2013年11月11日

新国立バレエ団「火の鳥」によせてー「優雅な冷たさ」ー 〜米沢唯、手塚治虫、ノラ・ケイ、三島由紀夫をめぐって〜

新国立バレエ団の今シーズンの開幕を飾るバレエリュス、三本立て、
今シーズンからプリンシパルに昇格した米沢唯が、産經新聞の取材で
「火の鳥」の役作りに関してコメントしている。

その中で、手塚治虫の『火の鳥』に言及して
「人を破滅させる力すら持つ、不死鳥のイメージです。今までははかなげな役が多かったので、力強い新たな顔をお見せしたい」と、役作りの方向性に影響を受けたことを述懐している。
→ http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131027/ent13102713210007-n2.htm



米沢唯が影響を受けた手塚の「火の鳥」について
手塚治虫自身は、そのエッセイ「『火の鳥』と私」(1969年12月、初出の文章)で以下のように述べている。
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  昭和二十九年に『漫画少年』に連載していた「ジャングル大帝」が無事に完結して、そのあとどういうものを描いたらよいのか迷っていたときでした。
 ぼくはある劇場で、ストラビンスキーの有名なバレエ「火の鳥」を観ました。バレエそのものももちろんでしたが、なかでプリマバレリーナとして踊りまくる火の鳥の精の魅力にすっかりまいってしまいました。
 火の鳥の精は、悪魔にとらえられた王子を救うために、出発する王子の案内役をつとめる鳥で、ロシアの古い伝説なんだそうです。その情熱的で優雅で神秘的なこの鳥は、レオに匹敵するドラマの主人公として最適のように思えました。
 そういえば、どの国にも、火の鳥のような不思議な鳥の存在が伝説としてのこっています。蓬莱山伝説にあらわれるホーケーという鳥、あるいは不死鳥とよばれている一連のいいつたえなどに、なにか超自然的な生命力の象徴を鳥の姿に託したような感じがします。
 どんなに歴史が移り、時代が変わっても、常に冷静に人間をみまもっている。それは「ジャングル大帝」の主人公が全部死んでしまったあとでも、依然として変わらぬアフリカの自然のように、物語の象徴として絶好なものでした。

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昭和29年(1954)に手塚が観たバレエ「火の鳥」とは、
小牧バレエ団にゲストとして来日していた
ノラ・ケイ(Nora Kaye)の踊った火の鳥だと推測される。

実は、この公演は日本に於けるバレエ「火の鳥」の初演だった。
この時のプログラムは、アントニー・チューダーをノラ・ケイと共に招くことで
チューダーが振付、初演時(1940年)にノラ・ケイが「愛人」を踊り、
後の1943年に主役キャロラインを踊って絶賛された名作「ライラック・ガーデン」と、
この来日公演のためにチューダーが振付けた「カフェ・バァ・カンカン」の三本立て。


当時、トキワ荘の手塚の部屋に入居することを願うために、
手塚が執筆していた飯田橋の学童社を訪ねた藤子不二雄Aは
昭和29年10月4日の日記に次のように記している。
「三時、先生(注、手塚)一段落つき、ノラ・ケイさよなら公演にいくため、
どれ、と立ち上がった折り、一気呵成にお願いする。『トキワ荘に入らせて下さい。よろしくお願いします。』」

藤子不二雄は、手塚治虫がノラ・ケイの公演を見るために仕事を打ち切ったその時に
トキワ荘への入居を勇んで頼んだわけだが、(この後手塚のトキワ荘の部屋の後がまになる)
この記事から、
手塚治虫が、昭和29年10月4日のノラ・ケイの公演に行ったことがはっきりする。
この10月4日の公演は、
この年に行われた小牧バレエ団とノラ・ケイの公演の最終日にあたる。


ノラ・ケイは、前年の昭和28年(1953年)にポール・シラードと共に初来日。
11月10日の宝塚大劇場での公演を皮切りに25日の日劇まで小牧バレエ団と
『ジゼル』の全幕を踊っていた。
(『ジゼル』全幕は前年の1952年7月15日に松尾明美バレエ団によって日本初演されている)
それが大変好評だったため
翌、昭和29年には、アントニー・チューダーと共に来日。
まず7月29日〜31日までの「歓迎公演」で
『白鳥の湖』全幕を日比谷公会堂で小牧バレエ団と上演、大好評を博した。

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ノラ・ケイの白鳥、王子は小牧正英


ノラ・ケイの詳しい経歴に関してはこちらを参照されたし。
→ http://zoushigaya.seesaa.net/article/380249357.html


『白鳥の湖』全幕から一ヶ月後、
手塚が見たと思われる
「火の鳥」、「ライラック・ガーデン」、「カフェ・バァ・カンカン」の三本立てを
8月25日〜30日までの8公演を日劇で
大阪北野劇場で9月13日〜17日までの7公演、
東京日劇に戻っての9月30日〜10月4日までの7公演を行った。

東京に戻っての9月末から10月の公演は、
「送別公演」と銘打たれていたので、
「ノラ・ケイさよなら公演」と手塚は云ったのだろう。

藤子不二雄の日記に出てくる10月4日は、この最終日にあたり、
15時からのマチネと19時からのソワレと二公演行われているが、
手塚は「三時」に仕事を止めたのだから当然ソワレに行ったはずである。


所が、この「送別公演」では、「火の鳥」は上演されていない。
「火の鳥」の代わりに、
「ドン・キホーテ パ・ド・ドウ」と
7月に上演されて好評だった『白鳥の湖』の第二幕に差し替えられていた。
とすると、
手塚は8月末の公演にも行って「火の鳥」を見たと、推測される。


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小牧バレエ団公演「火の鳥」(1954年)
ノラ・ケイの火の鳥に小牧正英の王子



8月末の三本立てのプログラムに関して
音楽・舞踊評論家の英文学者牛山充(1884〜1963)がレヴュー(「音楽新聞」578号)を書いている。
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名振付家アントニー・チューダーを招き、その名作として知られる『リラの園』と、新たに振付けをして日本で世界初演を行う『カフェバー・カンカン』の主演者として再度ノラ・ケイの客演を得た上にディアギレフのバレエ・リユスが一九一〇年のパリ公演にオペラ座で世界初演をしたストラヴィンスキーの出世作『火の鳥』にもノラ・ケイを主演者とした三本立ての今回の公演は、綜合的にその挙げた直接の成果と何といってもバレエ史上、殊にその音楽面から見て大切なのはストラヴィンスキー作曲、フォーキン振付による『火の鳥』で、ディアギレフのバレエリユスの初演当時からの評判を耳にしているファンにとっては興味の大半がこの一作にかかっていた。それだけに装置や演出の細かい点では日劇の舞台機構その他の制限からか、私共の期待に反したところが一再に止まらない。妖怪変化の怪奇さが不足したり、当然かもし出される雰囲気や、劇的緊張が感じられない不満はあった。
 しかし、ノラ・ケイの火の鳥はさすがにあざやかなもので、小牧の王子とのパ・ド・ドゥーとヴァリアシオンや、金の羽を与えて一旦飛び去った後、王子の危機を救いに来てカッチェイとその部下の妖怪変化を目まぐるしい踊りの興奮に捲き込むアレグロの表現には我国の若いバレエ人を教える多くのものがあった。

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三作品の内、バレエリュスへの思いから「火の鳥」への期待が最も大きかったと記されている。
しかし、舞台の出来は批評家を落胆させている。
ただし、ノラ・ケイの踊りに対しては、
「王子の危機を救いに来てカッチェイとその部下の妖怪変化を目まぐるしい踊りの興奮に捲き込むアレグロの表現」と、高い評価がされている。

手塚の記憶に残っている
「プリマバレリーナとして踊りまくる火の鳥の精の魅力にすっかりまいってしまいました。」は、
妖怪たちの中で踊りまくるノラ・ケイの火の鳥の姿だったに違いない。


この公演での評価は「ライラック・ガーデン」が最も高かったようで
「毎日新聞」での舞台評を書いた光吉夏弥は、
(「ひらかれた新生面 ノラ・ケイ、チューダー、小牧バレエ公演 1954年8月27日付)
「ライラック・ガーデン」を「これほど的確に『動き』に浸みこまされ、
人間の踊りのことばによってかくも鮮やかに描き出されるということは、
バレエの新しい次元をひらいたこの作品の活気性を誇らかに立証するもの」と絶賛している。
「火の鳥」に関しては
「ノラ・ケイはクラシックの踊り手としてのケンランさを示す。
魔物たちの踊りが散文的な点をのぞいては、決して悪い振付ではないが、
このバレエ作品として持っているイデアが、もうぼくには時代を過ぎたもののように思える。」と評していて、
牛山と同じように舞台全体の出来としては今ひとつだが、
ノラ・ケイの火の鳥の「ケンランさ」には驚嘆している。



この時の「火の鳥」は、
1945年3月の上海バレエリュスでの
「火の鳥」(ニコライ・ミハイロヴィッチ・ソコルスキ振付)に参加した
小牧正英がその公演に基づいて振付たものだった。
演奏は、渡辺暁雄指揮の東京フィルハーモニー交響楽団。


小牧自身は「火の鳥」について
「『火の鳥』以前にはあのようなものはな、音楽そのものが従来なかった。
近代的というか現代的というか、新しいものでそういうバレエ音楽はできなかった。」
(『ペトルウシュカの独白』1975年)で述べているが、
小牧の考えていた音楽の近代性や演出は、十全には表現できず観客には伝わらなかったようだが、
ノラ・ケイの踊った火の鳥だけは、その鮮烈な印象を日本の観客に与えた。



所で、
同公演のパンフレットに三島由紀夫が「ノラ・ケイ礼賛」という一文を寄せている。
三島は前年にニューヨークでノラ・ケイが踊ったジェローム・ロビンスの「檻」も観ているのだが、

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 それにしても、伝統的な技術の十分なデッサンの上にノラ・ケイの「檻」や、今度上演される「ライラック・ガーデン」のような新しい破格の試みが花をひらいたことだけは、疑いを容れないところで、日本の新らしい、踊り手が無理に背伸びしたモダン・バレエの創作に熱中する前に、「ジゼル」第二幕や「白鳥の湖」のノラ・ケイを見ておくことは、少なくとも心胆を寒くさせられる効果だけはあつたにちがいない。
 大体バレエはフランスで発達したあらゆる芸術と同様、技倆(メチエ)と仕上げの巧みさ、とが、ほとんど芸術そのものと見なされるくらい、技術的巧緻の上にたたねばならぬ。ここにメチエという中には、役柄の把握も、舞台の雰囲気の醸成も、あらゆるものを含めている。しかるに日本的精神主義は、ともすると「熱と誠」でもつて、何でも押しとおせるという錯覚に、われわれを陥らしめる。バレエの習得には、もちろん熱と誠も必要であるけれど、日本人の演じるバレエを見るときに、いつも私が歯がゆく思うのは、真の技術家の冷静さの欠如である。おそらく真のバレエ精神と日本的精神主義とは、氷炭相容れぬものかもしれないのである。
 ノラ・ケイは冷静そのものだ。白鳥のあの冷たい優雅は、これを書いている今も、まだ目前に揺曳している。先年の「ジゼル」第一幕の熱情的演技の失敗のごときは、この冷たさが、村娘ジゼルの純情を、人工的なものと見せたところにあるのだろう。

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三島は、
前年の『ジゼル』について別の文章(「ノラ・ケイの公演を見て」昭和28年1月16日)で
「ノラ・ケイの舞台は緊張感のある清爽なものだつた。『ジゼル』第一幕では、何だかマリオネツトを見るやうで、すべて外面的な気がして、もう一つつかめなかつたが、第二幕でヴィリになつてからは、殊に幕切れ近くの別離の優婉さに感心した。能の鬘物をこの人に見せたいと思つた。」と述べている。
また、ダニロワと比較して
ダニロワは「全てを超越した古典バレエの精の如き気品と優雅の化身である」が、
ノラ・ケイの「身辺には現代の騒音が渦巻いており、彼女の美は、幸福な過去の残像というよりも、現代に抵抗する緊張をあらわしている。」とも評している。


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小牧バレエ団公演『ジゼル』第2幕(1953年)
ノラ・ケイのジゼルにポール・シラードのアルブレヒト


三島の見た、ノラ・ケイは、「技倆(メチエ)と仕上げの巧みさ、とが、ほとんど芸術そのものと見なされるくらい、技術的巧緻の上にたたねばならぬ。ここにメチエという中には、役柄の把握も、舞台の雰囲気の醸成も、あらゆるものを含めている。」を体現した「あの冷たい優雅」と「緊張感のある清爽」だった。
その技倆(メチエ)を前提として、しかしそれとは異なる、
彼がニューヨークで見たロビンスの「檻」の現代性をも表現する、
純粋に古典的なダニロワとは異なるノラ・ケイでもある。
この両面性に三島は感嘆しているのではないだろうか。


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ロビンスの「檻」を踊るノラ・ケイ(1951年)




それが如何なるものか、
数少ないノラ・ケイの映像から見てみよう。
ノラ・ケイがマリー・タリオーニ役を踊っている「パ・ド・カトル」(1960年4月)
(アリシア・アロンソがグラーン、メリッサ・ハイヅンがグリジ、ミア・スラヴェンスカがチェッリート)
http://www.youtube.com/watch?v=SPugalZ9S_A&list=FLA4xnoi-izE7Fii4iIT18QQ&index=2


この映像は既に全盛期を過ぎているのだろうが、
アロンソと比較しても、三島が述べている
彼女のダンスからは「冷たい優雅さ」が伝わってくる。
この冷たさがバレエの本質だと三島は述べているが、
その中にバレエの伝統と、またその先に生じている現代性も見て取っている。

手塚の見たノラ・ケイの「火の鳥」も、
単に圧倒する「情熱的」だけではなく「優雅で神秘的」であったわけで
手塚治虫も、
三島の感じ取った「冷たさ」「冷静」の中に
「どんなに歴史が移り、時代が変わっても、常に冷静に人間をみまもっている」
火の鳥の大きさを、ノラ・ケイのダンスから感じ取っていたに違いない。


手塚治虫、三島由紀夫が見て取った
ノラ・ケイのダンスとは、そのようなものだった。
とすると、
冒頭で紹介した、新国立バレエの米沢唯が述べている
「人を破滅させる力すら持つ、不死鳥のイメージです」にも、
バレエの伝統と現代性が合わせ持った
「優雅な冷たさ」が、どこかに反映されねばなるまい、
バレエが、今も「バレエ」である限りは。

それを、米沢唯がどう踊るのか、
とても楽しみである。









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「火の柱」(1942年)ノラ・ケイとポール・シラード































posted by 星跡堂主人 at 23:23| 東京 ☀| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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