2018年09月14日

「Summer / Night / Dream」


ダンスはイマージュでしかない。
それは詩がイマージュであることと似ている
イマージュであるのなら、
それをどう思い出すかによって、様々に変化する
私たちの過去がそうであるように



ダンス公演のレヴューやサマリーには、どのような意義があるのか?
資料映像が残される現在では、それを見れば公演のより客観的な記録は分かる。確かにそうではある。
映像資料が残こされなかった時代と、現代とではレヴューの意義も違ってきているだろう。
しかし、本当にそうであろうか。
公演の記録映像をのちに見たときに、自分が抱いていた印象と違うように感じることはしばしばある。
振付の正確性などは、映像記録の方がずっと秀れているのだろうが、ダンスを観る者の印象とそれが一致しないときに、観る者の記憶の不正確さは、指弾されてしかるべきだろうか。

映像記録のなかった頃、舞台は評判記やレヴューによって人々の間に流布していた。人々は、舞台を観なかった人も、観た人も、その文章を頼りに舞台を思い起こした(思い描いた)はずである。
「いやあ、そういう風に私は観なかったよ」と、著名な評論家のレビューに納得しなかったりもしただろう。
相手が著名な評論家であろうと、それとは違うと自分の観方は簡単には変わらない。
なぜなら、絶対的な客観性がそこにはなく、相互に主観的な相対性しかないからだ。
様々な人の様々な観方が、渦のように相俟って、その時代の評判記は出来ていたのではないか。
そういう間主観的な舞台の見方は、映像という客観的資料がある今日では最早意味がないのだろうか。


同じ舞台を観ても、その思い出し方は違ってくる。
同じ事実に遭遇しても、それをどのように記憶しているかが、人によって違うように。
歴史という物語では、社会や民族によっても記憶は違ってくる。
そこでは間主観的な記憶が想起され共有されている。

舞台を観るという行為は、すぐれて個人的な行為である。
特に、心が震えるほどの舞台体験をした後では、たった一人の孤独の中に居続けたいと、私はよく思う。
だが、読書や家で一人で映像を見ることとは違って、
劇場という(限定的に囲われた空間であろうとなかろうと)空間を、ほかの観客と共有することでその劇場空間の空気を作っているということにおいて、それはまぎれもない共同的な行為でもある。

レヴューやサマリーは、私が観た舞台のイマージュでしかない。
だが、それは、ダンサーや振付家、演出家、音楽や美術、衣裳の担当者など様々な人の思いによって作られたイマージュを
私以外の人々と半ば共有しながら体験した間主観的なイマージュでもある。
だから、それは、私ひとりの個人的な体験とは言い切れない。
しかし、それでも、私が観た、私が感じたイマージュでしかないことも変わらない。

では、私は、その舞台のイマージュを何故書くのか?
私自身の記憶の想起のために。
一方で、それを他者と共有したいがために。
共有は、一致である必要は全くない。
私のイマージュに対して、いや違うだろうと、お互いのイマージュの差異を語り合うことも、間主観的な体験の一部だ。
差異を否定し合うのではなく、差異にこそ豊かさを感じられる。
優れた作品とは、私にとって、他者との差異を感じさせる作品でもある。

上演されたものが新作であれば、サマリーの意義はより高いと思う。なぜなら誰もが知っている振付・演出ではなく、誰もが初めて見るものだから。世間にもそれが如何なる作品なのか、全く流布していないから。


隔年で上演され、今年で3回目になる「JAPON dance Project」、
「Summer / Night / Dream」と題された、今年の作品のサマリー及び若干の感想を以下に記す。
公演は2018年8月25,26日の二日間2公演 於新国立劇場中劇場。
私は、両日とも観た。演出が異なった箇所もあった。


「Summer / Night / Dream」

演出・振付・出演 JAPON dance project 
遠藤康行 小池ミモザ 柳本雅寛

振付・出演 ゲストダンサー
服部有吉(元 ハンブルクバレエ団、H/Wバレエ学校芸術監督) 
津川友利江(元 カンパニー・プレルジョカージュ) 

出演
新国立劇場バレエ
米沢 唯 渡邊峻郁 池田理沙子 柴山紗帆 渡辺与布 
飯野萌子 川口 藍  益田裕子 原田舞子

配役
オベロン:遠藤康行
タイターニア:小池ミモザ
パック:柳本雅寛
デミトリアス:服部有吉
ヘレナ:津川友利江
ハーミア:米沢唯
ライサンダー:渡邊峻郁

美術:長谷川 匠 
照明:足立 恒 
衣裳:ミラ・エック Mylla Ek(マッツ・エックの姪)

使用された楽曲に関しては以下を参照した。
音楽監修の井上裕二氏作成のJAPON dance project 2018×新国立劇場バレエ団『Summer/Night/Dream』楽曲リスト
https://twitter.com/JAPONdance/status/1035069812068605952
改めて聴き返すと、選曲が素晴らしいし、舞台に合わせて原曲を微妙に加工されている。使用楽曲はゴシックで表示した。



第1部

中劇場のオケボックスを潰し、舞台9列目とその後の通路までを含んだ半円形の舞台となっている。だから奥行きはとても深い。

1 柳本雅寛/パックが下手から出て、客の前で息をす〜す〜と吐いては吸い込むことを繰り返す。
初日は客に同じ行為を促したが、客のノリがイマイチだったためか、二日目はそれはせず、指を鳴らすと照明がパッと変わる。パックは、黒白のチャッカー柄の衣装。

2 メンデルスゾーンの「A Midsummer Night’s Dream」序曲がかかり、舞台には上からいくつもののガラスのように光る様々な大きさの板様のものが垂れ下がっている。その板が様々な光を反射することで、森の中で月の光が木々に揺らめく様を思い起こさせる。
公演の日の夜はちょうど満月だったので、帰宅途中に通った雑司ヶ谷霊園の中はまさにそのような光に溢れていた。

米沢唯/ハーミヤ 舞台やや上手奥から出て、クロワゼで両手をあげるポーズを決めてから踊り出す。
ハーミヤの衣装は黒白の縦の縞柄。
他の登場人物たちも同じように、まずポーズしてから踊り出すが、ポーズはそれぞれ異なる。
序曲にのった祝祭的な踊るが終わると、
服部有吉/デミトリアスと柳本/パックだけが残り、他のダンサーは引っ込む。
デミトリアスの衣装は、オレンジのジャケットと同色のスカート。

この前後で、池田理沙子と柳本が踊った記憶だが余り印象に残っていない。

3 服部有吉/デミトリアスのソロ 「Concerto en ut majeur,RV425」 Allegro Vivaldi(マンドリン版 Rolf Lislevand)
途中で舞台中央やや上手よりの鏡を覗き込んで、自分の姿をじっと見つめたのち動きがさらに激しくなる。 
この場は服部自らが振付けたと思われる。
キレのある微細なステップのダンスが後半に行くほど加速していくのは見事だった。


4 パーカッションと主体とした民族舞踊的な音楽にのっての群舞7人(川口藍、益田裕子、原田舞子、飯野萌子、渡辺与布、池田理沙子、柴山紗帆)が踊る。衣装はオレンジに黒のドットなど3パターンあり、皆同じではない。
「Zealous Order of Candied Knights」(熱狂的なキャンディー騎士団) Matmos
とてもリズミカルな音の中で益田、原田のうねるような身体の動きがとてもいい。


5 少し跳ねるような音楽に乗って小池ミモザ/タイターニヤ、遠藤康行/オベロンが奥から出てきて踊る。「Ping」 Hauschka
柳本/パックが絡み、最後は小池が居なくなり、遠藤と柳本二人で掛け合いのような振りになり可笑しい。


6 ヘレナ/津川友利江が這い回るような姿勢で上手奥から出てくる。ヘレナの衣装は黒を基調として柄が入っている。ハーミヤ、タイターニヤ、ヘレナの女性たちは衣装は違っているがどれも大きめの襟飾りで首回りを覆っている。シェークスピアの時代を意識しているのだろう。
無音の中でデミトリアス/服部にヘレナ/津川が言いより、服部の背後にぺタッと付いてまわる。
途中で服部が踵を返しすと、バッハが流れ始め踊る。「ゴルトベルク変奏曲」第7変奏(サキソフォン版 清水靖晃 )
曲が終わると、津川が服部の足を踏んでいる。    
さらに舞台中央で、津川が服部に強引にキッス。
その後、バッハのフーガがかかり踊りだす。「ゴルトベルク変奏曲」第10変奏(サキソフォン版 清水靖晃 )
この場の振付は津川と服部に任されていたようだ。
二人のボケとツッコミのような掛け合いが即興的になされている感さえあった。まるでダンス漫才のような、それでいて凄いスキルの応酬でもあった。


7 タンゴ 「A la Gran Muñeca 」(大きな人形のところで) Rodolfo Biaggi 楽団(1950年版、原曲は1920年)
舞台奥からオベロン/遠藤が、益田裕子を連れ出てくる。
他の群舞も出て古いタンゴの名曲で踊り出す。一人のダンサー(池田理沙子か)だけが仮面を付けて踊っている。


8 タイターニヤ/小池が出てきて怒っている。オベロン/遠藤が様々に謝るが、許されず。
音楽が一瞬かかり踊ろうとするもタイターニヤは全く乗らず。ノイズが入る。


9 ハーミヤ/米沢唯とライサンダー/渡邊峻郁が踊る 
「A Midsummer Night’s Dream」actT Scherzo
冒頭で下手奥から駆けてきたハーミヤをライサンダーが受け止め上げる綺麗なリフトが入る。二人の美しい愛の交歓が所謂アダージョではなくアレグロテンポで踊られる。
このテンポ感でも美しい情感が交わせるのは、米沢と渡邊のスキル故だろう。
ライサンダーの衣装はオレンジのジャケットとスカートでデミトリアスとほぼ同じだが、スカーフを巻いている。
デミトリアスは舞台奥で二人の姿を呆然と見ていた。



10 静かなピアノの曲。「Then」 Goldmund
仮面をつけられた渡邊(下手前)と服部(中央)。そこへ津川が上手奥から出る。服部の前を通り過ぎようとすると服部が彼女を捕まえる。
それでも津川はライサンダー/渡邊の方へ行き、彼の前に立ち抱えられようとする。 
上手奥から米沢/ハーミヤが出て、ライサンダーに絡むが無視され、彼はヘレナ/津川、服部と踊り続ける。
米沢だけ弾かれ続けるが、途中から津川と米沢の女性二人が絡む。
米沢は下手前で体が硬直する。
津川が、米沢の左腕を自らの顔へと持っていき幾度も触れさせるが、その腕はすぐにだらりとなる。
これが繰り返されたのち、米沢の腕も身体も全く動かなくなる。
米沢は初日よりも2日目の方が表情を抑えていたように見えた。
それがさらにこの場の静謐な雰囲気に溶け込んだ。

前のピアノの音に被さるように曲が変わり「A Summer by The Sea U」 David Wenngren
米沢の体を、他の3人が高く掲げ、下手の袖へと運んで行く。
まるで一編のレクイエム(鎮魂歌)のようなシーンだった。
全編を観た後に翻って惟うに、この場こそ、全編を統べる静かだが強烈なイマージュになっているように思えた。
彼女、彼らは、ここで「踊って」いるようには観えない。
だが、それが楽曲と共に確かな印象を私の中に遺し続けている。



11 アコースティックな世界から一変し、電子音のような音が響いてくる。「Whitewater」 Tortoise
仮面を付けられたタイターニヤ/小池が、下手から体のバランスを失ったかのような変な動きで出て来る。
途中で舞台中央やや上手の鏡を覗き込んでのち、動きが一層激しくなり、四つん這いになったりして動物的な動きにさえ思える。2015年の横浜バレエフェスティバルで踊った遠藤との「半獣」を思い出す。
下半身が透ける衣装がこのシーンではとても効果的だった。
途中から大きなノイズが入ってきて、遠藤が奥から出てきて、小池を抱きしめ、面を取る。
遠くから飛行機のような何が迫ってくるような音が聴こえてきて
遠藤は小池の体をを大きく振り回し始める。
プレルジョカージュの傑作「ル・パルク」のあのシーンを思い出す。
ベーゼはしていないのだが。



12 様々な音の霧の中から、次第にヴィヴァルディのような明るい音が響いてくる。「Spring 0 &1」Max Richter
ダンサー全員が出てきて踊り始める。
葬られたかと思われた米沢/ハーミアも、渡邊/ライサンダーと楽しげに踊っている。
一方で、通奏低音に乗って(『Summer/Night/Dream』楽曲リストよりも実際の舞台ではこの音が特に強調されているように聴こえた)舞台奥から、裸のパック/柳本がひとりゆっくりと歩を進めて来る。 
最後に皆いなくなり、仮面を付けたデミトリアス/服部だけが残こされて、暗転。

1部で仮面を付けた役
女性群舞(池田理沙子)、デミトリアス/服部、ライサンダー/渡邊峻郁、タイターニヤ/小池ミモザ、



第2部

1 ピアノの重い音でメンデルスゾーンの結婚行進曲冒頭が出るが、すぐに三連符の運命主題のようになり、そののち続きが重く流れる。「A Midsummer Night’s Dream」 Wedding march W.Horovitz pf
舞台奥から仮面を付けた12人が出て来る。
(柳本雅寛と米沢唯は不在)
女性ダンサーはボディファンデーション、男性は上半身裸でロングタイツ。
音楽は展開部で急に終わる。


2 全員仮面を付けたダンサーたちが舞台全体に広がっている。
微かな鐘の音で、まず津川が面を取り、辺りを見回して、股を開く。
次に舞台上手の原田が取る。次に舞台中央前の小池が取る。
さらに舞台奥の益田裕子が取り、あたりを不思議そうにゆっくりと眺める。
どのダンサーも再び仮面を付ける。


3 後ろ向きになったダンサーの間を遠藤がよろよろと動き始め、体に触ったりする。微かな笑い声が聞こえてくる。
(2日目は遠藤の動きもやや小さかったせいか、笑い声も小さかったか、ほとんどしなかった?)
その後、全てのダンサーが面を取り、舞台中央前で全員がポーズを取り集合写真を撮っているように光が放たれる。


4 その後、またダンサーたちが舞台に散らばり、
上手奥に居る服部がハッハッ、ハッハッ〜ハッアと息を吐き始めると、他のダンサーも各々息を吐く、そのリズムに合わせて次第に足踏みが始まる。


5 ダンサーたちが独特のリズムで足を鳴らしながら、舞台奥へと徐々に消えて行く。
遠くで太鼓を叩いているかのようにも聴こえる。


6 残ったのは上手奥に小池と津川、下手奥に益田と原田。
二組は向かい合って体を寄せ合い両手を挙げてやや上方をみて、静かにつぶやくように唸るように何かを声として発し始める。

徐々にそれがメロディーだと分かってくる。霧の中から立ち現れてきたそのメロディーは、なんと「君が代」ではないか。
彼女たちは「君が代」を唄っている。錯覚かと思いながら耳を攲てる。確かに「君が代」だ。
彼女たちは決して歌詞を唄ってはいないのだが、
とおきみそらのかたからことばが、聴こえてくるように、唄っているように思える。
女性ダンサーが一人、地を這うような仕草をしている。

7 鐘のような低い汽笛のような音が鳴っては消え、繰り返される。
舞台奥からダンサーたちがその音に合わせるかのようにゆっくりと出て来る。
皆一応に中空を眺めて首をあげている。中空には彼らが一部で着ていた服が浮かんで居る。


初日の「君が代」には驚く。
正確には、霧の中から何やらメロディーが立ち上がってきていて、それがあのメロディーだと気づいた時の戦慄は言いようがない。言葉の字義通り、身体が震えた。
ダンサーたちは、歌詞を口遊んでいるわけではない。
だが、はっきりとその歌詞が私には聴こえてきた。
その場は、一瞬のようでもあった。
すぐに大きな鐘のような、低い汽笛のような音が鳴っては消える。
そして、舞台奥からダンサーたちがその音に合わせるかのように密やかに出てくる。
皆一応に中空を眺めて首をあげている。中空には彼らがかつて着ていた衣裳が浮かんで居る。
その光景は、まるで原爆を被爆した人々の亡霊のような姿に、私には思えた。


その光景が、まるで原爆を被爆した人々の亡霊のような姿に、私には思えたのも、
多分、私がそのようなイマージュに捕らわれたのは、「君が代」を聴いたからだろう。
初日の第2部は、私には全てが「君が代」に収斂されていくように思えた。
あの曲のインパクト、破壊力はそれほどにも強い。

被爆者との対話を繰り返して、そこから得た被曝体験のイメージを、広島市立基町高校の生徒が描いた絵画
「人間襤褸(らんる)の群れの中に」
http://hpmmuseum.jp/modules/xelfinder/index.php/view/342/motomachi37.pdf


「君が代」は2日目には「シャボン玉」に代わっていた。
不思議なことに、この時も、ダンサーは歌詞を唄っていないのに、その歌詞が私の脳裏には鮮やかに浮かんできた。
まさにダンサーたちの身体によって記憶がイマージュとして想起されたのだ。
この選曲は、秀逸だった。
直後のダンサーたちのやや上空に顔をあげての仕草と、この歌詞とが重なるからだ。
それはシャボン玉のように一瞬で空に消えていく自らの生の儚さのような、また物憂さのような、人の致し方のない生の宿命のような、イマージュを、私に想起させた。
意味ではない、そのような漠然としたその場のイマージュに、私の身体は包まれていた。

「風になびく富士の煙の空に消えて
            ゆくへもしらぬわが思ひかな」   
                          西行 

(西行の時代、富士山頂からは噴煙が立ち昇っていた)



8 汽笛のような鐘のような音がゆっくりと響き続ける中、舞台に全員が揃って、
その後、舞台下手前にいる津川が、ぷわ〜と息とも声とも叫びともつかぬ音を口から吹き出し始める。
それに続いて順繰りに他のダンサーも、ぶわぁ〜、はぁ〜、ひはぁ〜と吹き出す。
それぞれの音にダンサーの魂が宿っていて、それが中空に飛び出ていくようだ。
舞台中央前に居る小池は体がのけ反るほどに吹き出す。
それが何度も何度も繰り返される。
ダンサーの声というものを平生は聴くことがないので、この場はとても印象的。体を動かすことの根に息があり、そこから平生ダンサーが禁じられている(そう勝手に思っている?)声を吐き出すことで、ある種の解放感が観る者とダンサーとの間で共有された感があった。

途中から高音のノイズが入り始める。(初日の方が強く耳に響いたが2日目は少し落としたようだった)
すると上手やや中央よりに居た服部がダンサーの間をジグザグに走り出す。
服部が動くとそこに結婚行進曲の音が再び聞こえだし、(第2部の冒頭のピアノではなくオーケストラ演奏)
それに負けじとダンサーたちのぷわ〜も音が大きくなり重なっていく。
その後、結婚行進曲の音が優勢になり、ダンサーたちは服部のようにジグザグに動き、いつの間にか踊り始める。隊列のしんがりの池田理沙子がバレエのジュテ・アンルラセで跳んでいく。

服部は、舞台奥中央に開いた扉からの光を目指す。扉の向こうには花吹雪。
服部はそこへと吸い込まれていく。
他のダンサーたちはその扉の前で踊り続ける。
曲が終わり、幕。



再び結婚行進曲を流してのラストシーンは、必要だったか?という気もしないではない。
如何にも終わったという終わり方が、この作品で求められていたのか?
デミトリアス/服部が奥へと吸い込まれて行くことの意味を考えざるを得ないが、敢えて、それはどうでも良いようにも思える。
何らかの「生の希望」を、ここに挟みたかったのかもしれぬが。

カーテンコールになり、柳本と米沢もみなと同じ衣装で登場していた。これがちょっと不思議でもある。
第2部で全く踊っていない二人が、何故同じようなボディファンデーションとロングタイツで出てくる必要があったのか。多くの見物が見誤ったように、この二人も第2部の何処かで踊っていたという錯覚を起こさせたかったのか?
しかし、柳本や米沢のような個性豊かな身体を見物が見忘れるわけもないのだが。
また、不在であることで舞台を統べる(存在している)ほどの仕掛けを、第1部でしていたとも思えない。


第1部での音楽の選定、効果的な使い方、さらにミラ・エックの衣装は素晴らしかった。
第1部での音と衣装の素晴らしさが、第2部の何もない空間をより際立たせたと言える。第1部の記憶が第2部を作っているとも言える。
その上で、さらに
第2部は、観る者のイマージュの軸線は、何が作るのか? 
観る者の記憶の統合はどのように行われるのか? 
という実験だったとも言える。
音楽 アレンジされた結婚行進曲  君が代 シャボン玉 
ノイズ 効果音のような音
所謂「ダンス」は主にラストのみ 
舞台奥から射す光と花吹雪が舞う扉の向こう
身振り 抑えられた身体  息
不在の二人
これらのイマージュをどう繋げるかは、観る者一人ひとりに任されている。
ラストシーンは無くてもよいように思うのだが、
しかし、それが決して終わりということではないという感覚も残る。
その意味では、終わりのない終わりとして、ダンサーたちの宙吊りにされた衣装のように
それぞれのイマージュは、サスペンドされているとも言える。
私たちの生が、明日もまたその後も続いて行き、その度に過去が想起されるように。
何日か経った今も、この舞台は、様々なことを思い出させる
二つと無い作品だと、私は思っている。



鹿摩隆司(Shikama Takashi)による舞台写真(JAPON dance project Twitter )
https://twitter.com/JAPONdance/status/1042361695744622594
https://twitter.com/JAPONdance/status/1042367914811092992
https://twitter.com/JAPONdance/status/1042368393775472640




「君が代」私註
「君が代」は、元来は『古今和歌集』読み人知らずの賀歌であり集中では「我が君」となっており、これを「お上」の治世を賀ぐと断定はできないとされている。また賀歌以前には歌謡的な恋歌が原型だったのではないかという説もある。
だが、明治国家成立以降、この歌に西洋的な音楽が施されてどのように歌われてきたかの歴史をみれば、その意味するところは、今は唄われなくなった「海ゆかば」(歌詞は『万葉集』大伴旅人の歌)と大差ない。
私個人の記憶を思えば、私の子ども頃は、この歌は「大相撲の歌」(千秋楽で今でも唄っている)だと思っていた友人も居たほどに、人々がこの歌詞を唄うことはほとんどなかった。子どもの頃の私の「聖地」中日球場でも試合前にこの曲が流れていたが、座ったまま無視する多くの大人を尻目に、私は直立してこの曲を唄っていた。私は「日本国民」なのだから「国歌」(当時は「国歌」ではもちろんないが)唄うのは当然なのだと強く感じていた。
しかし、その後、日本近代史を学びかつ在日コリアンと関わる中で、この曲の罪深さを思い知った。
1999年に広島の一校長の自殺を機に、国民に信を問うことなく、そのどさくさ紛れに「国旗国歌法」は制定された。私は今もこの制定過程を無効だと思っている。故に、あの強行的な法制化以来、この曲を二度と唄うまいと心に誓っている。それは、この曲のために死んだ、さらには今でもこの曲のために不当な扱いを受けている多くの人々への連帯の思いの、私なりの表明である。
「表現の自由」という意味でも、「君が代」法制化に反対した忌野清志郎の「Kimigayo」(1999)とその販売を拒否したレコード会社の一件は、私にとっては古いことでは決してない。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=262&v=UwodtldRCuQ

だから、初日を見終わった後、1999年とは比較できないほどに極右化している昨今の日本で、この曲を使った勇気をまず賞賛したい思いがふつふつと湧いてきた。

参考 久曽神昇(きゅうそじん ひたく)「国歌 『君が代』の歌詞の変遷」 愛知大学 文学論叢 25輯 (1988年2月)







 
posted by 星跡堂主人 at 15:15| 東京 ☁| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月19日

「Evony Ivory」 振付/宝満直也 出演/米沢 唯、宝満直也 2018年8月10日 大和シティバレエ公演


大和シティバレエ公演、宝満直也振付の「Ebony Ivory」が凄かった。
昨日見たバレエフェスの全てが吹き飛んでいくくらいに。
切なく、激しい。
見終わった後でこんなに動悸が抑えられなくなる作品はそうはない。

「Disconnect」にも切なさはあり激しさもあった。
が、今夜の二人はもっと静かに激しく切ない。
フィリップ・グラス( 「Morning Passages」ほか)だからか、
音がある種のシンクロナイズを求めている。

冒頭、壁の上の白いオイルコーティングされたような衣装を纏った女と壁から離れ、うつ伏せている白いTシャツと黒いパンツの男。
優しげなピアノの上昇と下降のアルペジオ、
壁の上の女と下の男は、鏡に映り合うように左手と右手で対称的にピアノを奏で出す。
ディアゴナルのラインができる。
女は背後に気配を感じつつ何かを待っている。そこへ男が忍び寄る。
恋は、お互いの顔をまじまじと見つめ合いながら、
そこに自分とシンクロするものを見出す。
小林秀雄が、ソーニャの目の中に、自ら自身の罪の告白を見たラスコーリニコフを、見出したように。
そこには奇妙な告白がある。
自分の顔を映す他者。
壁が移動し、そこに隔たった女と男の影が重なる。
重なりシンクロするのは、幻にすぎない。だからこそより求め合う。
しかし、米沢唯と宝満直也は、ありがちな振付のように見た目で激しく求め合っているわけではない。
グラスの音楽のように深く沈潜しながら、寄せては返す波の如く、即かず離れず静かに求め合っている。しかし、その静けさが手に取るように激しい。
激しく、見るものの身体さえも揺り動かしていく。
米沢が様々な表情を見せるのに比べて、宝満はほとんど表情を変えてないように見える。
男が女に翻弄されているのか。女が男に翻弄されているのか。
壁の中に女が消えていく。
すると、音楽は上がったり下がったりの旋律が加速していき、
男は失った何かを求めるかのように跳びはね踊る。
女は黒の衣装になり、壁の向こうから再び現れる。
白鳥/黒鳥のイメージが重なるが、そんなイメージはただの付属物でしかない。
女は物凄い勢いでグランフェッテを回るが、それは本当はグランフェッテでなくてもいい。
米沢唯だからフェッテを廻ったのだろうが、そこにあるのはただ激しく名状し難い身体の衝動だ。さっきまでの女とは明らかに違う。
米沢の最高速のフェッテ、それは物凄い破壊力だ。空間がどんどん切り裂かれていく。
だが、米沢のフェッテは回転軸が余りにも正確になので、決して音を立てない静謐さを持っている。静謐な激しさ。
米沢の優れた技術がそれを空間に顕在化させる。これは誰でもできることではない。振付家は米沢のスキルを作品構造の中で見事に入れ込んだ。
というか、この作品は、米沢の身体に潜む静謐さの中の激しさを看破していたことで、生まれたものなのかもしれぬ。

連鎖し続けるグラスの音楽と、
その上を全く淀みなく動いていく二人の類い稀なスキルが、
激しいのに静かな狂おしさを表現している。
身体が重なり合う。しかし、音楽よりもさらに静かに。
それがさらに見るものを誘惑する。胸が切なく高鳴る。

最後に壁は落ち、音も鎮まり男は女を静かに天へと揚げる。
見事な構成力。全ては米沢唯の身体を見抜いた宝満の計略だったか。
いやそうではあるまい、そう見えるだけなのだろう。
そんな計算尽くのダンスが、私をこんなにも激しくは揺さぶるとは思えない。
この作品は、男からも女からも見られる。
どちらも静かに渇き求め、シンクロしつつ微妙に過ぎ流れていく。
かつて、米沢唯がこんなにも「激しく」踊ったことがあっただろうか。
宝満直也がそれを引き出したのだ。
是非是非再演を求めたい。だが、今夜の強度は再現不能だろう。再演されても、またそれは別のものになる。しかし、それはそれでまた楽しみだ。
二度と同じ現象はそこに立ち上がらない、そういう作品に思えた。




この作品は、大和シティバレエ夏季公演「国境を越えて行く旅」(大和市シリウスホール)第2部で上演された。
https://www.sba-ballet.com/ycb

Philip Glass - Morning Passages
https://www.youtube.com/watch?v=iB0sXWwH_eA&t=62s

注 Philip Glass の “Morning Passages” は 、2002年公開の映画 ”The Hours”(邦題『めぐりあう時間たち』) のSoundtrack である。この映画は、時空を越えた三人の女たちの1日を描いたミステリーだが、このダンスとの関連はあまり無いと思われる。



posted by 星跡堂主人 at 13:13| 東京 ☀| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月13日

『ライモンダ』における米沢唯 (2018年3月11日 日本バレエ協会公演 エリダール・アリーエフ版)、ヴィハレフ復刻版、ヌレエフ版と比較しながら(付き『ライモンダ』上演史)

『ライモンダ』という作品は日本では上演されることが少ない。
そのためか、グラズノフのその音楽はチャイコフスキーの三大バレエよりも素晴らしい面もあるのに、世評はそれほど高くなく、残念である。

1 音楽の美しさ。
2 曲と曲とのつなぎ目の処理の素晴らしい。
3 ライトモティーフのよるドラマの進行。
以上の3点で、『ライモンダ』は優れたバレエ音楽だといえる。

特に2つめと3つめが見事に融合することによって、
一場のキャラクターのムードから次の場面へと、観るものを夢の世界に誘うように作られている。
たとえば、
第1幕の夢の場への導入とそれからまた現実へと戻ってくるシーン。
(残念ながら今回のエリダール・アリーエフ版では、導入部でダーム・ブランシュを省いたためにその良さが出ないが)
第2幕のパ・ド・シスでのアブドゥルラクマンとライモンダたちの相互の主題が絶妙に絡むところ。
さらに2幕後半で、アブドゥルラクマンが次々に踊りを繰り出すシーンは、ディベルティスマンでありながら、それがライモンダへの思いの激しさと誘惑とも融合してドラマの進行をより劇的にしている。
こういう演出が、後にスタニスラフスキーシステムに基づいて改訂されたブルメイステル版『白鳥の湖』よりもずっと以前になされているわけである。


以下は、日本バレエ協会公演エリダール・アリーエフ版で
ライモンダを演じた米沢唯の踊りを、ヴィハレフによる復刻版、ヌレエフ版とアリーエフ版との相違にも言及しながら振り返る。
思えば、ライモンダというお役は、第1幕から第3幕のグラン・パまでずっと出ずっぱりで
各幕に一つづつパ・ド・ドゥがあり合計3つ、ヴァリアシオンも5つもある。
『白鳥の湖』などよりもずっと大変なお役である。

ライモンダ 米沢唯、 ジャン・ド・ブリエンヌ 芳賀望、 アブドゥルラクマン 高比良洋
オレクセイ・バクラン指揮 ジャパン・バレエ・オーケストラ


第1幕
「アントレ」
下手奥から薔薇の花を一本ずつ拾いながらライモンダは登場する。
この場面はどの版でも踏襲されており、
明らかに『眠れる森の美女』へのオマージュなのだから、気品が最も求められる。 
それでいて、アレグロの早いテンポのなかで、フロアに落ちている薔薇を一本一本拾いながら、
さっとそれをアティチュードで差し上げるこの型を、美しく見せるのは簡単ではない。
米沢はそれをいとも簡単に、しかも一つ一つのポーズをくっきりと鮮明に示した。
このクリアな身体の型の印象こそが、気品を醸しだす。
このシーンでは、それが命といっても過言ではない。
また、この登場の場のクリアさが、米沢の踊るライモンダに基本となることも提示している。


ヴァリアシオン1「ピチカート」
美しいグラン・ワルツにのって群舞が踊る(この版は古典的な振付)。
『ライモンダ』という作品の音楽的特徴は、個々の曲が美しいだけではなく、曲が次の曲に移行するつなぎの部分が極めてよく出来ている点にある。
ワルツが大きく盛り上がったところで、ライモンダが群舞の中央奥から現れると、
今度は一転して弦の静かなピチカートになる。
その愛らしい曲調が、ライモンダという個性を見事に示す。

ここでも米沢は、やや速めのテンポで、決めのポーズを鮮明に示す。
しかし、その型はいつもの米沢とは異なり、上げられた腕や上体が撓り、より曲線的に見える。
ロシア的なラインを作り、叙情的に感じられる。
しかも相変わらず、回転した時の軸の鮮明さ、止めのクリアさも見事なのだから、
クリアでありながら、ストレートなラインに偏りすぎない。
米沢は、今回の『ライモンダ』で、振付家アリーエフの指導で
ロシア的な曲線を取り入れることで、一段とダンサーとして飛躍した、
そういう見事なヴァリアシオンだった。

振付は、マリインスキー版(セルゲイエフ版)に拠っている。復刻版ともヌレエフ版とも異なる。

コーダでの躍動感も、こういう所の脚の蹴り上げが大きくなっていたように思える。
コーダは復刻版も同じだが、
ヌレエフ版は途中から友人たちも入りライモンダと共に踊る。



「ジャン・ド・ブリエンヌの出征」
この版の特徴は、第1幕の現実の場ではアブドゥルラクマンが登場しない(夢には登場する)
一方で、ジャン・ド・ブリエンヌがライモンダのところにやって来てすぐに出征になるという点にある。

通常は1幕ではジャンはライモンダには会わないのだが、出征を前に会いにくる。
米沢のライモンダは、それほど表情を出さないが、
僅かな間に、出会い、別れの気持ちを静かに示していた。
それはまるで戦前の出征兵士を見送る許嫁の表情のようにさえ見えた。
感情を大げさには出さない、如何にも戦前の女性のような慎ましやかな心理の描写だ。
中世のお話だから現代とは異なる女性像が求められているともいえるわけで、
この米沢の演技は、その後の彼女の物語りの軸線になったと、私には見えた。
その後の米沢の演技から
米沢は、出征兵士を案ずる物語、または、自分の恋人が戦いで死ぬかもしれない。
場合によっては、自分の恋人が生きるために誰かが死ななければならないという作品として
『ライモンダ』という作品を捉えていたのではないかと、思われるからだ。

しかし、私たちの多くは実際に出征兵士を見送ったことがない。
丸本歌舞伎の陣屋もの等と同じように、こうした戦争の物語が、
現代日本の演じ手や見物にどのようなリアリティがあるのか、
そういう「問い」はあっても然るべきだが、そこはどのように考えられるか。
米沢唯が、そこまで見通していたとは思えないが、
『ライモンダ』の舞台が進むうちに、
私には、それがある偶然と共に次第に明らかになっていった気がしたのだ。


「ライモンダと友人たち〜眠りへ」

ジャンが出征した後に、友人たちと過ごすライモンダは、
マリインスキー版はハープを
復刻版、ヌレエフ版はリュートを奏でる。
(1964年にイタリアのスポレートでの「二つの世界」フェスティヴァルのために初演したときはハープだった。)
時代的にはリュートなのだろうが、実際のオケはハープを奏でる。

ヴァリアシオン2「ヴェール」
ヴェールは、本来はジャンからの婚約の贈り物だが、
この版ではジャンが直接会いにきてすぐ十字軍として出征してしまい、贈り物のシーンがないので、ライモンダがなぜヴェールで踊るのかが分かり難い。

「ピチカート」と同様、この踊りでも米沢はやや早めのテンポで
ポジションを明確にして踊っていたが、
脚を投げ出した時のちょっとしたためにより、宙に漂うヴェールが美しく印象づけられる。
途中持ち替えるところで僅かに頭にかかったが、
それ以外は米沢が踊っているというよりも、ヴェールが舞っているような印象だった。

「ヴェール」の踊りの直後に眠りに落ち、
舞台には幕がかかり、その幕が開くと
直ぐさまジャンとのパ・ド・ドゥになる。
この展開はちょっとスピーディー過ぎるのではないか。
ダーム・ブランシュが出ないのは、何ともこの作品の本質からずれるし、同じように出ないマリインスキーのセルゲイエフ版でも、ジャンの肖像への思いを緩やかに踊り、その後に眠りにつく。
もう少し長いつなぎがあった方が、見る側の気持ちの流れとしても、見やすい。
踊るダンサーの側も続けざまに踊らなくてはならず、身体的にも気持ち的にも大変だろう。

また、先にも述べたように、この辺りの場面のつなぎも、本来はグラズノフの音楽の美しさが際立つ。
それをカットしてしまうのも、作品の素晴らしさを殺いでしまう。
ヴィハレフ復刻版では、舞台奥のバルコニーの辺りにライモンダが行き、月の光を浴び思いに耽る姿がとても美しく、その後に石像のダーム・ブランシュが動き出す。 

ヌレエフ版では、男性の友人の踊りになる。(第3幕の子どもの踊りの曲による)
その後、眠りへ、そしてとても長〜〜い裾のドレスを着たダーム・ブランシュが現れ、
ライモンダにヴェールをかけて、ジャンの元へと誘う。
ヌレエフ版は、ヴェールの使い方(意味)が秀逸な演出だと思う。



第2場「夢の場」(Visions)
「パ・ド・ドゥ」
周囲は「天女」(公演パンフレット記載の役名)が囲む。
「天女」の意味はよく分からないのだが、
初演版では「La renommée」(名誉の女神)とされた役など多くのダンサーが舞台狭しと現れ、
ジャンは剣を捧げ、ライモンダは月桂樹の冠を彼に授ける。
それらは、出征兵士であるジャンを祝福する演出なのだろうが、
アリーエフ版では、なぜかそれが「天女」になっておりにわかには理由が分からない。

振付はマリインスキー版に拠っている。
冒頭、緩やかに回転し、リフトやアラベスクの決めのポーズを明確に示す。
音楽のテンポも相当に遅い。You tube で見られるロパートキナよりも遅く感じられた。
ここまで比較的速めのテンポで踊ってきたから、余計にこの差が際立つ。
これは、ジャンと初めて踊るパ・ド・ドゥを印象づけるための意図的なテンポ設定だろう。

米沢はその遅いテンポをしっかりとキープし、それ故に各ポーズが鮮明に浮き出してくる。
芳賀のサポートもそれを見事に支えている。
この前半部のテンポの遅さが、観る者を次第次第に夢の世界へと微睡んでいくように誘う。

中間部へ向かう直前の、上手奥から下手前へかけてのピルエットの連続が如何にも米沢らしく、遅いテンポから僅かに加速した中で軸を明確に示して鮮明。
その直後の身体を反らすポーズも柔らかで美しい。
米沢はこの公演で、アリーエフの指導を受け、
それまでにはなかったロシア的な上体の使い方を取り入れて成功している。
それ故に、以前よりもさらに大きく腕が伸び、曲線的な柔らかさが加わった。
以前は、時折、上体が硬い感じになることもあったが、今回はそれが全くない。

その後、オーケストラが大きく響き、また大きく反る、
ここに大きな「山」を持ってきたように踊っていた。
たぶん、それは音楽にそって踊った結果なのだろうが、
その後の幾度かのリフトも、空中でのポーズが浮遊するかのようだった。
ラストのアラベスク・プロムナードも軸線が素晴らしい。
全てに亘って、決められた形を明確に提示し、かつ音楽の美しさの上にそれを流し込んでいた。
素晴らしいパ・ド・ドゥだった。

アリーエフ版は、ヌレエフ版などと比べると、
ダンスというよりも形を明確に提示することが、この振付では求められていて、そこがある意味で歌舞伎の「型」に近いような古典性を持っているのだろう。
しかし、その型の提示にほとんど外連味を入れず、クリアに提示することで、グラズノフの音楽を美しく見せたことが、米沢のダンスレベルの高さだと思う。


参考
ヴィハレフ復刻版とヌレエフ版の「Vision 」の演出
ヴィハレフ復刻版
ダーム・ブランシュが、ライモンダが月の光を浴びたバルコニーの方へと導いていき
一旦幕が下り、その間に第2場への間奏曲になる。 
幕があくと、ライモンダはダーム・ブランシュに導かれ大階段をおり下手前に居るジャンへとダイブする。
そしてグランアダージョへ よく出来た構成だ。廻りには半円形となったLa renommée(名誉の女神)、ジャンの従者の騎士たちとキューピットが囲んでいる。
王子は剣をライモンダに捧げ、ライモンダはそれを高々と掲げ舞い下手前に剣を立て王子の月桂冠もそこへ掛け、
そして二人のダンスへ。
途中、騎士が月桂樹の葉をライモンダに渡し、ライモンダは勝利の女神として振る舞う。
周囲も途中でフォーメーションを変える。
音楽の美しさと二人の踊り、群舞が上手く構成されている。
ヴィハレフ復刻版 夢のパ・ド・ドゥ
https://youtu.be/OjVN-GiYbRU?t=5m26s


ヌレエフ版 
ダーム・ブランシュに導かれた先にジャンが顕われる。
抱きかかえられて舞台奥から前へ、ここはマリインスキー版と同じだが、振りは全く違う。
音にパをひとつ一つ付ける、音楽にそった感情をダンスで表現している。
全体に常にジャンがライモンダを導いていく。
ヌレエフ版ではライモンダの夢としてこの場面場明確に位置づけられる。
途中群舞は一切現れないが、音楽の最後に闇の中から現れ二人を囲み、パ・ド・ドゥから幻想ワルツへと見事に繋がる。
ヌレエフ版『ライモンダ』「夢のシーン」 1998年 パリ・オペラ座バスティーユ
アニエス・ルテェステュ、ジョゼ・マルティネス、ウィフィールド・ロモリ
https://youtu.be/rNe-0ryzXGg?t=34m3s



ヴァリアシオン3「夢のシーンのヴァリアシオン」
このヴァリアシオンでは、初演時から原曲ではなく、
グラズノフの「バレエの情景」(1894年)作品52-7「ワルツ」が使われている。

冒頭のアラベスク、ディベロッペのテンポがとても遅い。
このテンポでキープするのは至難の業だ。
繰り返し部のアラスゴンは少し速くなるが、
中間部のランベルセは、冒頭に近いような遅い速度で廻る。
このランベルセが美しかった。
こんなに遅いテンポで緩やかに体が半回転していくことを観る機会自体が、バレエを長年見ていても、
まず無い経験だったのだが、
その動きが繰り返されているうちに、次第にこの世のものとは思えなくなっていくのだ。
音楽の美しさをさらに増す米沢の動きが、観るものを現実とは別の世界へを誘う。
バレエは元々異世界への扉だ。
しかし、現実の舞台で一つの曲によって、一つの動きの繰り返しによって、異世界へと誘われていく思いがすることは、そんなにはない。
その場を見ている私は、陶然としたのだった。
コーダでは加速し軽快だ。


第1幕の米沢は夢のシーンでのパ・ド・ドゥとヴァリアシオンの
前半部分に遅いテンポでの型のキープとクリアさが、素晴らしかったといえる。
それはまるで、徐々に夢へとまどろんでいく、
ライモンダの心と身体との表現でもあるかのようで、見事だった。
キーロフ、マリインスキーで踊ったコルパコーワやロパートキナの踊り方に近いが、
美しいグラズノフの音楽をたっぷりと聴かせるテンポと
それをキープして踊り明示することで、登場人物の心理を著す、
三位一体のバレエを顕在化した。
クラシックバレエにおける技術と表現の融合とはこういう事なのだということに、改めて感じ入った。


「アブドゥルラクマンの登場」
ジャンに代わりアブドゥルラクマンが現れ、踊る。
一度幕が下りて再び開いて、友人たちがライモンダを心配して駆け寄ってきて目覚める。
この下りはマリインスキー版と同じ。





第2幕

ライモンダは、青い服を着て正面から友人たちとともに出てくる
すると音楽が勇壮なテーマに変わり、アブドゥルラクマンが登場する。
米沢のライモンダは、彼を見て最初からハッとするのではなく、
自分が夢で見たその人の記憶を、徐々に思い起こしているかのようだった。

アブドゥルラクマンが踊っている間、
下手前で伯爵夫人と語るライモンダは、体を半身にして
右手は夫人に、左手はアブドゥルラクマンに差し出されたように見える。
このポーズは今一度この幕の終わりに出るのだが、米沢はそこを意識している。
左手は意味もなくそこにあるようには見えなかった。

このシーン、ヌレエフ版ではアブドラムがひとしきり踊った後(このアントレの踊りが素晴らしいのだが)にライモンダに近づき彼女を守ろうとする友人たちをかき分け、やや強引にライモンダを引っ張り出す。
ローラン・イレールのアブドラム 2000年6月30日パリ・オペラ座バスティーユ
https://www.youtube.com/watch?v=J2qFzwjEs3k&index=56&list=PLobg54P1Yodz5jb2Fn0KD1_sk1F6u9Zys&t=520s


それに比べマリインスキー版に基づくアリーエフ版は静かだが、
しかし内に秘めた意志をもってライモンダを誘う。
ライモンダの方も、そこにどう応じるかが重要となる。
(同じロシアでもボリショイのグリゴローヴィッチ版はそうなっていない)

アブドゥルラクマンのテーマが沈静し、
管楽器が甘美なアルペジオを奏でだすと、
音楽は自然に次のパ・ド・シス(アダージョ)へと向かう。
(この辺りの音楽のつなぎもグラズノフは本当に上手い)
その音楽の流れの中で、ライモンダの左手はアブドゥルラクマンの方へと、緩やかにに差し出されているように見えてくるから不思議だ。
グラズノフの音のつなぎに、舞台上のダンサーの身体のあり方がシンクロすることで
ひょっとしたらダンサーの意図を超えた意味が、そこに現れてきたのかもしれぬ。
しかし、舞台の醍醐味とは、こういうシーンに立ち会うことだと、私は思う。

アブドゥルラクマンはその左手にこの上ない敬意を払い、ダンスへと誘う。
何のことはないシーンだが、ライモンダとアブドゥルラクマンが出会うこのシーンは、その後の二人の関係を決める重要な場だ。
音楽は、次第に異国趣味的な旋律を奏で始め、背景では管楽器がアルペジオを奏でつづける。
この上昇と下降の音の流れが、ライモンダの気持ちを現しているかのようにさえ思えてくる。


ライモンダは夢の中でジャンと踊った。
夢の中ではジャンにより、しかし、ここではジャンではない者と踊っている。
音楽も全く異なり、異国的で繊細(まさにグラズノフの真骨頂)。
ライモンダはこの異国的旋律が頂点に達する直前に
友人二人にリフトされ、それをアブドゥルラクマンが奪う。
そしてこの異国的旋律が頂点に達するところで上がり、下にさっと落とされ、アブドゥルラクマンが胸にかかえ抱く。
たぶん、未だうら若いかつ優雅なダンスしか知らぬライモンダにとって、このダンスは思いも寄らないほどに
強烈で、体が火照ってくるような体験だったのではないだろう。
しかし、その一方で、
音楽が徐々に静まっていくアラベスク・プロムナードでの 
上に差し上げられた米沢の腕の、何と美しかったことか。
アブドゥルラクマンの誘惑に対して、自らの高貴さをしっかりと指し示した腕だった。
だからか、友人二人にサポートされた決めのアチチュード・アンオウの気品はこの上ない。
ライモンダは美しい、まさにライモンダへの賛歌のようなパ・ド・シスだった。
その美しさは、アブドゥルラクマンの情熱により徐々に浮き上がってくるライモンダの内面と、気品に満ちたポーズを決める外面との両面が微妙に混じり合い、葛藤して作っているともいえる。


『ライモンダ』という作品は、音楽も振付けも素晴らしい作品であるのに、今日的な視点で見ると十字軍というキリスト教とサラセンの王の対立という「文明の衝突」的主題が見立つ可能性もある。
ヌレエフ版はそこを強く意識してか、自身も持つキャラクテール的性格を加味して、アブドゥルラクマン(ヌレエフ版ではアブドラム)のダンスにコンテンポラリー的なオフバランスを多用して、それを婚約者のジャン・ド・ブリエンヌと対等かそれ以上のものに仕立てた。
それを、初演者のジャン・ギズリクスを初め、ヌレエフ自身やローラン・イレール、カデ・ベラルビなど錚々たるダンスール・エトワールが踊ってきた。
その役の魅力ゆえに、ジャン・ド・ブリエンヌ初演者だったシャルル・ジュドはヌレエフにアブドラムを踊らせてほしいと懇願したほどだが、君は未だ若すぎると却下されたと述懐している。
またライモンダ初演者のエリザベート・プラテルは、第三幕のヴァリアシオンはアブドラムを思って踊るのだとも述べた。
『ライモンダ』のヌレエフ版が、元々優れが『ライモンダ』という作品を現在に甦えらせえたのは、ひとえにアブドラムをジャンの敵役から独立した魅力あるダンスと役に仕立てたことにある。

では、今回の版はどうだったのか。
2幕でのアブドゥルラクマンの踊りはそれなりに魅力的であり、単なるジャンの敵役以上のものにはなっていた。しかし流石にヌレエフ版ほどにはなっていない。

また、アブドゥルラクマンの意味は、三角関係の真ん中に立たさせたライモンダの演じ方次第でもある。
初日に踊った下村由理恵は、明らかにアブドゥルラクマンへの嫌悪感を滲ませていた。
こう演じてしまうと、アブドゥルラクマンはまさに「敵役」であり、それはそれであり得るのかもしれないが、9.11以降の「文明の衝突」が喧伝されてきた現代の私には、どうしてもそこは気にかかる。
しかし、米沢唯はそうはしなかった。
どちらかというと、米沢は音楽と振付に自身の身を任せて自然体だったといえるか。
彼女の舞台に対しての基本姿勢だと思うのだが、その場に身を委ねる。
特に初役の場合はそうなり、作為を敢えてしない。
しかし、だからこそ、グラズノフの音楽の持つ魅力が十二分に引き出されて、このシーンにより豊かな効果を生み出した。


ヴァリアシオン4「第2幕のヴァリアシオン」
第2幕でのテンポ感からすると、前半はやや速めに感じたが、
回転した時に米沢らしい軸線が事さらには強調されない。
これは、この愛らしいグラズノフの音楽に合わせて敢えてしていたのかもしれない。
その後のアラセゴンの繰り返しも、音楽に合わせ自然に上げられ、強調はされない。
中間部の回転してアラベスクの繰り返し部分ではややテンポを落とし、アラベスクのラインを見せる。
だが、その後が凄かった。
再現部、テンポが一段と落ちたかと思ったら、通常はサンジュマンの繰り返しの部分で
米沢はアントルシャを入れた。
マリインスキー版の映像ではロパートキナもそうはしていないし、パリ・オペラ座のプラテルもサンジュマンだった。映像で確認できるものでは、スカラ座でヴィハレフ復刻版を踊ったノヴィコワがしているだけである。当然、場内はまだ踊りきらない途中から大きな拍手に湧いた。ブラボーの嵐。

ヴィハレフ復刻版のオレシア・ノヴィコワのヴァリアシオン。
ノヴィコワは舞台中央奥からアントルシャをしているが、
米沢は、マリインスキー版と同様、舞台下手奥からディアゴナルにした。
https://www.youtube.com/watch?v=DzIbaLFUxN0&index=60&list=PLobg54P1Yodz5jb2Fn0KD1_sk1F6u9Zys


「コーダ〜決闘」
現在のマリインスキー(セルゲイエフ)版では、Danse orientale が省略されるているので、Danse orientale からBacchanale généraleへと流れて行く音楽の静から動への絶妙な変化の中で、ライモンダが徐々に誘惑されていくシーンが描かれないのが残念だ。
ヌレエフ版は「Danse orientale」にアブドラムのソロダンスを振付けそれが素晴らしい。
モスクワ・ボリショイのグリゴローヴィッチ版では、スパニッシュもアブドゥルラクマンが踊り、その続きで「Danse orientale」になりライモンダを誘惑するパ・ド・ドゥになる。
参照→ https://youtu.be/q-_C0iwIHwI?t=1h21m38s

ヴィハレフによる復刻版では、
ダンスこそ入ってないが「Danse orientale」を間奏曲的に使いそこで杯を酌み交わしている。
アリーエフ版はセルゲイエフ版と同様、スパニッシュの直後にバッカナールとなり、一気に決闘に向かう。
決闘場(ヌレエフ版は最初に木馬に乗って長槍でやり合うのが面白い)で、ジャンがアブドゥルラクマンにやられそうになると、ダーム・ブランシュのテーマが鳴る。
ヴィハレフ復刻版では、城壁の向こうにダーム・ブランシュが現れ、ライモンダは彼女を見て祈りを捧げる。するとダーム・ブランシュは鏡で反射した光をアブドゥルラクマンの顔に当てまぶしがったところをジャンが切りつける。

アリーエフ版では、セルゲイエフ版と同様にそこでライモンダが立ち会いのハンガリー王に歩み寄り助けを乞う。
ここで米沢唯も、同様にするのだが、彼女の仕草はジャンを助けるというよりも
「もう、この闘いを止めさせて」と懇願しているようもに見えた。

ダーム・ブランシュの助けはなくともこの版ではジャンが勝つのだが、倒れたアブドゥルラクマンにどのように接するかは、ダンサーによる。
倒れてもなお這いつくばってライモンダに寄っていくアブドゥルラクマンに対して、あからさまな嫌悪感を表したり、逃げたりすることは普通かもしれない。
米沢唯は、顔を背けているのだが、
左腕は出会いの場面と同じようにアブドゥルラクマンの方へと差し出されている。
その姿は、恐怖や嫌悪というよりも深い哀しみを湛えているように見えた。
私のために闘いが生じ、アブドゥルラクマンが斃れたことへの思いだったかもしれない。
音楽は高揚し、ジャンの勝利と二人を祝福するのだが、
米沢のライモンダはそれほど晴れがましい表情には見えなかった。

このシーン、
パリ・オペラ座で見たエリザベット・プラテル(パリ・オペラ座バスチーユ 2000年7月6日)は、
家来たちに運ばれていくアブドラムを思わず追いかけ、駆け寄っている。
現在の感覚からすれば、決闘で斃れた者への哀悼があってしかるべき場であろうし、プラテルの場合は、ヌレエフ版がアブドラムをジャン以上に魅力的なダンスを踊らせ仕立てていたので、実はアブドラムに惹かれていたのではないかとさえ思えた。
セルゲイエフ版に基づいているアリーエフ版の場合では、そこまで考えることは不可能であるが、この版の範囲内で、米沢は現代の見物がそれなりにリアリティを感じられる演技をしたといえる。
しかし、実際はそれは意識的にしたというよりも、舞台の生の場で米沢の身体が自然にそうせざるを得なかったのが、本当のところかもしれない。



第3幕
ヴァリアシオン5「第3幕のヴァリアシオン」〜「コーダ」
米沢唯のヴァリアシオンは、静謐感が漂っていた。
これは2幕からの流れとを承けている。
元々、この場面でなぜこのような異国趣味的な音楽でライモンダが踊るのかが、不思議な場面で、
ハンガリアンダンスの動きを見せる仕草はそこそこにあっても、音楽はそういうものを感じさせない。
パ・ド・ブレでの静かな漂うような動き、その合間のハンガリアンポーズ、しかし、ピアノの音はさらにさらに漂うことを求めているかのように続く。
米沢は、脚を差し出すことも、体を揺らすこともことさら強調はしない。
ただ遅めのテンポに身を任せて舞っている。
何かを鎮めるように、しかしまた何かを体で感じるように。
静かな緊張感が舞台にぴんと張り詰める。
しかし、後半部、曲想が改まると次第に加速し始める。
そこには、ある種の決意のようなものが現れてくるように思えた。
何の決意か分からない。毅然とした気品がそれを観るものに感じさせるのかもしれない。
そして、また、最後はゆっくりと体を鎮める。

それは、あのコーダにももちこす。
ための効いた一拍目、ヴァリアシオンと同じように遅めのテンポでサンジュマンが踏まれる。
そして左右の腕が次第次第に大きく広げられていく、大きく。
ヴァリアシオンで感じた、米沢の決意がさらに強く響いてくる。
「私はこう生きるのだ」と、「私はこう生きることを選んだのだ」と。
ライモンダのこの場面で、こんなことを感じたのは初めてのことだった。
彼女は何を決意したのか。
この公演の2018年3月11日は、偉大なマウリス・プティパのまさに生誕200年のその日にあたっていた。プティパが振付け最後のグランバレエである『ライモンダ』をこの日に踊る喜びが、ダンサーとしての何かを発散させていたのかもしれない。

しかし、一方で私は思わずにはいられない。
この日がちょうど、あの「3.11」であることを。
2幕でアブドゥルラクマンがジャンの剣に斃れ、ライモンダにすがりながら息絶えた頃、
時刻がちょうどあの午後2時46分だったことは、ただの偶然だったのかもしれない。
(東京文化会館大ホールの舞台脇の壁面には大時計がある。これが新国立劇場だったら気づかなかっただろう。)
しかし、亡くなった者たちを忘れない。
そのことを胸に刻んで、私は生きる、私は踊る、そういう声を
米沢唯のライモンダから、私は強く響いてくるのを、聴いたのだった。

『ライモンダ』という作品から、こんなことを感じるとは、
私自身にもとても意外なことだった。
だが、作品には様々な可能性がある。
その時、その場で踊るダンサーの身体と音楽とが、今までに感じたことのにことを、観るものに身体から引き出す、そういう事もあり得るだろう。
2018年3月11日に観た、米沢唯の『ライモンダ』は、まさにそういう一期一会の舞台に思えた。
(了)



『ライモンダ』(全幕上演のみ)上演史
日時 バレエ団 演出・振付者 ライモンダを踊ったダンサー名 の順に並べてあります。

1898年 1月 7日 マリインスキー 初演 マウリス・プティパ版  Pierina Legnani
1900年 1月23日 モスクワボリショイ初演 Ivan Clustine版  Adelina Giuri 
1908年 11月30日 モスクワボリショイ アレクサンドル・ゴルスキー改訂版 Ekaterina Geltser
1931年 1月 8日 マリインスキー アグリッピーナ・ワガノワ改訂版 Olga Jordan
1935年      リトアニア国立バレエ Nicholas Zverev振付版 (ロシア以外初演)Vera Nemchinova  
1938年 3月22日 マリインスキー ワシリー・ワイノーネン改訂版 Galina Ulanova
1945年 4月 7日 モスクワボリショイ レオニード・ラヴロフスキー改訂版 Marina Semenova
1948年 4月30日 マリインスキー コンスタンティン・セルゲイエフ改訂版 Natalia Doudinskaya
1964年 6月19日 ロンドンロイヤルバレエ(スポーレトフェスティヴァルで上演) ルドルフ・ヌレエフ改訂版 Doreen Wells
1965年 11月6日 バーミンガムロイヤルバレエ ルドルフ・ヌレエフ改訂版 Margot Fonteyn   
1970年 6月23日 マリインスキー コンスタンティン・セルゲイエフ改訂版 Irina Kolpakova
1972年 1月22日 チューリッヒバレエ ルドルフ・ヌレエフ新改訂版 Maricia Hayde
1975年 6月26日 アメリカンバレエシアター(ヒューストン、アメリカ合衆国初演)ルドルフ・ヌレエフ新改訂版 Cynthia Gregory 
1981年 7月8日 牧阿佐美バレエ団 テリー・ウエストモーラント版(日本初演) 大原永子
1983年 11月5日 パリ・オペラ座ガルニエ ルドルフ・ヌレエフ新改訂版(パリ初演) Elisabeth Platel
1984年      モスクワボリショイ ユーリ・グリゴローヴィッチ改訂版 Ludmila Semenyaka
2004年 10月15日 新国立劇場バレエ団 牧阿佐美改訂版 Svetlana Zakharova  


以下のjpg版の方がより詳細なものになっております。

"Chronologie de Raymonda" jpg 版

jan.1898 〜 mar.1946
Chronologie de %22Raymonda%22 1.jp2

1946 〜 jun.1975
Chronologie de %22Raymonda%22 2.jp2

oct.1979 〜 mar.2018
Chronologie de %22Raymonda%22 3.jp2






































posted by 星跡堂主人 at 22:59| 東京 ☔| Comment(0) | 舞台 Theatre | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする