葉の梢』には、
雑司が谷の旧家宮城家の過去帳から
車屋小平次に養子として入った人物があることを示し、
これが直コその人かもしれないと、一考を案じている。

鳶が鷹を生んだのか、
それとも旧家からの養子だったのか、
父金子小平次と直コの関係の謎は遺る。
(勿論、江戸期には養子はごく普通にあったことで
養子だから親子関係が異なるという感覚は今ほど無かったと思われるが。)

直コと父小平次が建てた
雑司が谷本浄寺境内に遺る「宗祖五百遠忌報恩供養塔」 安永九年銘(1790)
IMGP1854.JPG


IMGP8283.JPG


本浄寺は、金子家の菩提寺でもあったらしいが、
今は墓所は遺っておらず、この供養塔だけが建っている。


IMGP1828.JPG

台座には「発起 金子民次郎 金子小平次」 とあり、横には「金子登世女」ともある。
「登世」とは同じ年に直コが身延山に寄進した大相輪塔の背面下段銘文に
金子理平次 同 妻 登世女」とある、直コの妻と思われる。


父との関係がどうであったかは別として
直コと父小平次が共に、法華宗の篤い信徒であったことは間違いなさそうだ。



(4) 俳人としての直コ

さて、
文献上に、直コの名が初めて見られるものは、
天明4年(1784)に刊行された俳諧作法書『杉家(風)俳則』である。
このとき、直コ35歳。
直コの俳諧の師は二世白兎園宗端で、
白兎園は、芭蕉の弟子杉山杉風を受け継ぐ一座である。
二世は、水戸藩士で広岡戸太夫、目白台に居を構えており「白眼臺」とも号した。
墓所も金子家と同じく雑司が谷本浄寺にあったが、現存しない。
金子家の墓所が本浄寺にあったのも二世との縁かもしれない。
直コの主著『若葉の梢』の題も
二世の「雑司ヶ谷目白高田の若葉かな」によっている。

杉山杉風について詳しいブログ
→ http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/sanpu.htm
→ http://www.sakanaya.co.jp/history/03_07.html
→ http://www.bashouan.com/pfSanpuu.htm
白兎園宗端
→ http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/souzui.html
二世白兎園宗端
→ http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/jousyuu0.html


『杉家(風)俳則』
上巻は二世の『杉風随聞抄』から抜き書きしたものを直徳が補訂、
下巻は俳諧付け合いの指南書として直コが新たに選定したものである。
早大図書館蔵本
→ http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko18/bunko18_00606/index.html



直コは、
他に目白富士見茶屋を顕彰した選集『富士見茶家』(刊行年不明)を選んでいる。
早大図書館蔵本
→ http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_04939/index.html

さらに句碑などをいくらか建立しているが現存するものは2つのみである。
目白の富士見茶屋には、文化7年(1810)に
芭蕉の「目にかかる時や殊更五月富士」の句碑を建てた。
これは学習院内に現存している。
→ http://news.livedoor.com/article/detail/6362242/


鬼子母神出現の地である清土お穴の鬼子母神には
文化9年(1812)に
芭蕉の「此道に出て涼しさよ松の月」の句碑を建てている。

IMGP1701.JPG

句碑は、現在「星蹟」の井戸(屋根で覆われた下に三角の井戸がある)のすぐ横にある。



IMGP1697.JPG

筆跡は直コ自筆と云われている。


背面に「文化九年壬申九月」の銘と直徳の俳号「杲山一元」とみえる。
IMGP1699.JPG



お穴の鬼子母神堂
IMGP1705.JPG


寛政3年(1791)には関口芭蕉庵に
師二世宗端の遺志を継ぎ風羅堂を建立しているが、
残念ながら、これは現存していない。


(5) その他の著書

法華宗関係の著書

・『甲州路諸霊場 延嶺往詣順導記』 天明8年(1788)
  ( こうしゅうじしょれいじょう えんれいおうけいじゅんどうき )
  江戸雑司谷車屋小平次蔵版(早大図書館蔵) 
→ http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ha04/ha04_02722/index.html

・『身延往詣金地順尊記』  天明8年(1788)
  ( みのぶおうけいこんじじゅんそんき )(玉川大学図書館蔵)

・『上総国夷隅郡麻綿原初日山大日天堂妙法生寺傳記』 文政6年(1823)
 (かずさこくいすみぐんまめんばらはつひさんみょうほうしょうじでんき)
  建長5年(1253)に日蓮が朝日に向かい「南無妙法蓮華経」と初めてお題目を唱た地にあった
  寺を直徳が再興した際にに記した縁起の一部
 (千葉県勝浦町龍蔵寺蔵、第四、五巻のみ現存)  

・『増補紺園順導記 東江都鄙五百余寺房総霊場之行程略』
  ( ぞうほこんおんじゅんどうき とうこうとひごひゃくよじぼうそうれいじょうのこうていりゃく )
 (無窮会神習文庫蔵)



『若葉の梢』の諸本
(『新編若葉の梢』1958年当時のまとめによる)
・若林鶴雄旧蔵本 善本だったが紛失。

・兜木正亨旧蔵本 宮城寛太郎所蔵本が兜木正享に寄贈され現在は早稲田大学図書館所蔵を確認。
『若葉の梢』(和佳場の小図絵)
早大図書館蔵本→ http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_04407/index.html

・上野図書館所蔵本 現在国会図書館が所蔵しているものと思われる。

・日比谷図書館所蔵本 『新編若葉の梢』編集当時、図書館整理中のため見られなかったとある。海老澤了之助によれば、挿絵も多く金子直コ自筆本ではないかとしているが、現在日比谷図書館にはなくどこにあるか不明。

・都政資料館所蔵本  現在、東京都公文書館が所蔵しているものと思われる。 
「市史編纂室蔵書」ラベルあり。「市史編纂用典籍記」「東京市史編纂委員会印」竪帳(東京市写本)

これら以外に、
現在、私が確認したものに武蔵野市中央図書館が所蔵している
版本「和歌葉之小圖画」2巻本がある。
これが以上の諸本と同じものか別系統のものかは調査中だが、
この本は、挿絵等綺麗な状態で残っている。
兜木正亨旧蔵で早大図書館に寄贈した本と、同じ系統と思われる。


一方、
現在「国文学研究史料館」のデータベースによれば、
さらに多くの諸本が見られる。
これらは大まかくまとめると、
三冊本、二冊本、一冊本とあるようだ。

・三冊本系(これは「文化八年」の増補『若葉抄』と同じ系統)
 ・大東急文庫蔵本(目録に「増補本」とある)
 ・無窮会神習文庫本 → http://www.mukyukai.jp/lib/index.html
 ・学書言志軒本(関西大学図書館)
 ・東京大学図書館本(六册本とあるが三冊本の分冊か)

・二冊本系
 ・早稲田大学図書館本
 ・東京大学図書館本(東大は六冊本と二冊本の両方を蔵書)

・一冊本系
 ・国会図書館本
 ・東京博物館本(江戸末期写本)
 ・東京都公文書館本
 ・大東急文庫本(江戸末期写本、東急も三冊本と一冊本の両方を蔵書) 

このうち、
国会図書館、東大図書館、早大図書館、大東急文庫の本は、閲覧した。

その結果、
・『若葉の梢』増補版六冊本の『若葉抄』
国会図書館、東大の六冊本や他の三冊本も全て文化八年(1811)の増補本『若葉抄』で
同系統の本と思われる。
この『若葉抄』は、『豊島区史 資料編三』に抄録されている。

国会と大東急の一冊本と、東大、早大、武蔵野中央の二冊本も
同じ系統のもので、これが初版の『若葉の梢』と思われる。

現在、その後の調査も続けている。

その他の著作
・『雑司ケ谷里諺 』( ぞうしがやさとのことわざ ) 「紫鹿の子直徳」と記されている。
(岩瀬文庫蔵 写本) 『豊島区史 資料編三』に翻刻





参考文献
・『新編 若葉の梢』 海老澤了之助 編(1958年)

・『雑司谷若葉集』 (1939年)
http://ouraiza.exblog.jp/6989254/

・『續雑司谷若葉集』 (1940年)
http://ouraiza.exblog.jp/11071428/













posted by 星跡堂主人 at 14:26| 東京 ☀| Comment(0) | 雑司が谷 雑司ヶ谷 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする