2013年11月24日

上野〜谷中〜雑司が谷 さんぽ


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芸大美術館へ行く途中、
いつも前を通るだけで中に入っていなかった
国際こども図書館へ。
http://www.kodomo.go.jp
ここはかつての帝国図書館、明治39年(1906)に建てられ、
その後、昭和初期に左のファサード部が増築されている。



3階まで吹き抜けになっている内部の階段も美しい
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展示室(本のミュージアム)の壁と天井

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そこへの入り口が興味深い

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かつての外壁部分の外側を覆い廊下を付け、
窓の一部を入り口に改造しているのだ。
こういうリノヴェーションは珍しいのではないだろうか。



その後、
芸大美術館で山田寺仏頭を拝見。
仏頭の位置がかつて全身があったであろうその位置にあったので、
こんなお姿だったのかと、想像出来て良かった。

十二神将もそれぞれ個性があって、
特に口を開け遠方を眺めている毘羯羅大将が剽軽で愛らしかった。
摩虎羅大将の斧にはハートマークが空いていた、(^o^)

深大寺の釈迦如来倚像もいらしゃり、
これが如何にも端正な白鳳仏そのもののお姿で美しい。
かつては、まさに十二神将で有名な奈良の新薬師寺にあったとも。
→ http://jindaiji.sakura.ne.jp/home/jindaiji/jindaiji202.html


芸大の美術館を出ると
お庭には、巨大な樹がそびえ立っている。

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よ〜く見ると、巨大な幹はほとんどうろになっており
周囲を根のような枝のようなものがぐるぐると絡み付いている。

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まさに、ご神木の風格で、
ここに来るたびに、思わず手を合わしたくなる。
槻には見えないが、椎だろうか?


ここに来ると、その後は、
桃林堂で季節のお菓子を戴き、
http://www.tourindou100.jp/tenpo/toukyou_tenpo/ueno_shop.html
カバヤ珈琲さんでルシアンカフェとサンドイッチを食べる。
http://taireki.com/kayaba/

その後、谷中霊園へ
途中で豆大福の岡埜栄泉にも立ち寄り、、、(^o^)
http://www.wagashi.or.jp/tokyo_link/shop/1219.htm



で、漸く谷中霊園へ
ここは、雑司ヶ谷霊園に比べると、
石仏は少ない。
下町から移された江戸期の墓所が少ないのかもしれない。

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しかし、丸彫りの立派な仏様もいらっしゃる。
お顔立ちから江戸初期のような雰囲気もあるが、
銘が無いので分からない。



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こちらは、明和、安永の年号が刻まれている。
この時代にしては、やや現代風なシャープなお顔立ち。
家紋が光背のように入っているのも、珍しい。




歩いていると、こんな立て板も、、、

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雑司ヶ谷も猫が多いが、そのうちこんな嫌な立て板が立つのだろうか、、、
管理事務所はきっと猫が多くなって困っているのかもしれないが、
何とも残念、、、もう少し何か知恵を出し合えないものだろうか。


谷中霊園の端、幸田露伴旧宅跡辺を曲がると、
最後のスイーツ、ショコラのお店に出るが、
http://www.inamura.jp
その近くに

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美しい窓のファサード、良い建物だなあ。
こういう建物が今はどんどん無くなり、
詰まらないビルばかりになっている。



日暮里から大塚、都電で雑司ヶ谷へ

都電の電停から雑司ヶ谷霊園に入る入り口の横に
石仏が出迎えてくれる。
よ〜く見てないと気づかないが、フェンスの向こうに二体、いらっしゃる。

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元禄十三年(1700)銘の観音菩薩像






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黄葉が美しい頃になってきた。

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この時期から初冬にかけては
山茶花もよく咲いている。

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最近、案内板が出来た
聖心学院の墓所

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霊園を出て、南へ
宣教師館のある辺へ通じる路地も秋色だ。


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来週の土曜日
11月30日に雑司ヶ谷霊園を歩く「ぞうさんぽ」を開催します。
詳しくはこちらの「ぞうさんぽ」ブログをご覧下さいませ。
→ http://michikusa-walk.seesaa.net/article/379025803.html










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posted by 星跡堂主人 at 23:49| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 le Journal | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月15日

日本で「火の鳥」を初めて踊ったダンサー ノラ・ケイ(Nora KAYE)

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1954年の小牧バレエ団公演のパンフレットに掲載されていた
「ライラック・ガーデン」の写真


ノラ・ケイの若い頃のこんなプラーヴェート映像がある。
ニューヨークで1948年に撮られたもの。
http://www.youtube.com/watch?v=sU_1LsIPFXs&list=FLA4xnoi-izE7Fii4iIT18QQ&index=1

3分くらい経過した所で、
ショートカットの女性が街角を歩いてくる、これがノラ・ケイだ。
その後、眼鏡をかけてやってくるのは
当時既に「欲望という名の電車」で評価されトニー賞を得ていた女優ジェシカ・タンディ、
ジェシカをエスコートしているのが夫ヒューム・クローニン。
ノラとジェシカ、二人がたわむれに踏むステップが愛らしい。
http://www.youtube.com/watch?v=sU_1LsIPFXs&list=FLA4xnoi-izE7Fii4iIT18QQ&index=1


小牧正英も述懐しているが、
ノラ・ケイは、とてもさばけた現代的な女性だった。
その印象がこの映像からも伝わってくる。
この年、彼女はアグネス・デ・ミルの「フォールリバー伝説」を踊り
ドラマチックダンサーとしての名声を更に高めていた。


ノラ・ケイの経歴
1920年にニューヨークで生まれだが、両親はロシア人。
本名は Nora Koreff 。
父はあのスタニスラフスキー・システムのモスクワ芸術座の俳優で、
ノラ・ケイの「ノラ」は、イプセンの『人形の家』のヒロインに因むらしい。
彼女も最初は女優を目指したが、
スクール・オブ・アメリカンバレエで、ミハエル・フォーキンの薫陶も受けた。


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ノラ・ケイの踊る「ペトルウシュカ」の踊り子


1935年15歳でバランシンのアメリカンバレエにコール・ド・バレエとして入団。
1937〜39年にはブロードウェイのミュージカルにも参加。
1939年19歳の時、バレエシアター(後のABT)の創立とともに参加。
1942年チューダーの『火の柱』のヘイーガー(Hagar) 役をクリエーション(初演キャスト)して注目される。

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ポール・シラードと共演した「火の柱」(1942年)


1948年アグネス・デ・ミルの『フォールリヴァー伝説』の被告人をクリエーション。
1949年「ジゼル」、バランシンの「テーマとヴァシエーション」を踊る。
1951年 NYCBに参加、ロビンスの「檻」をクリエーション。

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ロビンスの「檻」(1951年)


1954年頃、バレエ団活動を一時休止しその時期に来日している。
1955年からはまた復帰し、
Valerie Bettisが振り付けた「欲望と名の電車」のブランチを踊っている。

こうした経歴から
彼女の評価は、まさに現代的なドラマチックダンサーとされている。
革新的なダヌンチオ女優だったエレオノーラ・ドゥーゼに準えられ
”Duse Of The Dance”とも称された。

1987年2月に亡くなったときの追悼記事
→ http://articles.philly.com/1987-03-02/news/26220611_1_mille-s-fall-river-legend-lilac-garden-abt


小牧正英の回想によれば(『バレエと私の戦後史』1977年)、
昭和29年の公演の成功のより、
翌年にはバレエシアターとともにの来日公演が計画されたが、
ノラ・ケイとのスケジュールが合わず計画は挫折したとあるが、
ノラ・ケイ自身がアメリカでのバレエ活動に本格的に復帰した事が、その理由だったと推測される。



ノラ・ケイが主演したバレエ作品の映像

「檻」Cage (音楽はストラヴィンスキー「弦楽のための協奏曲」)
オスの虫がメスの虫に滅ぼされるものだがノラ・ケイのエロチックな表現が評価された。
昨年2012年にNYCBで再演された時の、Wendy Whelan による紹介映像
http://www.youtube.com/watch?v=JqLmH-f9VOw


「火の柱」 Pillar of Fire (音楽はシェーンベルク「浄められた夜」)
デーメルの詩に依る、若い女性の心理と人間関係を描いた心理バレエとして評価されている、
1973年のABTでの全幕映像
http://www.youtube.com/watch?v=Iqgrad-SM6Y


ダンサー引退後は3度目の夫(2度目はアイザック・スターンだった)
映画監督ハーバード・ロスの作品のプロデューサーなどを勤めている。
バリシニコフが出演した有名な映画
「愛と喝采の日々」”The Turning Point” (1977)も、そのひとつだった。



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posted by 星跡堂主人 at 00:01| 東京 ☁| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月11日

新国立バレエ団「火の鳥」によせてー「優雅な冷たさ」ー 〜米沢唯、手塚治虫、ノラ・ケイ、三島由紀夫をめぐって〜

新国立バレエ団の今シーズンの開幕を飾るバレエリュス、三本立て、
今シーズンからプリンシパルに昇格した米沢唯が、産經新聞の取材で
「火の鳥」の役作りに関してコメントしている。

その中で、手塚治虫の『火の鳥』に言及して
「人を破滅させる力すら持つ、不死鳥のイメージです。今までははかなげな役が多かったので、力強い新たな顔をお見せしたい」と、役作りの方向性に影響を受けたことを述懐している。
→ http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131027/ent13102713210007-n2.htm



米沢唯が影響を受けた手塚の「火の鳥」について
手塚治虫自身は、そのエッセイ「『火の鳥』と私」(1969年12月、初出の文章)で以下のように述べている。
====================================================
  昭和二十九年に『漫画少年』に連載していた「ジャングル大帝」が無事に完結して、そのあとどういうものを描いたらよいのか迷っていたときでした。
 ぼくはある劇場で、ストラビンスキーの有名なバレエ「火の鳥」を観ました。バレエそのものももちろんでしたが、なかでプリマバレリーナとして踊りまくる火の鳥の精の魅力にすっかりまいってしまいました。
 火の鳥の精は、悪魔にとらえられた王子を救うために、出発する王子の案内役をつとめる鳥で、ロシアの古い伝説なんだそうです。その情熱的で優雅で神秘的なこの鳥は、レオに匹敵するドラマの主人公として最適のように思えました。
 そういえば、どの国にも、火の鳥のような不思議な鳥の存在が伝説としてのこっています。蓬莱山伝説にあらわれるホーケーという鳥、あるいは不死鳥とよばれている一連のいいつたえなどに、なにか超自然的な生命力の象徴を鳥の姿に託したような感じがします。
 どんなに歴史が移り、時代が変わっても、常に冷静に人間をみまもっている。それは「ジャングル大帝」の主人公が全部死んでしまったあとでも、依然として変わらぬアフリカの自然のように、物語の象徴として絶好なものでした。

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昭和29年(1954)に手塚が観たバレエ「火の鳥」とは、
小牧バレエ団にゲストとして来日していた
ノラ・ケイ(Nora Kaye)の踊った火の鳥だと推測される。

実は、この公演は日本に於けるバレエ「火の鳥」の初演だった。
この時のプログラムは、アントニー・チューダーをノラ・ケイと共に招くことで
チューダーが振付、初演時(1940年)にノラ・ケイが「愛人」を踊り、
後の1943年に主役キャロラインを踊って絶賛された名作「ライラック・ガーデン」と、
この来日公演のためにチューダーが振付けた「カフェ・バァ・カンカン」の三本立て。


当時、トキワ荘の手塚の部屋に入居することを願うために、
手塚が執筆していた飯田橋の学童社を訪ねた藤子不二雄Aは
昭和29年10月4日の日記に次のように記している。
「三時、先生(注、手塚)一段落つき、ノラ・ケイさよなら公演にいくため、
どれ、と立ち上がった折り、一気呵成にお願いする。『トキワ荘に入らせて下さい。よろしくお願いします。』」

藤子不二雄は、手塚治虫がノラ・ケイの公演を見るために仕事を打ち切ったその時に
トキワ荘への入居を勇んで頼んだわけだが、(この後手塚のトキワ荘の部屋の後がまになる)
この記事から、
手塚治虫が、昭和29年10月4日のノラ・ケイの公演に行ったことがはっきりする。
この10月4日の公演は、
この年に行われた小牧バレエ団とノラ・ケイの公演の最終日にあたる。


ノラ・ケイは、前年の昭和28年(1953年)にポール・シラードと共に初来日。
11月10日の宝塚大劇場での公演を皮切りに25日の日劇まで小牧バレエ団と
『ジゼル』の全幕を踊っていた。
(『ジゼル』全幕は前年の1952年7月15日に松尾明美バレエ団によって日本初演されている)
それが大変好評だったため
翌、昭和29年には、アントニー・チューダーと共に来日。
まず7月29日〜31日までの「歓迎公演」で
『白鳥の湖』全幕を日比谷公会堂で小牧バレエ団と上演、大好評を博した。

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ノラ・ケイの白鳥、王子は小牧正英


ノラ・ケイの詳しい経歴に関してはこちらを参照されたし。
→ http://zoushigaya.seesaa.net/article/380249357.html


『白鳥の湖』全幕から一ヶ月後、
手塚が見たと思われる
「火の鳥」、「ライラック・ガーデン」、「カフェ・バァ・カンカン」の三本立てを
8月25日〜30日までの8公演を日劇で
大阪北野劇場で9月13日〜17日までの7公演、
東京日劇に戻っての9月30日〜10月4日までの7公演を行った。

東京に戻っての9月末から10月の公演は、
「送別公演」と銘打たれていたので、
「ノラ・ケイさよなら公演」と手塚は云ったのだろう。

藤子不二雄の日記に出てくる10月4日は、この最終日にあたり、
15時からのマチネと19時からのソワレと二公演行われているが、
手塚は「三時」に仕事を止めたのだから当然ソワレに行ったはずである。


所が、この「送別公演」では、「火の鳥」は上演されていない。
「火の鳥」の代わりに、
「ドン・キホーテ パ・ド・ドウ」と
7月に上演されて好評だった『白鳥の湖』の第二幕に差し替えられていた。
とすると、
手塚は8月末の公演にも行って「火の鳥」を見たと、推測される。


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小牧バレエ団公演「火の鳥」(1954年)
ノラ・ケイの火の鳥に小牧正英の王子



8月末の三本立てのプログラムに関して
音楽・舞踊評論家の英文学者牛山充(1884〜1963)がレヴュー(「音楽新聞」578号)を書いている。
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名振付家アントニー・チューダーを招き、その名作として知られる『リラの園』と、新たに振付けをして日本で世界初演を行う『カフェバー・カンカン』の主演者として再度ノラ・ケイの客演を得た上にディアギレフのバレエ・リユスが一九一〇年のパリ公演にオペラ座で世界初演をしたストラヴィンスキーの出世作『火の鳥』にもノラ・ケイを主演者とした三本立ての今回の公演は、綜合的にその挙げた直接の成果と何といってもバレエ史上、殊にその音楽面から見て大切なのはストラヴィンスキー作曲、フォーキン振付による『火の鳥』で、ディアギレフのバレエリユスの初演当時からの評判を耳にしているファンにとっては興味の大半がこの一作にかかっていた。それだけに装置や演出の細かい点では日劇の舞台機構その他の制限からか、私共の期待に反したところが一再に止まらない。妖怪変化の怪奇さが不足したり、当然かもし出される雰囲気や、劇的緊張が感じられない不満はあった。
 しかし、ノラ・ケイの火の鳥はさすがにあざやかなもので、小牧の王子とのパ・ド・ドゥーとヴァリアシオンや、金の羽を与えて一旦飛び去った後、王子の危機を救いに来てカッチェイとその部下の妖怪変化を目まぐるしい踊りの興奮に捲き込むアレグロの表現には我国の若いバレエ人を教える多くのものがあった。

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三作品の内、バレエリュスへの思いから「火の鳥」への期待が最も大きかったと記されている。
しかし、舞台の出来は批評家を落胆させている。
ただし、ノラ・ケイの踊りに対しては、
「王子の危機を救いに来てカッチェイとその部下の妖怪変化を目まぐるしい踊りの興奮に捲き込むアレグロの表現」と、高い評価がされている。

手塚の記憶に残っている
「プリマバレリーナとして踊りまくる火の鳥の精の魅力にすっかりまいってしまいました。」は、
妖怪たちの中で踊りまくるノラ・ケイの火の鳥の姿だったに違いない。


この公演での評価は「ライラック・ガーデン」が最も高かったようで
「毎日新聞」での舞台評を書いた光吉夏弥は、
(「ひらかれた新生面 ノラ・ケイ、チューダー、小牧バレエ公演 1954年8月27日付)
「ライラック・ガーデン」を「これほど的確に『動き』に浸みこまされ、
人間の踊りのことばによってかくも鮮やかに描き出されるということは、
バレエの新しい次元をひらいたこの作品の活気性を誇らかに立証するもの」と絶賛している。
「火の鳥」に関しては
「ノラ・ケイはクラシックの踊り手としてのケンランさを示す。
魔物たちの踊りが散文的な点をのぞいては、決して悪い振付ではないが、
このバレエ作品として持っているイデアが、もうぼくには時代を過ぎたもののように思える。」と評していて、
牛山と同じように舞台全体の出来としては今ひとつだが、
ノラ・ケイの火の鳥の「ケンランさ」には驚嘆している。



この時の「火の鳥」は、
1945年3月の上海バレエリュスでの
「火の鳥」(ニコライ・ミハイロヴィッチ・ソコルスキ振付)に参加した
小牧正英がその公演に基づいて振付たものだった。
演奏は、渡辺暁雄指揮の東京フィルハーモニー交響楽団。


小牧自身は「火の鳥」について
「『火の鳥』以前にはあのようなものはな、音楽そのものが従来なかった。
近代的というか現代的というか、新しいものでそういうバレエ音楽はできなかった。」
(『ペトルウシュカの独白』1975年)で述べているが、
小牧の考えていた音楽の近代性や演出は、十全には表現できず観客には伝わらなかったようだが、
ノラ・ケイの踊った火の鳥だけは、その鮮烈な印象を日本の観客に与えた。



所で、
同公演のパンフレットに三島由紀夫が「ノラ・ケイ礼賛」という一文を寄せている。
三島は前年にニューヨークでノラ・ケイが踊ったジェローム・ロビンスの「檻」も観ているのだが、

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 それにしても、伝統的な技術の十分なデッサンの上にノラ・ケイの「檻」や、今度上演される「ライラック・ガーデン」のような新しい破格の試みが花をひらいたことだけは、疑いを容れないところで、日本の新らしい、踊り手が無理に背伸びしたモダン・バレエの創作に熱中する前に、「ジゼル」第二幕や「白鳥の湖」のノラ・ケイを見ておくことは、少なくとも心胆を寒くさせられる効果だけはあつたにちがいない。
 大体バレエはフランスで発達したあらゆる芸術と同様、技倆(メチエ)と仕上げの巧みさ、とが、ほとんど芸術そのものと見なされるくらい、技術的巧緻の上にたたねばならぬ。ここにメチエという中には、役柄の把握も、舞台の雰囲気の醸成も、あらゆるものを含めている。しかるに日本的精神主義は、ともすると「熱と誠」でもつて、何でも押しとおせるという錯覚に、われわれを陥らしめる。バレエの習得には、もちろん熱と誠も必要であるけれど、日本人の演じるバレエを見るときに、いつも私が歯がゆく思うのは、真の技術家の冷静さの欠如である。おそらく真のバレエ精神と日本的精神主義とは、氷炭相容れぬものかもしれないのである。
 ノラ・ケイは冷静そのものだ。白鳥のあの冷たい優雅は、これを書いている今も、まだ目前に揺曳している。先年の「ジゼル」第一幕の熱情的演技の失敗のごときは、この冷たさが、村娘ジゼルの純情を、人工的なものと見せたところにあるのだろう。

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三島は、
前年の『ジゼル』について別の文章(「ノラ・ケイの公演を見て」昭和28年1月16日)で
「ノラ・ケイの舞台は緊張感のある清爽なものだつた。『ジゼル』第一幕では、何だかマリオネツトを見るやうで、すべて外面的な気がして、もう一つつかめなかつたが、第二幕でヴィリになつてからは、殊に幕切れ近くの別離の優婉さに感心した。能の鬘物をこの人に見せたいと思つた。」と述べている。
また、ダニロワと比較して
ダニロワは「全てを超越した古典バレエの精の如き気品と優雅の化身である」が、
ノラ・ケイの「身辺には現代の騒音が渦巻いており、彼女の美は、幸福な過去の残像というよりも、現代に抵抗する緊張をあらわしている。」とも評している。


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小牧バレエ団公演『ジゼル』第2幕(1953年)
ノラ・ケイのジゼルにポール・シラードのアルブレヒト


三島の見た、ノラ・ケイは、「技倆(メチエ)と仕上げの巧みさ、とが、ほとんど芸術そのものと見なされるくらい、技術的巧緻の上にたたねばならぬ。ここにメチエという中には、役柄の把握も、舞台の雰囲気の醸成も、あらゆるものを含めている。」を体現した「あの冷たい優雅」と「緊張感のある清爽」だった。
その技倆(メチエ)を前提として、しかしそれとは異なる、
彼がニューヨークで見たロビンスの「檻」の現代性をも表現する、
純粋に古典的なダニロワとは異なるノラ・ケイでもある。
この両面性に三島は感嘆しているのではないだろうか。


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ロビンスの「檻」を踊るノラ・ケイ(1951年)




それが如何なるものか、
数少ないノラ・ケイの映像から見てみよう。
ノラ・ケイがマリー・タリオーニ役を踊っている「パ・ド・カトル」(1960年4月)
(アリシア・アロンソがグラーン、メリッサ・ハイヅンがグリジ、ミア・スラヴェンスカがチェッリート)
http://www.youtube.com/watch?v=SPugalZ9S_A&list=FLA4xnoi-izE7Fii4iIT18QQ&index=2


この映像は既に全盛期を過ぎているのだろうが、
アロンソと比較しても、三島が述べている
彼女のダンスからは「冷たい優雅さ」が伝わってくる。
この冷たさがバレエの本質だと三島は述べているが、
その中にバレエの伝統と、またその先に生じている現代性も見て取っている。

手塚の見たノラ・ケイの「火の鳥」も、
単に圧倒する「情熱的」だけではなく「優雅で神秘的」であったわけで
手塚治虫も、
三島の感じ取った「冷たさ」「冷静」の中に
「どんなに歴史が移り、時代が変わっても、常に冷静に人間をみまもっている」
火の鳥の大きさを、ノラ・ケイのダンスから感じ取っていたに違いない。


手塚治虫、三島由紀夫が見て取った
ノラ・ケイのダンスとは、そのようなものだった。
とすると、
冒頭で紹介した、新国立バレエの米沢唯が述べている
「人を破滅させる力すら持つ、不死鳥のイメージです」にも、
バレエの伝統と現代性が合わせ持った
「優雅な冷たさ」が、どこかに反映されねばなるまい、
バレエが、今も「バレエ」である限りは。

それを、米沢唯がどう踊るのか、
とても楽しみである。









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「火の柱」(1942年)ノラ・ケイとポール・シラード































posted by 星跡堂主人 at 23:23| 東京 ☀| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする